(こぼ)れた翼


 閉ざされた一室で、高らかな声が響き渡る。
 それは、この国に住まう誰もが望んだ声。



 同時に、忙(せわ)しく侍女たちが駆け回っていた。
 新顔の者から、俗に言うベテランの者まで。更には、主として国王の側近である者も珍しく顔を見せている。
 それもそのはずである。
 幼い頃から共に過ごしてきた、女性というには少女のようなあどけなさを持つターナを正室として迎え、正式にエクサル=アークトレスが次期国王となったのは未だ記憶に新しい。
 それから約一年、彼は王子であると同時に、一人の父親となった。
 彼もまた、成年というには少しばかり満たない年齢だ。娶るには早過ぎる、などという批判がなかったと言えば、嘘になる。しかし、この吉報に歓喜の声を上げない者は、誰一人としていなかった。
「エクサル…」
 もう顔を見せても良いと、立ち会った年齢を重ねた侍女に告げられ、妻の元へと足を運ぶ。
 そこには褥に身を預けたターナと、彼女の隣に眠る、鶯色の髪の赤ん坊―――。
 未だ内乱は鎮まる気配を見せないが、この時ばかりは一時休戦と言うべきか。国中、穏やかな風が吹いていた。このままの状態で、自然と内乱が鎮まれば良いと思うが、さすがにそこまで都合良くとはいかないだろう。
 それならば、せめて今だけでも、この時を噛み締めるよう過ごしたい。
「何だか、壊れてしまいそうだな」
 小さな身体、強く握れば折れてしまいそうな手足。触れるのでさえ、躊躇ってしまう。
 そんなエクサルに、ターナは柔らかく微笑んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。ふふっ、意外だわ」
 そう言われ、恥ずかしそうに苦笑いをしながら、そろそろと手を伸ばし、ふっくらとした頬に触れる。たった一つの命が、こんなにも愛しいと感じるだなんて。
 この命を護れる人間に、父親になろう。エクサルはそう、心に決めた。

 そしてこの日の夕刻、赤ん坊は両親によって名付けられた。
 ユリス=アークトレス、と…。






 二人にとって初めての子であるため、互いに戸惑うことは多々あったが、自分の親や侍女たちの手助けもあり、ユリスは大きく成長していった。芯の強い、真っ直ぐな子に。
 ……少々融通のきかぬ、聞き分けのない子と言ってしまえばそれまでなのだが。
 とにもかくにも毎日が新しい発見の連続であり、二年という時はとても早く過ぎていった。
 しかし虚しくも、そんな幸せな日々は一人の我儘によって崩れ去る。幸せとは、これほどまでに脆いものだったのかと、思わざるを得なかった。
「ユリス…」
 エクサルは、これ以上ないというほど、息子を強く抱き締めた。
 もう二度と会えぬかもしれない。それどころか、もしかすればエクサル=アークトレス≠ニいう名の父は、記憶の中に留まらないかもしれない。
 今はただ、これから今までと変わらぬ幸せな日々を送れるよう願い、手放すことしか出来なかった。
 次期国王という立場にいるというのに。言葉の表現は悪いが――、最も愛する家族が隣国へ連れ去られてしまうというのに、傍観者となってしまっている辛さ。
 自分の無力さを、痛感するばかりだった。
「……ははうえ、どこかにいくのですか?」
 ユリスの舌足らずな問い掛けに、ターナは答えない。
「ははうえ…?」
 否、答えられるはずがなかった。
 セントキエティム王国を。夫であり、ユリスの父親でもあるエクサルを捨て、他国へ赴くなどと。
 生を受けて二年ほどしか経っていないユリスに、説明しても理解するとは思えない。それでも、たとえ理解出来なくとも、真実を伝えたくはなかったのである。

 そして、それから数刻。見知らぬ土地に来たユリスは戸惑っていた。
 建物や人だけではない。眼に映る草花や樹木、自足で踏み締める土、そして空気さえも。何もかもが、数刻前までいた所と違っていたのである。
 ターナの服の裾をそっと掴み、不安を抑え込もうとするユリス。そのため硬くなっていた表情を和らげたのは、後に彼の義弟となる少年であった。
「なまえ…、なんていうの?」
 話があるからと母が出て行き、ユリスは独り部屋のベッドに膝を抱え座っていた。暫くして、突然近くで先程の声が聞こえたため、顔を上げると。
 そこには、くりくりとした翡翠の色の大きな瞳があった。
「……ゆりす」
 小さな声。だが確かに自分の名を呟いた。それを聞いた翡翠の瞳の少年は、ユリスに満面の笑みを向ける。
 ここ数刻、張り詰めたような表情しか眼にしていなかったユリスに、その笑みは拒むことなく入り込んできた。そしてその少年は、自分の名前はヴィラだ、と微笑んだまま伝えた。
 コロリ、と欠けた、ユリスの心のカケラ―――。





 未だ幼いためか、義弟という存在であるヴィラがいたためか。一月も経たないうちに、ユリスはメダデュオ帝国での生活に慣れることが出来ていた。
 順応するか心配だったターナにとって、喜ばしいことである。
 ヴィラや城内の者とも打ち解けるようになり、ある程度のことは他者に頼ることなく、独りでするようになっている。
 もしかすれば、そのことで張り詰めていたものがなくなり、気持ちが緩んだのかもしれない。あまり身体が丈夫でなかったターナは、病により臥せるようになってしまった。一向に良くなる気配は見せない。
 城内専属の女医の話では、ごく一般的な風邪らしいが、これほどまでに長引くものなのだろうか。
 気が気でないユリスに、部屋に来てほしいと侍女伝いでターナが言ったのは、この国で暮らし始めてから約二年後――彼女がこの世を去る数日前のことであった。
 高熱が続いているためか、頬は平素より赤みを増しており、時折弱々しい咳をする。
 一月ほど前、身体があまり丈夫でない母を想い、――そのつもりはなかったものの――命を懸けて採った桜色の実を、侍女に頼み煎じてもらった。
 あの日から、連日それで喉を潤していたというのに。効力がなかったのか、それとも効かぬほどターナの身体は蝕まれていたのか定かではないが、特に何の変化も見られなかったのである。
「もしかしたら、気付いていたかもしれないけれど……。カーザズ皇帝は、貴方の本当の父親ではないわ」
 これが、ターナが息子を部屋に呼んだ理由。そしてユリスは彼女の言う通り、確信はなかったが、カーザズが実父ではないとはどこかで感じていた。
 例えば何一つ似ていない容姿であったり、まるでモノであるかのように自分を見る眼孔であったり。
 そのため、特に動揺の色は見せなかった。気になることは、ただ一つ――。
「……じゃあ、本当の父上は…?」
 その問いは、ターナの中で予想していたことでもあった。カーザズが自分の父親ではないのならば、実の父の存在が気になるのは当たり前のことである。
 躊躇うように俯き、顔を背けたが、再び紺碧色の瞳を見詰める。
 もし、自分の考えが違っていなければ、素直に受け入れてくれるかもしれない。そう思案し、自分の口からは嘘でも言いたくない言い訳を、ゆっくりと告げた。
「――…本当のお父様はね、……貴方がもう少し小さな時に、亡くなってしまったの。亡くなったという意味は分かる…?」
 こくん、と小さく頷くユリス。
 彼は、実の父がこの世にいないという言葉に、何の疑いも持ってはいない。つまりそれは、実の父のことを覚えていないであろうというターナの考えは、間違っていなかったということだ。
 覚えていないのであれば、幼い彼に真実を、実の父――エクサル=アークトレスはまだ生きているという真実を告げる必要はないだろう。
 しかし、自分の言い訳を信じてくれたことに安堵した反面、既に息子の中にエクサルの姿がいないことに、哀しみを覚える。本当ならば、こんな言い訳などしたくはない。自分が生涯愛した、大好きだったあの人の息子なのだと言いたかった。
 更に欲を言えば、死ぬ前にもう一度あの人に会いたかった。ユリスを抱き締めてあげてほしかった。エクサルと同じ、紺碧色の瞳に父親の姿が焼き付くように……。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。ずっと続くと思っていた幸せは、どうして消えてしまったのだろう。
 ターナは小さな身体の息子を引き寄せ、抱き締めながら、溢れそうになる涙をぐっと堪えていた。

 そして後日、女医の看病とユリスの必死の願いも虚しく、ターナは静かに息を引き取った。
 ただ、何故かその時……。
 ひどく哀しいはずなのに、ユリスの紺碧色の瞳が濡れることはなかった。





 カーザズは、ターナ独りを連れてくるつもりだった。だが、彼女はこちらへ来る条件として、息子も連れて行かせてほしいと要求してきた。
 力尽くでも構わなかったのだが、セントキエティム王国のみではなく、自国さえも敵に回しかねない。仕方なく、ユリスを共に連れてくることを呑んだのだ。
 そうなれば、ターナが亡くなった今、彼がユリスを庇う必要などどこにもない。元々自分の息子にはない、魔法を使う素質のあるユリスを腹立たしいと感じていた。
 そしてターナがこの世を去ったことで、その思いは爆発する。
 そう、血の繋がりがないとはいえ、息子に暴力を振るい始めたのだ。
 ヴィラの母であるノイカは、カーザズに止めてくれと言うことは出来なかった。
 口を出したところで、彼のユリスに対する劣等感が失われるわけではない。寧ろ、逆効果になる可能性もある。
 母を亡くし、追い討ちを掛けるように始まった暴力は、いつまで続くのだろうか。
「…っく、ひっく…ぅ……」
 身体中が、ミシミシと泣いている。
 痛い。この痛みを耐えることが出来ない。紺碧色の瞳からは、幾つもの雫が零れ落ちていく。
 一体、これで何度目だろう。泣き叫び、止めてくれと懇嘆する声を、耳の片隅にも入れない。あのゴツゴツとした手は、止まらない。
 ベッドに膝を抱えて座り、顔を埋(うず)める。
 いつもカーザズに呼び出された後は、こうして広い部屋に独りでいた。
「……ユリス…?」
 そしてその時は、独りにしてほしいと頼んだわけではなかったのだが、ノイカが言ったのか、それとも自分でユリスのことを考えた結果なのか。ヴィラは、自分の部屋でもあるここに、入ってくることはなかった。
「…ぁ……な、なに?」
 そのため、まさか彼の声が聞こえるとは思っておらず、ユリスは慌てて雫を乱暴に拭い取る。尤も、腫れてしまった瞼を隠す術はないのだが。
 この涙の原因がカーザズ皇帝であることは、ヴィラも知っている。だからと言って、血の繋がりのない自分とは違い、ヴィラにとっては実父にあたる人であることは事実。嘆くことも、助けを求めることも出来ないのだ。
 こんなところを、見られたくはなかった。弱い自分など、見せたくなかったのに。
 だがそんな思いに反して、ヴィラはずいっと、覗き込むように顔を近付ける。まるで、かつてユリスに名前を訊ねた時のように、真っ直ぐに瞳を向けて。
「僕の前では、泣いてもいいよ」
「え……」
 ノイカの前では恥ずかしくて、その瞳から零れそうになるものを我慢していた。
 ……いや、ノイカではなく、ヴィラの母≠ノは甘えられなかったのだ。
 血の繋がりだとか、そのようなことではない。自分でさえ、亡くしてしまった今、母≠ェ恋しくて堪らない。そのためヴィラの母親を取り上げてしまうであろうその行為を、ユリスは到底出来なかった。
 勿論、ヴィラに対しても甘えたくないという気持ちがある。しかし、
「……僕はユリスのたった一人の義弟で、ユリスは僕のたった一人の義兄でしょ」
 違う?
 そう問い掛けるヴィラに、ユリスは違わない、と首を横に振る。
 一度螺子を弛めてしまうと、それを再度締めることは難しい。
 それを十分ユリスは分かっていた。分かっていたが、優しい笑みを浮かべるヴィラの前に、溢れ来るものを抑えることが出来るほど、未だ大人には成り切れていなかった。
 そして、その感情は遮られることなく、この空間に飛散する。
 ユリスのノイカに甘えない理由が、ヴィラから母親を奪ってしまうからだ、ということをヴィラは知らない。詳しい理由は分からないが、いつかユリスから話してくれるまで待っていようと、そう思っていた。
 少しでも、ユリスにとって安心出来る場所≠ェ自分という存在にあれば、それでいい。




 ヴィラの母であるノイカ=ウォレンサーは、確信はないものの、ユリスが自分に甘えない理由を分かっていた。
 伊達に二年共に過ごしてきたわけではなく、ターナと互いに最愛の息子のことを話していたわけでもない。母という立場にいる以上、ここに住む者たちの、誰よりもユリスを見ているだろう。
 ヴィラよりも、だ。尤も、子供同士でしか分かり合えぬ部分もあるだろうが。
 とにもかくにも、無理にユリスに聞き出そうとはしなかった。それが彼にとって、一番良いと分かっていたからである。
 ある時、ノイカは偶然、ユリスが泣いているのを見てしまう。ヴィラを捜そうと部屋に入ったところ、そこにいたのは、身体を縮こませ膝に顔を埋めているユリスだったのだ。
 ヴィラが戻ってきたのだと思い、扉の方を向いたユリスは直ぐさま顔を背ける。ノイカも何事もなかったように、その場を後にしようとしたのだが……。
 朱の傷も、眼には見えぬ心の傷も。これ以上見て見ぬ振りは出来なかった。
 小さな、息子と同じ背丈の身体を抱き締める。
 扉が閉まる音が聞こえたため、てっきり出て行ったとばかり思っていたノイカが自分を抱き締めていることに、ユリスは驚いた。
 初めてだっただろう、彼女の腕に包まれたのは。しかし、
「ごめんね……何も、してあげられなくて…。本当に、ごめんなさい……」
 懐かしい、母の匂いがした。
 そしてその温もりに負けそうになるのを堪えながら、空を彷徨っていた腕をノイカの背中へと廻す。
 幼いユリスが独りで生きていくことは、絶対に不可能だ。それは言い訳になるかもしれないが、そうでも思わなければ、素直に二人の――ノイカとヴィラの手を取ることなど出来はしない。反面、少なくともユリスはこれだけは確信した。
 たとえほんの一瞬の安らぎだとしても、縋ることは出来なくとも。
 俺の居場所は、ここに在る。
 それから、約十五年の時が過ぎ―――。





「本当に…、行くのか?」
 ヴィラが沈黙を破るように、躊躇いながら口を開いた。そして、ほぼ同時にマントを翻す音が部屋に響き渡る。
 ユリスは彼に顔を向けるわけでもなく、ベッドに置かれていた剣を手にした。
「……俺に拒否権はない。生きるためには従うまでだ」
 義父であり、この国の皇帝であるカーザズから命じられた、セントキエティム王国国王エクサル=アークトレスの命の強奪。そして国を救った少女、リリィ第一王女の力の強奪のため、ユリスは隣国へと向かう。
 自身の命を繋ぐために。
 澄んだ紺碧色の瞳は、今は哀しみと心痛の色しか映し出さない。
 その瞳にヴィラは、何も出来ない自分の無能さを思い知らされる。行くなとも言えず、行ってこいとも言えない。そんな中途半端な感情を押し殺し、今伝えられることは、これだけ。たった、これだけ。
「頑張れなんて言えないけどさ、無理だけはするなよ」
 ふっと少し柔らかな、しかしどこか耐えるような笑みを零し、ああ、と短く言って、ユリスは部屋を後にした。
 月の光が、部屋に残されたヴィラの姿を映し出す。窓に凭れ、その場に座り込み、俯く姿を……。



 ――この踏み出す一歩が、どう転ぶかは分からない。
    それでもいつか、
    いつか、自分の脚で路を選べる時が来ることを信じて……。

 

 

 

 

 


2005.4.21

本編を書き終えた後、どうしても小さなユリスを描きたかった。
そんな理由で書いた番外編、第一弾。
カーザズによってもぎ取られてしまった、ユリスの自由の翼。
負けそうになりながらも、「いつか」を信じて彼は歩き続けます。




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