(ほしいまま)


 胸元まで流れる髪を、丁寧に櫛で梳かしていく。
 人工的な、しかし温かな光を受け、その髪はより一層艶やかさを増していた。
 また切らなければ、とも思う。
 はっきり言ってしまえば、この髪を結うのは侍女であるため、自身が面倒だと感じているわけではない。
 ただ、結う時間が長いのも事実だ。その時間を削ることが出来るならば、もう少しゆったりとした朝を迎えられるだろう。
 尤も、寧ろその時間を割いている侍女たちが、勿体ないから切るな、と言いそうではあるが。
 指を通せば、サラ、と肩へと落ちていく亜麻色の髪。
 ふと、視線の右斜めの扉を叩く音が聞こえ、梳く手を止めた。
 鏡台に櫛を置き、侍女の誰かが明日の予定を伝えに来たのだろうか、と腰を上げる。
 だが予想に反して、開けた扉の前に立っていたのは、
「リリィ…。どうしたの、こんな時間に……」
 薄い寝衣に身を包み、少し冷えるためだろう、カーディガンを羽織ったリリィだった。
 日々祈りを捧げる彼女は、幼いためでもあるだろうが、遅くまで起きておくことは少ない。既に亥の刻を過ぎたこの時に、茜色の瞳を見たのは初めてだろう。
「……眠れないんです、一緒に寝てもいいですか…?」
 恐る恐るといった風に訊ねてくる愛娘に、ソフィアは微笑みこう言った。
 勿論よ、入っていらっしゃい――、と。







 リリィを部屋に招き入れ、二人は共に一つの褥に身体を預ける。
「珍しく、甘えん坊なのね」
 それは、ソフィアの正直な気持ちだった。
 養子として彼女が娘になり、数年経ったが、やはり未だ何処か互いに打ち解けていない部分が多々ある。
 気兼ねなく母と呼んでもらえるようにはなったが、母子(おやこ)と言えるほど、隔てる壁を越えることは出来ていない。
 だからこそ、こうしてリリィから自分の処へ手を伸ばしてきたことに、些か驚いたのである。
 その気持ちを隠さず正直に伝えると、
「あっ…ご、ごめんなさい…!」
 当の本人は眼を逸らす。尤も、互いの顔は眼前にあるため、あまり意味はないのだが。
 そんな彼女を視界に入れたまま、ソフィアは少し赤みを増した頬に手をそっと伸ばす。
「何を謝る必要があるの? 寧ろ、私はもっと貴女に甘えてもらいたいわ」
「え……」
 それはリリィにとっては思いがけない言葉であったのだろう。再び視線が交わり、真意を探ろうとしている彼女の表情を見つめながら、ソフィアはゆったりとした口調で言葉を続ける。
「大人になれば、自我を抑えなければならなくなる。――…自我、って分かる?」
「……いいえ…」
「そうね、……自分の感情や行動、つまり、自分がこうしたいって思ったことでも、大人になってしまえば、我慢しなければならない時があるのよ。だからね、幼い時はもっと我儘を言ってもいいと思うの」
「わがまま、ですか…?」
「ええ。言いたいこと、やりたいこと、それを我慢することも大切だけど、……貴女は今までそれをずっと我慢してきたのでしょう? こうして平和になったのだから、もう少し我儘を言っても罰(ばち)は当たらないと思うわ。それに、貴女は第一王女である以前に、私の娘ですもの」
 ……もっと、母である私に甘えてもらいたいのよ?
 柔らかく、優しい表情。包み込んでくれるような、温かさ。
 そんなソフィアを目の前にして、リリィは恐る恐るといったようにソフィアの寝衣を掴み、彼女の胸に顔をうずめる。
 一度安らぎを覚えてしまえば、今まで極限で保っていたものに再び耐えることは安易ではない。
 そうならないよう、逃げ出さないように、と抑えてきたはずなのに、ソフィアには子供としての精一杯の背伸びは通用しなかった。
「おかあ、さま……」
「なに…?」
「その、……」
「……なぁに?」
「……これから、時々、……一緒に寝てもいいですか…?」
「えぇ、構わないわよ、いつでもいらっしゃい」
「あ…、ありがとうございます……」
「そうね、せっかくなのだし、その時は女同士でしか話せないこととか話しましょう?」
「女同士、でしか…?」
「そう。エクサルには秘密の話よ? 沢山話をして、彼が焼きもちを妬くくらい仲良くなりたいわ。エクサルには言えないことも話してほしいし。あ、もしエクサルに不満とか、嫌いなところがあったら是非とも教えてほしいわね」
「えぇ…!? そ、そんなところは……」
 初めてと思われる頓狂なリリィの声を聞いて、ソフィアは思わず声を上げて笑ってしまった。尤もリリィは、何に対して笑っているのか分かっていないようで「お義母さま?」と疑問符を付けて問いかけてくる。
 ……ソフィアは嬉しかった。こうしてまた少し、彼女との距離が縮まったことが。
 血の繋がりはない。それはどれほどの月日が経とうとも、変わらない事実。
 それでも少しずつ、本当の母子のようになれば良いと思う。いや、母子でなくても構わない。彼女が自分のことを信頼し、心を曝け出してくれるような、心の拠り所になれるような存在として見つめてくれるなら、それで良い。
 大切な、愛しい私の娘。
 どうか彼女が笑っていられる日々が、いつまでも続きますように――。

 

 

 

 

 


2009.7.22

番外編3つ目は、ソフィアとリリィの昔話。
包み込むような、大人な女性を描きたかったんですが……。
まぁ、結果で言えば、撃沈です;
後半部分は大幅に書き直したんですけど、
「larme」としては珍しく明るい感じに。
ちなみにこの話も初稿は04年の4月。古い…。




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