わが願いを叶え給へ


 ――…拓巳。
 誰かが、俺の名前を呼んだ気がした。





 ピピピピ、と高い電子音が響く。腕を目一杯伸ばして、その音を強制的に切った。
 夏の匂いも遠退き、この時間ではカーテンの隙間から陽が漏れることはない。同時に、目覚まし時計がなければ目が覚めることもなくなってきている。これから更に布団から出たくなくなってしまうだろう。もちろん、高校に通っている以上、そんなことを言っているわけにもいかないのだが。
 眠気を吹き飛ばすように大きく伸びをし、椎野拓巳は漸く目を開けて身体を起こした。
 履歴書などの特技の欄に書くことがなかなか思いつかない、平凡な拓巳の唯一の自慢出来ることといえば、睡眠である。限度はあるものの、比較的短い時間でも熟睡することが出来る。要は、睡眠不足になることは滅多にないのだ。自分でも良い体質だと思う。
 しかし、今朝は眠い。今日は小テストがあるにも拘らず、昨晩早くに寝たはずだ(もちろん勉強などやっていない)。寝不足になる要因は特に考えられない。
 原因が分かっているならばまだしも、全く思いつかないとなると、何となく気分さえも落ち込んでしまう。普段から寝不足になることが殆どないため、余計に疲れていると感じるのかもしれない。そうはいっても、目覚まし時計が鳴ってしまった以上、起きなければ学校に遅刻してしまう。
 ……あぁ、そうだ。自慢出来ることといえば、寝不足にならないお蔭で遅刻することはなく、中学・高校とは今のところ皆勤であることだろう。高校についてはまだ通う日々は約1年半残っているが、半分過ぎた今、どうせなら頑張って中学と共に高校も皆勤賞を貰いたいものだ。
 よし、頑張ろう。と声に出して自分に言い聞かせ、拓巳はベッドから下りた。
 ――しかし。
「や。お前なかなか起きないんだな」
 どこからか、声が聞こえた。少なくとも、家族の誰の声でもない。聞き覚えのない声だ。一体どこから聞こえるのだろう。辺りを軽く見渡しても、誰の姿も視界には入らない。まだ夢から完全に覚めておらず、ただの幻聴、空耳なのだろうか。
 そうこうしているうちに学校に行ってしようと思っていた、小テストの勉強をする時間は短くなりつつある。先程の声は空耳だろうと言い聞かせて、拓巳は制服に着替えようとクローゼットに手を掛けた。
「どこ見てるんだっ!」
「ひぃっ…!」
 突然右の耳元で騒音がして、思わず奇妙な声を上げる。何が起こったのか理解する前に、ほぼ反射的に頸を動かして右の方を見た。そこには、
「…………」
 何センチくらいだろう。自分の掌くらいの大きさだろうか。顔があって、スラリとした手足がワンピースから覗いていて(因みに裸足だ)、淡い桃色の髪は腰ほどまであって、その髪から半透明の、所謂蝶の羽のようなものが4枚出ていて。
 ……やはり、まだ夢から覚めていないらしい。
 拓巳は目を瞑り、自分の両頬を手で軽く叩いた。
 今日は何だかおかしい。珍しく寝不足だし、ベッドから起きても未だ夢から覚めていない。いや、夢から覚めていないからこそ、寝不足でどこからか声が聞こえ、更に不可思議なモノを目にしたのだろう。
 夢なら早く覚めてほしい。現では今、何時なのか気になる。遅刻しそうな時間ではないのだろうか。
 適当に考えた結果、もう1度寝直せば夢から覚めるのではないか、というところに辿り着いた。そもそも、夢ならばいつかは覚めるのだろうが、どうせ夢ならばこの寝不足をまずどうにかしたい。拓巳はもそもそとベッドに再び潜り込もうとしたのだが。
「何で目を逸らすんだっ!」
「ひぁっ!?」
 またもや奇妙な声を上げてしまった。眼前にいるのは、先程の不可思議なモノ。
「……まさか、夢とか思ってるんじゃないだろうな。残念ながら今は夢じゃない、これは現実だ。いい加減信じろ!」
 あまりにも捲し立てるため、拓巳は思わずこくこくと頷いてしまう。それに満足したように、不可思議なモノは笑みを浮かべた。

「俺はミディ。まぁ人間界(ここ)で言うなら、妖精ってとこだな」
 拓巳はベッドに座り、妖精≠轤オきモノの話を聞く。信じ難いが、どうやら今は夢の中ではないらしい。
 その外観をもう一度改めて表すと、淡い桃色の長い髪、大きな瞳、スラリとした手足、ほどよく膨らみのある胸、ほっそりとした腰。スタイルはかなり良いと思う。真っ白い膝丈のワンピースは背中が大きく開いており、そこから半透明の少し丸みを帯びた羽が生えている(わざわざ妖精からくるりと背を向け、髪を上げて背を見せてくれた)。
 そして、身長は掌サイズ。正直なところ同じ等身なら可愛いと、嬉々としていたかもしれない。
 言葉遣いは男っぽいが、顔や体型はどう見ても女性なので、これからこの妖精のことは彼女、と称することにしよう。そもそも、妖精に性別などあるのだろうか。
 あぁ、それにしても、何となく見方が親父臭い気がする。健全な男子高校生だよ、と言ってくれる友達もここにはいない……。
「何だ、まだ俺が妖精だってこと信じられないのか?現実を受け入れられない奴だな……」
 ジロジロ見ていたからかもしれない。呆れた顔をされ、何となくカチンとくる。やけにこの妖精は態度が大きくないだろうか。それに、外観と言葉遣いにギャップがあり過ぎる。
「い、いや、あんたの存在は信じる。……ただ、俺男なのに何で妖精なんだ?妖精って普通女の子のとこに出てくるもんじゃないのか?」
 あくまでイメージだが、男に妖精は合わないと思う。妖精じゃないなら何が似合うのか、と訊かれれば答えられないのだが。
「拓巳の母親が花屋をやってるからじゃない?」
 そう言われれば、何となくそんな気もする。
 確かに拓巳の母親は、小ぢんまりとはしているが花屋を営んでいる。昔から時折手伝わされていたこともあって、ある程度なら花の知識もあるのだ。ミディというこの妖精の名前にしても、ミディ胡蝶蘭という実在する花の名前と同じである。断言は出来ないが、関係はあるかもしれない。つまりは花の妖精、ということなのだろうか。
 だがしかし、何故花屋を営んでいることを知っているのだろう。拓巳の名前にしろ、まだ自分から教えてはいないのに、この妖精は知っていた。その存在自体のこと以外にしても、やはり謎は深まるばか―――。
「拓巳、起きてるー?そろそろ起きないと時間危ないんじゃないー?」
 階下から母親の声が聞こえた。時間…?そういえば、起きてから結構時間が経っているような……。
「わーー!!」
 部屋の壁に掛けている時計を見て、拓巳は声を張り上げた。こんな意味不明な生き物もどきと話をしている場合ではなかった。既に家を出る予定だった時間になっていたのだ。まだ、服すら寝巻きのままである。小テストの勉強どころか、遅刻してしまう。
 慌てて制服を着て通学鞄を持って階下へ行き、時々喉に詰まらせながら朝食を取り、自転車を飛ばして高校へ向かう。こういう時、電車通学より自転車通学の方が、時間が短縮出来るので楽だと思う。結果その必死の甲斐あって遅刻は免れ、更に1時間目に行われる小テストの勉強も幾らかはすることが出来た。
 人間やれば出来るという言葉を、実感した瞬間であった。
 そして気持ちを入れ替えて、いざ小テスト。はっきり言って直前に詰め込んだだけの知識。急いで空欄を埋めなければ、時間が経てば経つだけ頭から抜けていくのだ。配られた問題用紙に意識を集中させ、書き込み始める。
「それ、違うんじゃない?」
 ふと、頭上から声が聞こえて、拓巳の手は止まった。恐る恐る視線だけを声のした方に動かす。そこにはやはり、今朝の妖精が笑みを携えて浮かんでいた。
 一方拓巳は彼女を完全に無視し、また手を動かし始める。今は構っている暇はない。そんなことをしている暇があるならば、とにかく空欄を埋めなければ、この小テストの結果は悲惨なものになってしまう。ちゃんと勉強しなかった自分が悪いのだが、小テストを受けている以上、早々に諦めるわけにはいかない。
 だが、彼女はそれを許してはくれなかった。静かになるどころか無視されたことで、より一層騒がしくなってしまったのである。「無視するなよなー」「おい、俺の話聞けって」「おーい、拓巳。聞こえてるかぁ?」などと、言葉が途切れることがない。無視したくとも、テスト中の今は教室内は静かであるため、ストレートに声が自分の耳に届いてしまう。
 明らかにテストの妨害だ。声に出して黙らせたいが、そんなことは出来ない。だからといってこの騒音にも耐え難いので、拓巳はミディと視線を合わせ強く睨み付けた。自分では分からないが、かなり凄みがあったのだろう。さすがにミディもぐっと押し黙り、先に彼女から目を逸らした。あまりにテストのことで切羽詰まっていて、表情が強張っていた、という可能性もゼロではないかもしれない。
 少々悪い気もしたが、妨害した向こうも悪い。つまり自業自得ということで許してもらおう。静かになったことで肩の力が抜けた拓巳は、もう一度どこかへ行ってしまった集中の糸を探り寄せることに専念した。





 ふぅ…、と溜息を吐いて、拓巳はベッドに寝転ぶ。何だか今日は酷く疲れた1日だった。
 だが、それもそのはずだろう。朝から不可思議な、妖精と名乗っているモノが現れ、散々その彼女に振り回されたのだから。夕食・入浴共に済ませた今、気を抜いてしまえば直ぐに意識を手放してしまいそうだ。
 そういえばこの寝不足の原因は、どうやらミディにあるらしい。彼女の話では、拓巳が起きるまでかなり長い間名前を呼んでいたというのだ。自分では寝ていたつもりだが、脳はその間起きていて熟睡出来なかったのかもしれない。
 ということは、目が覚める前に誰かが自分の名前を呼んでいた気がしたのは決して気のせいではなく、本当に呼んでいたのだろう。全く以って現れた時から迷惑な奴である。
「そもそも、何で突然現れたんだ?」
 ふと拓巳は浮かんだ疑問をぶつけてみる。しかし、その質問に対してミディの答えは、
「……さぁ?」
 てっきり重要なことがあると思っていたため、その間抜けな声にこちらも顔が腑抜けてしまう。
「いや、さぁはないだろ。現れたってことは、何か意味があるんじゃないのか?例えば何か願いを叶えるとか、俺を更生させるとか」
「拓巳、更生してもらいことあるのか?」
「……いや、別にないけど」
 適当に思い付くことを挙げようとしたが、墓穴を掘るところだった。外見からして、彼女は拓巳より年齢は上なのかもしれない。何でもかんでも言っていると、挙げ足を取られてしまいそうだ。
「とっとにかく、何かないのかよ」
 ――いつまでもいられたら煩いっつーの……。
 拓巳のこの心理は、今日の夕飯時へと遡る。

 朝、小テストの時に睨んだことでミディは大人しくなったものの、それはあくまで一時的なものだった。以降も拓巳に話し続け、更に帰宅してからも続いた。もちろん、夕食時も。
 拓巳の家は、両親と弟の4人家族。テーブルを囲んで会話をしつつ、加えてテレビから流れるニュースに耳を傾けつつ、和気あいあいと食事をしていた。
 しかし、何とか会話は出来るものの、テレビの音声はミディの声に掻き消されてしまう。テーブルに並べてある料理と拓巳の顔を見比べては、うまそーとか、いいなーとか漏らすのである。一応ミディの実体はある。拓巳に限りだが、互いに触れることも出来る。だからとはいえ、妖精が人間の食べ物を食べることなど出来るのだろうか。その前に、食事という概念があることに驚きだ。
 放っておくと騒音を発するばかりなので、皆がテレビに視線を向けている間に白米を箸で掴み、自分の口に持って行く手前で止める。今のうちに、と目で言うと、それに気付いたミディは素早く飛んで来て、大きな口を開けて頬張った。もきゅもきゅと口を動かし喉を通す。
「なぁ、それも欲しいっ」
 次は、母親お手製のコロッケ。
「うま〜。拓巳の母ちゃん料理上手いんだな」
 自分の母親の料理を褒められて嬉しくないわけがない。まさに美味しいと言わんばかりの表情を見ていると、こちらも綻んでくる。
 しかし、自分にしか姿の見えていないミディが食べているという光景自体はなかなか受け入れ難いものがある。尤も、身体が小さい分やはり食べる量も少ないらしく、直ぐに大人しくなってくれたことには一安心だった。
 因みに彼女の話では、人間とは身体の構造が違うため、食事を取っても排泄を行うことはないらしい。一体どんな構造なのか気になるところだ。加えて驚いたことに、性別はないと言うのだ。どう考えても女性にしか見えないが、言葉遣いを考えるとある程度は納得してしまう。
 現にそうだとしても、妖精はどのようにして生まれくるのだろう。こちらも気になるが、返ってくる答えによっては気まずくなりそうなので、心に留めておこう。恐らく拓巳が一方的に、だろうが。
 そして、頭を抱えることは更に続く。彼女はトイレにも風呂にも付いてくるのである。
「いいじゃん、減るもんじゃないだろ。どんなのか気になるし」
 と。一体何が、どんなのか気になるのだっ。と心の中で突っ込みつつ、内心焦っていた。向こうは性別はないと言うが、外見は明らかに女性。気まずいという以前に、正直恥ずかしいので、さすがに遠慮してもらった。
 遠慮してもらった、という表現は少々間違っているかもしれない。何せ無理やりにでも付いてくるつもりだったようで(身体が小さいので、捕まえようとしても簡単に擦り抜けてしまうのだ)、怒鳴らないように極力感情を抑えつつ、付いてこないでほしいと懇願したのである。
 こちらの気持ちを察してくれたのかどうかは定かではないが、少なくとも付いてくることを諦めてくれたので、拓巳は胸を撫で下ろした。トイレに行く時だけでなく、更に夕食後風呂に入る時にも同じことを繰り返し言ったので、疲れも倍増だ。
 トイレが駄目なら風呂も駄目だということを、何故分かってもらえないのだろう……。
 とまぁ、こういったことで、寝不足に加え疲れが更に溜まっている感があるのだと思う。宿題は週末である明日・明後日にすればいい。今日はもうこのまま眠ってしまいたい。
 ふとミディを見ると、まだ何故現れたのか、という拓巳の質問の答えを探している様子だ。頭を抱えたり、腕を組んで唸っている。あぁ、本当に瞼が下りてきてしまう。拓巳はのろのろと部屋の電気のスイッチを切り、ベッドにダイブした。
「俺もう寝るから、その間に思い出しといてくれ〜……」
 ミディは返事をすることなく、唸り続けている。ついでに彼女のことは夢だと思いたい、などと考えながら、貪るように眠りについた。





 翌朝。
「おわっ!」
 昨晩の願いも虚しく、拓巳が目を開けると直ぐ目の前に妖精がいた。驚きと同時に、やはり夢ではなかったのか…、と土曜の朝から落ち込んでしまう。
「そういえば、現れた理由思い出したのか?」
 着替えを終え、ふと思い出したように訊く。あまり期待はしていなかったのだが、予想外にミディは拓巳にVサインを向けた。マジか、と思わず彼女にずいと顔を近付ける。
「まぁ名前で分かると思うけど、俺はミディ胡蝶蘭の精なんだよ」
 男の拓巳の所に妖精というアンバランスな組み合わせになった理由として、納得するようなものである花の精という正体。名前が同じならば、あながち間違ってはいないのでは、と拓巳自身思っていた。あくまで母親が花屋を営んでおり、花についてある程度知識を持っているからこそなのだろう。
 そして花屋が、彼女が現れた理由なのだと言う。
「ミディ胡蝶蘭を仕入れてるのは知ってるか?」
「あぁ、うん。でもあんまり売れてなかったような……」
「それなんだよ」
 ミディは人差し指を立て、拓巳に近付ける。
「せっかく仕入れてくれてるのに、殆ど売れない。それをどうにかして、せめて仕入れてる分だけでも売ってもらいたいと思って、拓巳の前に現れたってわけだ」
 枯れていくのを、何もせず見てるなんて嫌なんだよ。
 拓巳は初めて、ミディの寂しそうな表情を見た。確かに、(この表現が合っているかは分からないが)自分の花が売れ残り枯れていく様など、目にしたくはないだろう。花は嫌いではない。どちらかと言えば、寧ろ好きの部類に入るだろう。売れ残っていく花を見て、複雑な思いだったのも事実だ。断る理由は、ない。
「……分かった」
 数年前から、学校は週休2日制。宿題は英語で、今はやる気もない。それならば、どうせなら母親から言われる前に手伝おう。そしてどうにかして、せめて仕入れている分だけでもミディ胡蝶蘭を売ろう。そうすればきっと満足して、ミディも成仏してくれるはずだ。……いや、成仏という言い方はおかしいか。
 とにもかくにも、拓巳のひと言はミディに笑みを取り戻させた。分かった、という言葉が花を売ってくれるということであることを察し、彼女は少し照れ臭そうに「サンキュ……」と漏らした。

 案の定、自宅から少し離れた所に小ぢんまりとある花屋『花々』では、ミディ胡蝶蘭は殆ど売れぬまま残っていた。その名の通り、蝶のような花弁はとても可愛らしいと拓巳は思うのだが、ここへやってくるお客さんの好みにはあまり合わないらしい。
 さて、どうすればこの花を売ることが出来るだろう。胡蝶蘭は決して安いとは言えない値段だ。中でもミディ胡蝶蘭は小さめだが、それでも気軽に手を出せるとは決して言えない。因みに今の時点で2鉢売れ残っていた。3本ずつ鉢に入れており、色は淡い桃色。そういえば。ミディの髪の色も淡い桃色だ。記憶が正しければ、いつもこの色のみ仕入れていたはず。確かにこの花の精なのかもしれない。
 売れ残ってしまうのは、お客さんの好みに合わないからだろうか。……いや、それもあるかもしれないが、やはり値段のことだろう。あくまで男子学生の基準で考えた場合だが、余程のことがない限り胡蝶蘭には手は出せない。とにかく高いのだ。だからといって、ただ単に売るためだけに値を下げるわけにもいかない。何か値を下げ、手を出しやすくする方法がないものか。
 安く、小さい、高い、増やす、減らす、大きい、少ない、……小さい?少ない…?
「あ!」
 ピン、と閃いた。そうだ、小さく、少なくすれば良いのだ。もっと手軽にすれば、少し奮発して買おうか、という気持ちになるかもしれない。拓巳はこの考えを母親に相談し、手を加えることの了承を貰うことにした。
「……よし、出来た」
 拓巳は満足気に、目の前にあるミディ胡蝶蘭を見つめる。小さな鉢に、1本の花。彼が思い付いた考えとは、3本ずつ売っていたものを1本ずつにし、それを小さな陶器のポットに入れることだったのだ。1本と言っても幾つか花が付いているので、さほど華やかさは失われない。また、花は他の植物に比べて長く咲くため、そういう意味では値段相応ではないだろうか。これで来店したお客さんに声をかけて説明をすれば、買ってくれる人がいるかもしれない。
 ふと、こうして花に関与しているこのことも、特技として自慢出来るんじゃないのか、と気付いた。女子でも花の名前を自分ほど多く言える人は、滅多にいないと思う。それが何の役に立つかと言われれば、こうして店の手伝いをしている時くらいなものなのだが、自慢出来ることには変わりない。
「あ、いらっしゃいませ。こんにちは」
 ドアに付いている小さなベルが鳴り、さっそくお客さんが来た。運が良いことに、まずは常連のおばさんだ。勧めるお客さん第1号としては非常に話しやすい。
 ――うし、頑張るぞ。
 拓巳はぐっと小さく拳を握り、母親と話をしているおばさんの方へ向かった。





「ありがとうございましたー」
 母親の声が、花に囲まれた店内で響く。そしてお客さんが店から出て行ったのとほぼ同時に、「やったー!」という拓巳の声も響いた。
 売れたのである。先程のお客さんが最後に、6本あったミディ胡蝶蘭が全て。
 正直駄目元であったし、母親も全て売れてしまうとは思っていなかったようで、半分驚き半分嬉しさ、といった感じである。拓巳の、1本ずつ売るという作戦は大成功だった。少し値は高いが、さほど大きくはなく、花も長く咲く。そういったことを話すと、「じゃあ…」と買ってくれる人が1人ではなかったのだ。
 自分の提案が成功し、全て売れたことに声を上げて喜んだ彼の気持ちも頷けるだろう。
「お疲れ様。ちょっと休憩してきていいわよ」
 待ってましたっ!
 母親のその言葉に甘えて、店の奥にある部屋へ足を伸ばすために向かった。そして、この喜びを逸早く彼女に伝えるために。
「な、全部売れたぞ!これで向こうの世界にかえ、れ……」
 拓巳は部屋を見渡した。ミディの姿が見当たらない。もちろん、声も聞こえない。
 ミディ胡蝶蘭を売り始めた時は一緒にいたのだが、あまりに長い時間なので、休んでいるとこの部屋に来ていたはずだ。せっかく花が全て売れたというのに、一体どこへ行ってしまったのだろう。
 まさか、売れたから姿を消したのだろうか。もう人間界にいる必要は、理由はないと、自分の世界に帰っていったのだろうか。
 ……恐らく、それが妥当な考えだ。もう彼女がここにいる理由はない。
 そのために、彼女に元の世界に帰ってもらうために、ミディ胡蝶蘭を頑張って売ろうと思った。元の世界に帰ってくれれば、この喧騒から逃れられる。自分から望んでしたこと。しかし彼女の声が聞こえないことが、どこか寂しいと感じるのは何故だろう。昨日出会ったばかりなのに。何故……。
 夕刻になり、手伝いを終えた拓巳は、自宅に戻ってきた。少し重い足取りで、自分の部屋へ向かう。急に消えてしまうと分かっていたなら、もう少し色んな話をすれば良かった、と思う。ミディが生きる世界のことを、知りたかった。聞いてみたかった。もちろん、もう後の祭だが。
 部屋のドアノブに手を掛ける。花が全て売れたという達成感は、もうどこかへ行ってしまっていた。現れた時から迷惑な奴だと思っていたが、まさか最後まで迷惑な―――。
「……は?」
 拓巳は間抜けた声を漏らす。この状況では、漏らせざるを得ないだろう。何せ彼の眼前には、
「よっ」
 てっきり自分の世界に戻ったのだと思っていたミディがいたのだから。どういうことなのか理解出来ず、上手く言葉も出てこない。そんな拓巳の表情に満足しているように、ミディは笑みを浮かべている。
「いやぁ、ごめん。こっちに来た理由、花を売ることじゃなかったみたいだ。また頑張って思い出すから、それまでまたご飯食べさせてくれよなっ」
 特に悪びれた風もなく、笑って弁解する。
 ……拓巳は気付いてしまった、彼女の笑みの真意を。
「思い出したって嘘だろ!こっちに来た理由分かってて、思い出せないフリしてたなっ!」
 ミディは現れた理由を忘れていたわけではなく、そう拓巳に嘘を吐いていた。つまり、ミディ胡蝶蘭を売るために必死になって考えたのは、ミディのためという意味では無駄だった、ということである。
 可愛い顔を崩して、にへらと笑うミディ。
「あ〜…、まぁそゆこと。だからこれからもよろしく〜。あ、ご飯もくれなきゃ喋り続けるからな、覚悟しとけよ〜」
 最悪だ。そりゃあいなくなったと思った時は、少し寂しいなぁとか、そんな風にも感じたけど。やっぱり迷惑な奴だ!断言してやる!!
 ……まぁ、でも。
 今回のことは目を瞑ってやろう。
 あ、その前に、ひとまずミディ胡蝶蘭を売り切ったことに関しては、お礼を言ってもらわなければ。俺の努力を返せ。
 ミディの本当の目的をどうにか訊き出し、叶えることが出来るまでは、彼女と一緒にいることになりそうだ。

 

 

 

 

 


2005.10.22

似非ファンタジー……。
10月期のサークル会報に出した作品です。
花屋の事情もよく分からないので、間違っている部分があるかも。
イメージは、同級生の母親が営んでいる、小さな花屋。
フラワーアレンジメントなどをしている、可愛らしい店なんです。
ただもう少し最後の辺りを、丁寧に描きたかったなぁと。
相変わらず出せたのがギリギリで、焦ってました;




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