虹霓



「……雨、降るよ」


 ようやく午前中の授業が終わった。
 今からは教室に残る者、食堂に行く者、部室に行く者、と様々だ。
 その中で、滅多に食堂にも部室にも行かない者が、2人。
 今日も例外ではなく、耀子(ようこ)は窓側である自分の机と、その前の机を向かい合わせにくっ付ける。
 そうして椅子に座り、鞄から弁当を出すと、待ち切れないと早速食べ始めた。
 そんな彼女はいつもと変わらないため特に気にする風もなく、彼女の前の席であった、クラスメイトの椅子に座らせてもらうのは渚。
 席替えをしてからというもの、渚はずっとこの――阿部くんの机を借りている。
 渚の席は教室の真ん中で、それなら教室の端になる窓側の席で食べたい、ということだ。
 彼の机を動かして、ここで食べることが当たり前になっているのは、何となく申し訳ない気持ちもあったりする。
 まぁ、一応本人に承諾済みなので構わないのだけれど。
「うわ、ホントに降ってきたし」
 座る前に外を見てみれば、しとしとと雨が降っている。
 2時間目は体育の授業だったのだが、その時は雲はあったものの晴れていた。
 雨が降るだなんて、予想もつかないほどに。





 着替えの時間を考慮してくれる体育の教師は、授業終了時刻より10分早く終わらせてくれた。
 いつもは5分ほどなので、次の授業が移動教室ではないこともあり、2人はゆっくりと教室へ戻る。
 今日は晴れてて気持ちぃね〜。なんて耀子に声をかけた渚だったのだが、思わぬ言葉が返ってきた。
 雨が降る、というのだ。
 こんなにも晴れていて、雨が降るような雲など見当たらないというのに。
 一体どこをどう見たら雨が降るというのだろうか。
 結局話は中途半端なまま終わってしまったが、4時間目の途中で暗くなってきたと、教師が教室の電気を付けていた。
 その時に外に視線を向ければ、確かに少し曇っていて暗い。
 しかし天候は常に変わるものであって、少々暗くなったからといって別段珍しくもない。
 だから、てっきり一時的に暗い雲で太陽が隠れてしまっているだけだと思っていたのに、まさか雨まで降ってくるとは……。
 本当に耀子の予測は当たったのである。
「何で分かったの?」
 母親特製のお弁当を頬張る耀子に対し、近所のパン屋で買ったパンを千切って食べる渚は、彼女に訊いてみる。
 すると耀子は、フォークで突き刺したウインナーを口に入れ、そのフォークで自分の鼻を差した。
 ちなみに渚は部活動をしていない代わりに、アルバイトをしている。
 両親が共働きのため、弁当を作ってもらう時間はない。
 だからといって自分が朝早く起きて作れるわけでもなく、昼食はアルバイトのお金で市販のものを買っているのだ。
「……鼻?匂いってこと?」
 確かめるように渚が言うと、咀嚼しながら耀子は何度か頷く。
 それにしても、相変わらず美味しそうにお弁当を食べるなぁ。渚はそう思う。
 彼女は好き嫌いがそれほどないらしく、毎日のお弁当を綺麗に平らげている。
 ……友達とはいえ、女の子に対して「平らげる」はあまり良い表現じゃあないけれど。
 とにかく、とても美味しそうに食べるのだ。
 食べることが好きなわりに、運動部に所属しているためか太っているわけでもない。
 ある意味、食べても太らない、といえるかもしれない。
 そんな耀子と食べていると、自分も美味しく感じてしまうのは、本当に不思議に思う。
「そ。雨降る前って、降るなぁ〜って匂いするんだ。しない?」
 ウインナーを食べ終えた耀子は、渚に話しかけながらも、さっそく次の獲物へとフォークを動かしている。
 それに対して、雨が降りそうな匂いを気に留めたことなどない渚。
 頸を横に振ることで、感じたことはないと示した。
 そもそも、雨が降りそうな匂いとは、一体どんな匂いなのだろう。
 降っている時の匂いは何となく分かるが、降りそうとなると全く想像がつかない。
 ……いや、それ以前に想像だとか、そういう表現は間違っている気がする。
「……雨ってキライ」
 渚はポソリ、と呟いてみる。
 その声はちゃんと耀子に届いていたようで、――実際はフォークを手に持ったままなのだが――食べ始めてから、フォークを初めて弁当箱へ置いた。
「どして?」
 そして口に入ったものをしっかり飲み込んでから、改めて渚に訊ねる。
 食べることが好きな人は、食べ物に目がなくて、マナーなどどうでも良いと考えているイメージがあった。
 が、彼女に至っては全く違っていた。
 口に食べ物が入っている時は絶対に喋らないし、食べ方も何となく綺麗に見える。
 彼女以外に、食べることの好きな人で知り合いはいないので、比べようがないのだが。
 女≠ナあるということは、関係しているのだろうか。
「外に出にくいし、ジメジメしてること多いし、髪は大爆発だし」
 なんか、それだけで憂鬱。
 そう言う渚の髪は、所謂天然パーマというやつだ。
 長い髪にも憧れるが、途轍もないことになりそうなので、ここ数年はずっとショートカットである。
 ハッキリ言って、母親譲りのこの髪は、あまり好きになれない。
 同じ血が流れているはずなのに、サラサラの髪である自分の妹が羨ましいと、何度思ったことか。
「耀子ちゃんは雨、好きなの?」
 嫌いな理由を訊いてきたのなら、耀子自身はどうなのだろう。
 雨が降りそうな匂いが分かるくらいなわけだし、好きなのかもしれない、と訊ねてみる。
「う〜ん……、好きってわけじゃないけど、嫌いじゃないよ。それに、虹が好き」
「虹…?」
「いつもとは限んないけど、雨降ったら虹出るでしょ。これ止んだら虹出るかなぁとか思ってるってワケ」
 たぶん通り雨だろうから、雨止んだら出ると思うよ、虹。
 そう言って耀子は、未だ雨が降り続いている窓の外を見た。
 雨とは違い、虹は渚にとっても好きの部類に入る。
 確かに雨が降ることで虹が見られるのだから、耀子にとっては嫌いと一概には言えないだろう。
「実はさ、あたしが生まれた時虹が出てたらしくて、それで『耀』っていう字使ったんだって」
 えへへ、と少し照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「だからそれ聞いてから、何となく虹が好きになっちゃって」
 しかし同時に、そう言う耀子の表情は、どことなく嬉しそうである。
 『耀子』という字が、彼女にとって特別な意味があるのだと、その表情から見ることが出来た。
 自分の名前の意味をちゃんと知っていて、自分の名前に誇りを持っている。
 本当に親孝行な娘だ。
 そういえば、自分の『渚』という名前の意味は何だっただろうか。
 まだ義務教育を受けていた頃、自分の名前はどのような意味を込めて付けられたのか、といった風な授業があった。
 その時に両親に訊いたのだが、忘れてしまった。
 確か『渚』本来の意味は、波打ち際だった気がする。
「『渚』って海とかだよね?もしかして海とか川とかで生まれたとか…?」
「そんな訳ないでしょっ」
 冗談で言っているのだろうが、耀子の表情が真剣なものだから、思わず少し強い口調で否定したくなる。
 耀子はというと、渚をからかって楽しんでいるようで、「冗談だってば。可愛いなぁ…」と笑った。
 そしていつの間に食べ終えたのか、弁当箱を片付け始める。
 渚はもちろん、耀子も話をしていたはずなのに、全く不思議である。
 しかし感心している場合じゃあない。
 食べ終わった耀子とは違い、渚は2つ買っていたパンのうち、まだ1つしか口に入れていないのだ。
 そのことに耀子も気付いたのか、今度は声を立てて笑った。



 耀子みたいに、少し視点を変えて雨のことを考えてみようか。
 そうしたら、今よりは雨のこと、好きになれるだろうか。
 ……まぁ、好きになれたところで、ほんの少しだけだろうけど。
 そもそも、好きになって良いことはあるの……?

 

 

 

 

 


2005.4.16

嫌いじゃないけれど、雨はなかなか好きにはなれません。
虹が見れると、何となく得した気分にはなります(苦笑)
ちなみに「虹霓(こうげい)」は虹のこと。
昔は虹にも雌雄があると考えられていて、
虹が雄、霓が雌だったそうです。




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