逸脱因子


 もう梅雨も明け夏に足を踏み込んだというのに、湿度が高くジメジメとした日が続く。
 こう空気が重いと、気持ちまで重く沈んでしまいそうである。
「ちょ…、離して!」
 今は学校生活で所謂放課後と呼ばれる時間帯。ねっとりとした空気とは違い、乾いたように閑散とした街の一角で、その声が響いた。
 背丈や顔立ち、服装から見て恐らく高校生であろう男子が3人。彼らは少し円を描くように横に並び、車1台が通れるほどの道路を陣取っている。そしてその彼らと向かい合うように、更に付け加えるならば1人の高校生に腕を掴まれているのは、やはり制服に身を包んだ学生。その制服や通学鞄に描かれている校章を見る限り、どうやら中学生のようである。
 はっきりとしていることは、身に付けている服がブラウス+リボン+スカートであることから、その学生は彼女≠ニ称されるということだ。
 ちなみに今の状況は、行き過ぎたナンパ、と言ったところだろうか。独りで家路についている時、男子高校生3人が彼女に声をかけた。ありきたりに、今独り?よかったら一緒に遊ばない?などと。独りであったことは事実だが、彼らに付いて行こうという気は、彼女には全くなかった。だから断ったのだ。「すみませんが、遠慮します」と。
 彼女に声をかけた彼らの気持ちは、分からなくもない。胸元まで伸びた黒髪、その髪と対照的な透き通るような白い肌、優しそうな二重の瞳、ふっくらとした口唇、細身の身体。所謂、清楚可憐。彼女の容姿を説明するならば、そういった言葉が並べられるのだから。
「なぁ、別にいいじゃん。急いでる感じじゃないし、用事があるってワケでもないんだろ。ちょっとだけだからさ、俺らに付き合ってよ」
 しかしだからといって、断ったというのにこれは如何なものか。そもそも、彼女に声をかけた時「よかったら一緒に遊ばない?」と言ったのだ。都合が悪くて断った以上、彼女を引き止めることは間違っている。
 言葉で言っても無駄だと感じた女子中学生は、彼らを無視してこの場を離れることに決めた。足早に立ち去ろうとしたのだが、3人のうち真ん中にいた高校生に腕を掴まれる。振り払おうとするものの、中学生と高校生。まして女と男だ、彼の力には勝てず、無駄な労力だけとなってしまう。
 そして、冒頭に至るのである。
 放してくれと懇願しようにも、彼にその気は全くなさそうだ。他の2人も彼女が万一逃れた時のためだろう、彼女を囲むようにして顔をニヤつかせている。
 更に悪いことに、ここは人通りが極端に少ない道路である。車も通ることは滅多にない。現に彼らに声をかけられてから、車はもちろん誰も通っていないのだ。助けを乞おうにも、それを聞き取ってくれる人すらいない。彼女は、高校生たちに従うしかないのだろうか――。
「別に悪いことはしないって。ただ一緒に遊ぼうぜって言ってるだ、げぶっ…!」
「杉本っ!?」
 突然、彼女の腕を掴んでいた高校生が、奇怪な声を発して地に倒れ込んだ。一体誰が、と思った他の2人の高校生は、倒れ気を失っている高校生に駆け寄りながら周りを見渡す。しかし自分たち以外、誰も見当たらない。
 ということは、信じ難くそしてあまり信じたくはないが、
「お、お前がやったのか!?」
 2人が睨み付けるのは、自分たちがナンパした女子中学生。彼女は右手に鞄を持ち、何もなかったように立っている。彼女が友人――杉本を卒倒させるほど殴った(若しくは蹴った)とは考えられないが、他に誰もいないのだから、それが真実なのだろう。彼らの身体も表情も次第に強張っていく。
 そしてつと、女子中学生の無表情だったその表情は一変して、柔らかな微笑みを浮かべた。警戒していた高校生はその表情に、ほっと緊張を緩める。その時だった。
「ぐっ…!!」
 女子中学生が、高校生の腹を勢いよく蹴る。思いがけない衝撃と痛みに、唸り声と共に腹を抱えて蹲った。その様子を見て、もう1人の高校生は「この野郎!」と彼女に掴みかかろうとするのだが、彼を軽くかわし弧を描くように脇腹に蹴りを入れる。同時に聞こえた、鈍い音。
 杉本に続いて、また1人地に倒れた。すると先程腹を蹴られた高校生が、ゆっくりと起き上がろうとしている。
 ふわりと翻る、膝丈のスカート。その直後、彼女は大きく空に上げたすらりとした脚を、思い切り振り下ろした。腹に加えその蹴りを背に受けた彼もまた、地面に倒れ伏せる。
 狭い道路に転がっているのは、3人の男子高校生と、指定の通学鞄が4つ。それらを一瞥する女子中学生が1人。
 彼女の名前は、児島柚菜(ゆずな)。地元の公立中学校に通う3年生である。
 柚菜は少し広がってしまったスカートを手で直し、思い切り暴れたためすっきりとした表情で、邪魔だと放り投げていた通学鞄を持つ。そして倒した高校生らはそのままに、家路につこうとした。しかし、またもや引き止められる。
「強ぇ姉ちゃんだこと」
 背後から声が聞こえ、柚菜は振り返る。そこには1人の青年が立っていた。
「俺の出る幕、全然ねぇもんな」
 彼もまた、服装から見て恐らく高校生。新たなナンパだろうか。相手にするのはもう御免だとばかりに、彼のことを一瞥したのち話は無視して歩き出した。
「え、ちょ…、無視すんなって」
 声をかけた以上、高校生もこのまま引き下がるわけにはいかないのだろう。さっさと行ってしまう柚菜を駆けて引き止めた。いや、引き止めたという表現は間違っている。何せ柚菜に追いついたものの、彼女は相変わらず無視して足を止めることなく歩いているからだ。
 そんな彼女に、歩を合わせながら思わず高校生は溜息を漏らす。こちらの話には一切耳を傾けないつもりなのかもしれない、と。
「……見てたんですか」
 しかし彼の予想に反して、柚菜は口を開いた。
 その声は容姿に合わないほど凄みを利かしており、視線は痛いほど鋭い。
「それなら助けてくれてもいいじゃないですか、鈴原先輩?」
 その言葉に彼の表情は一瞬固まり、次いで笑みを零した。
「俺んこと知ってんの?」
「中学が同じでした。先輩、有名でしたよ。最低の女タラシっていう、悪い意味で」
 柚菜は、にっこりと笑いながら棘のある言い方をする。
 高校生の名前は鈴原大(だい)。彼女の言う通り、女子中高生の間では密かに有名な、女タラシの軟派野郎である。ちなみに彼は、柚菜にとって2つ歳上の先輩にあたる。
「で、その女タラシ最低野郎の鈴原先輩が、私に何の用なんですか?」
「……口悪いなぁ。せっかくのキレイな顔が台無し」
 鈴原は、何故この子からこんなにキツイ言葉が出てくるのかと疑問に思う。一目見れば綺麗、可愛いと言われるような容姿だ。一体誰が、彼女の口から嫌味を含んだ言葉が出てくると想像するだろう。正直、ショックだったということもある。だからこそ正直な気持ちを言葉に表したのだが。
「誤魔化さないで、さっさと答えて下さい」
 サラッとかわす柚菜。その鋭い瞳と言葉に萎縮しまった鈴原は、溜息を吐きしぶしぶ彼女の質問に従った。
「帰宅途中、ナンパされてる女の子に遭遇。無視しようと思ったけど、何かヤバめだったから助けに向かう。そしたら俺が出る前に女の子は男どもをボッコボコに。よく見たらかなり可愛いし、声をかけたってワケ」
 これでいい?
 鈴原は、いつも声をかけた人に向けるのであろう、柔らかなふわりとした笑みを作る。だがしかし、彼のすらすらと並べられた言葉に、柚菜はふぅん……と声を漏らしたかと思えば、やはり何事もなかったように歩き続けるのだ。
 これには鈴原も頭を悩ませた。それでもこのまま引き下がってたまるか、とばかりに新たな質問をぶつける。
「それにしても。さっき思い切り足上げてたけど、下見えんじゃないの?」
 さっきとは、柚菜をナンパしていた高校生らを蹴り上げた時のことだ。スカートだというのにお構いなしに、彼女は思い切り足を上げていた。あれではスカートの下が見えてしまうのでは、というのが彼の意見である。尤も、制服という襞が多く大きく広がるスカートだからこそ、そこまで足を上げることが出来たのだが。
 すると、柚菜は歩く足を止め、初めて鈴原と身体が向かい合うようにする。ようやく俺の話をまともに聞いてくれるのか、と鈴原が少し揚々になるのも束の間。
「下に短パン穿いてますから」
 何と彼女はそう言いながら、自分のスカートを思い切り捲り上げたのである。
 これには鈴原も言葉を失う。もちろん捲られたスカートから覗いているのは、彼女の言う通り陸上部がよく穿いているような、短い朱色のズボン。鈴原が納得しただろうと解釈した柚菜はスカートを整え、また歩き出す。そんな彼女に置いていかれないようにと、鈴原も我に返って彼女の隣を歩き始めた。
「……男としては嬉しい行為だけど、もう少し羞恥心持った方がいいんじゃねぇか…?」
 どちらも鈴原の本音である。
 スカートを捲った時、言葉が卑しいのだが生足を拝めることが出来たのは、正直言ってしまえば嬉しく、ラッキーなことこの上ない。
 しかし、だ。彼女が鈴原のことを以前から知っていたとしても、話をしたのは今日が初めてである。にも拘らず、スカートを捲り上げるような行為を普通するだろうか。いや、普通ならまずないだろう。
「別に。下着じゃないんですから、恥ずかしいも何もありませんよ」
「……そういうモンか?」
「少なくとも私はそういうモンです」
 そうアッサリと言われてしまうと、反論も助言もしようがない。
「せっかくキレイな顔してんだし、わざわざ自分の印象下げるようなことしなきゃいいのに」
 鈴原はぽそり、と独りごちる。しかしどうやら柚菜には聞こえていたようで、
「先輩に媚売るつもりはありませんから」
 彼女は優しい声色でそう言った。尤も、目は決して笑ってはいなかったのだが。
 結局のところ互いの印象としては、柚菜は以前から知っていたということもあり、相変わらず鈴原は「女タラシの最低野郎」から何ら変わりはなかった。寧ろ、改めてその言葉がよく似合っているとさえ思っていた。
 一方鈴原の柚菜に対する印象はというと、顔貌は綺麗だが少し変わっているかもしれない、といったところだ。ただ、今まで幾人もの人と付き合ってきたが、彼女のようなタイプは初めてだった。
 いつか絶対にオトしてやる。密かに鈴原は、そう誓ったのである。







 それからというもの、何故か柚菜と鈴原はよく顔を合わせるようになった。
 共に地元の同じ中学出身なのだから、会うこと自体はさほどおかしいことではない。しかし、これまで柚菜は中学校内でしか彼を見たことがなかった。つまり柚菜が1年、鈴原が3年生の1年間だけである。
 それが先日会って以来、何故か突然顔を合わせる頻度が多くなった。
 ちなみにそれに喜んでいるのは鈴原で、あまりに多過ぎるためにげんなりしているのは柚菜だ。更に彼女は次第に鈴原を先輩として敬うことも少なくなり、名前を呼ぶ時こそ「鈴原先輩」だが、敬語を使わなくなっていた。特に鈴原自身も咎めなかったということもあるのだろう。
 そもそも、何故女タラシと呼ばれるほどまでに彼が異性に好かれ、そのような異名を持つにも拘らず彼を求める異性が絶えない理由が分からない。
 何だかんだ言って、柚菜も年頃の中学生。恰好良い人の方が好きだし、鈴原がその部類に入っていることは分かっている。だが、二股なんて当たり前。悪い意味で女に誰彼問わず愛嬌を振りまく。何故それを知っていて彼と付き合ったりするのかが、柚菜には理解出来ないのである。
 実際、最低の女タラシという悪い評判がある反面、本気ではないにしろ彼が好きだ、と言う友人も多かった。ちなみにその友人たちの、鈴原が好きだという気持ちは未だ分からずじまいだった。
 そんなある日。柚菜は毎日ほぼ変わることのない風景を傍目に、中学校から帰宅途中。またもや彼女は、高校生に声をかけられた。
 今日はまだ諦めの良い人だったものの、断るという行為自体が彼女にとって苦痛であったりする。大人しそうな外見とは違って性格は存外サッパリしており、言葉で気持ちを表したりするのは正直苦手だ。だから少々面倒というか迷惑ではあるのだが、以前のように力尽くでこちらの気を向かせようとする方が、正当防衛として相手を伸すことが出来るため、気持ちはスッキリしたりする。
 毎日とはいかなくとも、こうも頻繁に苦手なことをしていると、さすがにどっと疲れがやってくる。
 そのため、柚菜は珍しく寄り道をした。少しでも気分を紛らわすため。
 ……しかし、何と運が悪いのだろう。休むために寄り道をした小さな神社で、かえって神経を使うことになってしまうなんて。
 神社はとても静かだった。雀だろうか、鳴き声が微かに聞こえるくらいだ。柚菜は少し錆びてしまっている青いベンチに腰を下ろし、鞄を置いた。思わず出てくるのは、溜息。
 友達と騒ぐのは好きだが、こういったゆったりと流れる時間も決して嫌いではない。目を閉じ身体をベンチの背に預け、柚菜は初夏の風や空気を肌で感じていた。
 つと、靴で土を踏む音が聞こえた。その音は少しずつ大きくなっていく、ということはこの神社に誰かが入ってきたのだろう。
 公共の場であるのだから仕方ないとはいえ、この時間を邪魔されてしまったことに少々腹立たしさを覚えながら、その音の方向へ神経を集中する。
「ちっ、やってらんねーよ。18にもなって、何で先公の言いなりになんなきゃなんねぇんだ」
 どかっと神社の隅にあるベンチに腰を下ろしたのは、制服に身を包んだ男。柚菜の斜め前にあたるベンチにだが、かろうじて表情が分かるほど離れている。盗み聞きした彼の言葉からすれば高校生なのだろう。
 彼は制服のポケットから小さな箱を取り出し、小さく上下に振ってその中身を出す。はっきりとそれが何なのかは分からなかったが、更に取り出した別の小物を中身のそれに近づけ、彼の口から煙が吐き出された様子を見る限りは、その煙は紫煙で小さな箱の中身は煙草だと推測出来た。
 柚菜の周囲で、煙草を吸っている人はいない。高校生の吸っている姿、というものも珍しく――実際は吸って良いものではないのだが――視線を逸らそうという気持ちはなかった。
 ただ、この時見知らぬ顔をしていれば良かったのだ。柚菜の視線を感じたのか彼と目が合ってしまい、そのためにこの後思わぬ事態になろうとは……。
「ガキが。眼(がん)付けてんじゃねぇよ」
 そう言って、煙草を指で挟んだ高校生は柚菜の前に立つ。
 着崩した詰襟の制服、明るい茶色の髪、そして紫煙の匂い。人を外観で判断するものではないが、彼の場合それは些か難しいだろう。
「運が悪かったなぁ、よりによって機嫌の悪い時に目ぇ合っちまってよ」
 そんなこと知るかっ!と心の中で叫びつつ、彼を見てしまっていたのは事実なのだから、自分に落度があったことは否めない。また、今目を逸らせば却って相手を苛つかせてしまうかもしれないと、ただ動かず彼の様子を伺う。そうしていると彼は何か思い付いたかのようにニヤリ、と笑った。
「なかなか可愛い顔してんじゃねぇか。この可愛い顔、ぐちゃぐちゃにしてやろうか?」
 座っていた柚菜を、彼は無理やりベンチから立たせた。次いでブラウスが皺になってしまうのではないかというほど、リボンごと柚菜の胸倉を思い切り掴む。彼の方が身長が高いため、柚菜は引っ張られ少し背伸びをするような恰好になった。
 厭な笑みだ。人を見下したような、自分以外は卑しい存在だと思っているような、そんな笑み。虫唾が走る。正直、耐えられそうにない。
「っ!?」
 しまった、と思った時には遅かった。
 柚菜はがら空きだった高校生の脚を蹴り上げ、更に軽くではあるが鳩尾に拳が入ってしまったのである。
 突然の痛みに彼は、思わず柚菜の制服から手を放す。手を出してしまった以上、もう後には引けない。蹴られた脚を手で押さえながら、ゆっくりと体勢を戻す高校生との間合いを取るように、柚菜はベンチから離れ彼と距離を作った。
 彼もまさか柚菜が手を出すとは思っていなかっただろう。外見云々だけでなく、相手が自分より年上で男だというのに、絡まれたからといって口だけでなく手までもを出す者は滅多にいない。
 同時にこうして手を出してしまった時、相手が信じられないといった表情をするのは、正直柚菜にとってさほど珍しいものではない。そしてその時こそ、言葉はあまり良くはないが仕留める絶好のチャンスである。
 状況を上手く把握出来ていないということは、冷静さを欠いているということでもある。ならばそれほど気を張ることなく相手を倒させることが出来るうえ、上手くこの場を逃げ出すことも可能だろう。そうとなれば躊躇っている暇はない。軽く息を吐き、今度は思い切り鳩尾に蹴りを入れようと構えた、その時だった。何か目の前で光り、柚菜は一瞬目を細める。
「ッ…!」
 その直後、頬に微かな痛みを感じた。恐る恐る指で触れると、そこにあるのはピリッとする痛みと朱の液体。……血だ。
 うっそ、マジで…?
 高校生が手にしていたのは、小さなナイフ。先程光ったのはそれだ。今太陽は柚菜の背の方にあるため、太陽の光がナイフに反射して彼女の視界を遮ったのである。思わぬ物が出てきたと、さすがに柚菜も後退った。
 素手ならばある程度体格で劣っていても勝つ自信はある。だてに力で事を解決しようとしていないのだから。しかし、刃物を持つ人を相手にしたことはない。いや寧ろ、そんな人とやり合う機会がある方が珍しいだろう。偏見というわけではないが、たとえ喧嘩慣れしていると言っても彼女は女子中学生である。
 とにもかくにも今問題なのは、これからどうするか、だ。鞄はベンチに置いたまま。それを放って逃げたとしても、走力で敵うかどうかは分からない。
 全く……。こんな時に限って現れないって、どういうことっ!?
 自分勝手だとは思うが、そう叫ばずにはいられない。いつも嫌というほど鈴原と顔を合わせてしまうというのに、肝心なときに現れてはくれないのだから。
『ま、程々にしとけよ。時偶ナイフとか持ったヤバい奴もいるし、そんな奴に喧嘩吹っかけたらたぶん女だからって容赦しねぇぞ』
 以前、鈴原がそう言っていたことを思い出す。実際に彼が言っていた状況に出くわしてしまったため、存外負けず嫌いな柚菜は、ムカムカと腹が立ってきた。忠告を聞かないからだ、と言われたくない。女タラシの最低野郎だからこそ、余計にそう思う。
 柚菜は小さく深呼吸をし、高校生を見据え手をグッと握る。
 集中しろ、柚菜。大丈夫、落ち着けばやれる。目を逸らさず、相手の動きを見ろ――!
 神経を集中させ、動きを一瞬止めた柚菜に、今が好機とばかりに高校生は彼女の方へ突っ込んできた。しかし彼女にとっては寧ろそれが好機であり、刺そうと伸ばしたナイフを持った手を素早い動きで払う。どっ、と地の上に落ちるナイフ。更に柚菜は1歩踏み込み、大きく振り上げた脚を鳩尾に蹴り入れた。
 そして声を発することなく、高校生は気を失い仰向けに倒れ込んだ。
「は、は……、…ふ……」
 さほど動いたわけではないのに、息が切れる。それだけ気を張り詰めていたということだろう。柚菜はゆっくりと腰を下ろし、倒れた高校生に背を向けて座り込んだ。
 だが、これで鈴原にとやかく言われる心配はない。ナイフを払い高校生を倒せたことへの安心感、そして鈴原に弱味を握られずに済んだ安堵感から、長い溜息を吐く。
 その時だ。背後で鈍い音と低い唸り声、次いで人が地面に倒れる音がした。頸を動かして振り向く柚菜。そこには先程とは違い倒れ伏せた高校生と、ほっとしたような表情の鈴原がいたのである。
「気ぃ抜くなって。背後から来たら避けられねぇだろ?」
 制服を着ているため、彼も学校帰りだということが分かる。
 いや、そんなことよりも、彼の言葉から考えられるのは高校生は気を失っておらず、柚菜に向かっていたのかもしれない、ということだ。ふと思えば、払ったナイフも地面に落ちたまま拾ってはいない。その状態ではいつ襲いかかれてもおかしくはなかった。ナイフを払ったことで気を抜き過ぎてしまっていたのだ、もし背後からナイフで刺されてしまっていたらと思うとゾッとする。
 ……つまり、結局は鈴原が来てくれなければ柚菜の身は危なかったかもしれない、ということだ。それは鈴原に助けてもらったということで、貸しが出来てしまったということで。本来ならばもしかして、いやもしかしなくてもお礼を言わなければならない状況なのでは…………。
「これ、児島の鞄?」
「え…?あ、そうだけど」
 柚菜が独り頭の中でぐるぐると思考していると、鈴原が放ってあった柚菜の通学鞄を持ち上げ、問う。彼女の通学鞄はスポーツバッグのような形に、校章が印字されている。彼はそれを肩にかけ、自分の鞄(持ち手はショルダータイプである)も肩から斜めにかけた。
 更に柚菜に立つよう促すのだが、ふいと視線を逸らす。鈴原が気絶させた高校生がいる以上、いつまでもここにいるわけにはいかない。だから立つよう促したのであって、それは柚菜自身分かっている。彼女もいつまでもここにはいたくない。
 ……しかし、立てないのである。正直に言ってしまえば、腰が抜けてしまっていた。
 だからとはいえ、それを鈴原に言うことは出来ない。いや言いたくない、絶対に。結果的に助けてもらったことにはなるが、こんなことで彼の最悪なイメージが拭われるはずもなく、こんな奴に弱味を見せてたまるか!というのが今の柚菜の気持ちだ。自分のことなど放っておいてくれ、と口に出そうとした時。
「な、何してんのよっ!」
 思わず大声を上げる。あろうことか、鈴原は柚菜を抱き上げたのである。まさか抱えられるとは思っていなかった柚菜は、地へ下ろしてもらおうと必死で抵抗する。
 しかし鈴原はそんなことはお構いなしに境内の外へと歩き出した。抱えられるのは厭だが、こうなっては抵抗すれば振り落とされるかもしれない。さすがにそれは避けたいので、不満ながらも柚菜は大人しくしていることにした。尤も、落ちないように彼に自分から掴まることはしたくなくて、彼女の手は居場所を探していたのだが。

 暫く歩いた近くの川の土手で、鈴原は抱えていた柚菜を下ろした。因みに助けてもらったお礼は、タイミングを逃してしまい未だ言えずじまいだ。嫌味を含んだような言葉ならポンポンと出てくるのだが、それ以外に関しては上手く表すことが出来ない。損な性格だと、こういう時つくづく感じる。
 今からどうすればいい、何て言えばいい……。またもや独りで思考を巡らせていると、鈴原が右隣に腰を下ろした。座ったということは、まだ帰るつもりはないということだろう。いよいよどうすればいいのか分からなくなる。
 さっさと帰れ…!なんて独り心の中で叫んでいると、「なぁ……」と隣から声が聞こえた。何だろうとゆっくりと彼の方へ視線を動かし、耳を傾けてみると、
「偶には甘えてみたらどうだ?俺はいつでも歓迎するぜ」
「だ、誰があんたなんかに…、って、この手はなに!!」
 鈴原は柚菜の腰に、するりと腕を回した。先程よりも彼の顔が近いのは気のせいだと思いたい。もうとにかく彼を遠ざけようとするのに必死である。
「まぁ細かいことは気にすんなって」
「気にするに決まってるでしょう!?」
 だが柚菜の静止の声は聞き入れてもらえず、鈴原は更に自分の方へ抱き寄せ、柚菜の眦へ口唇を寄せる。
 ――厭だ……!
 告白されたことは幾度かあるが、今まで異性と「付き合」ったことはない。もちろんキスなどもしたことはない。何だかんだいってまだ中学3年生、そういったことはちゃんと「好き」な人としたい、と思っていた。
 鈴原のことは好きではないが、耐え切れないほど嫌いだというわけでもない。
「っ…、やめ…!」
 しかし、柚菜の拒否に反して、鈴原は彼女を包み込むように抱き締めた。
「恐かったら、恐いって言えよ」
 きっと気のせいだ、彼の声が優しく聞こえるのは。あんなタラシ野郎の言葉なんて、真に受けちゃ駄目だ。
 柚菜は鈴原を素直に受け入れることは認めたくないと、言い訳を必死で考えようとする。だが、
「……柚菜」
 耳元に響く優しい声色に、何とか繋いでいた耐えようとする感情がぷつんと切れた。柚菜はゆっくりと手を伸ばし、鈴原の服を掴む。震える手を何とか誤魔化そうと、そして不本意だけど、と自分に言い聞かせて。
 ほんの少しだったが、柚菜が初めて鈴原に気を許した瞬間(とき)だった。







 数日後、偶々見ていたテレビで「親和要求」という言葉が出てきた。
 親和要求とは、我々人間は他人と一緒に仕事や生活をしていて、それらを「したい」と思う要求のこと。簡単に言えば他の人と一緒にいたい、という気持ちである。恐怖や不安がある状況では、人は知人だけでなく偶然居合わせた見知らぬ人とでも、その親和要求が増加するのだという。
 何故不安ならば親和要求が増すのか。例えば、他の人に話しかけることで、緊張や苦痛を軽減出来る。そのため一緒にいたい、と思うようになるのである。
 ……認めたくない。断じて認めたくないが、どう考えても先日の状況に当てはまってしまう。
 確かにあの時、正直に言ってしまえば恐かった。鈴原に弱味を握られたくないと、必死でその感情を抑え高校生の持つナイフを払おうとしていたのだ。
 だって、仕方ないではないか。そうして抑えていた感情を曝け出しても構わないなどと、優しい声で促され包み込まれてしまったら縋ってしまう。それは別段おかしいことだとは思わない。その相手が、鈴原という事実が許せないだけであって……。
 ……いや、それが恐らく「親和要求」なのだろう。柚菜は自分で考えておきながらも、小さく諦めのような溜息を吐いた。
 あの日鈴原に抱き締められた後、そのままの恰好で彼から好きだ、と告白された。
 まさかそんなことを言われるとは思っておらず、柚菜は仄かに頬を赤く染める。何だかくすぐったくて、恥ずかしくて。鈴原から顔を背けるように、彼の腕の中で身体を小さく捩った。
「お、もしかして脈アリ?」
「ちっ、違うわよ!」
 そして彼の言葉で我に返った柚菜は、否定しつつ彼から離れようとする。しかし顔を赤く染めてしまっていては、否定してもそれこそが「否定」だろう。自分の顔が熱くなっている自覚があるからこそ、どうすれば良いのか頭がパニック状態になりそうだ。
 そんな彼女を見て、鈴原は思わず微笑う。
「なぁ、俺と付き合わな」
「お断りしますっ!!」
 キスをしようとする鈴原の顔を、ぐぐっと手で押さえながら柚菜は大声で拒否した。
 絶対に好きになんてならない。弱味なんて2度と見せない。
 周りの友達から何と言われようと構わない。皆から趣味が外れていたとしても、絶対に好きになんてならないんだから…!
 柚菜はこの時、そう心の中で誓いを立てた。
 だが正直なところ、鈴原自身はもう自分が勝ったも同然だと思っていた。本当に自分のことを嫌っているのなら、好きだと言われても動揺などしないだろう。それが予想以上に脈アリだったのだから。
 柚菜が鈴原にオトされる日は確実にくる。
 彼女には悪いが、どう足掻いてもそれは避けられない事実なのだ。

 

 

 

 

 


2005.8.6

7月期のサークルに出した作品です。
出したのがギリギリだったので、申し訳なかったなぁ;
「親和要求」というのは、大学の講義で出てきたので出してみました。
心理学は特に、こうして書いていても勉強になります。
今回の設定とリンクさせた話を書きたいなぁと思っているのですが、
実際に書けるかどうかはもちろん不明……




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