現の幻想−ユメ−


 空の色が、瞬く間に変わっていく。新年を迎え既にひと月が過ぎたこの季節、陽が暮れるのは本当に早い。
 肌を刺す寒さと、夕暮れが早まったことが理由なのか、公園内は殆ど人気はなく静まり返っている。もう少し時間が早ければ子どもたちによって騒々しいほどなのだろう。しかし最近物騒だからとよく言われるため、哀しいものだが昔に比べれば、幾分かその声は少なく小さいのかもしれない。
 そんな中、備え付けのベンチで独り言(・・・)を言っている女子高生が、1人いた。
「――…そう、だったんですか……。いえ、そんなことないですっ。私はまだ高校生だから偉そうなことは言えないですけど、働くって大変なことだと思いますし…。本当に、すごいって、思います……」
『……ありがとう、お世辞でも嬉しいわ』
 ―――否、独り言ではないようだ。
 相手はどこか、くぐもっているような声。その姿はどこにもない。
「そんな……。すみません、ただ話を聞くことくらいしか出来なくて……」
『何言ってるの、そんなことない』
 しかし女子高生はその見えない$コと話をしていた。偶然話が噛み合ったわけではない、確実に彼女と見えない$コとの会話は成立している。それは女子高生の言葉に対して、更に見えない$コが否定の言葉を漏らしたことからも伺えるだろう。
 見えない$コの正体、それは死を迎えたが現に未練があり、留まり続けている幽霊である。
 凛々しいグレーのパンツスーツに、決して厭みではない鮮やかな茜色のマフラー。艶やかな黒髪は、その霊を第一線で働く女性に魅せている。
 だが実際にその姿が見えているのは、少なくともここでは女子高生だけだ。往来に出たとしても、その殆どの者がその存在に目を向けることはない。ならば、何故女子高生には見えているのか。それは彼女が微弱ではあるが、霊感を持ち合わせているからである。
『誰もが素通りしていく中で、こうして話を聞いてくれることがどんなに嬉しいか』
 女子高生にしか姿は見えず声も聞こえない女性の霊が、決して上辺ではなく真剣な、それでいて非常に嬉しそうな表情を作る。
『私が言うのも何だけど、もし私みたいに彷徨ってる人を見かけたら、出来るだけ声をかけてあげてほしいの。苦しい思いをして待ってる$lもいるだろうから……』
 それは恐らく、彼女自身がそうであったからこそ言える切実な願い。
 誰にも姿を見てもらえることなく、声も聞いてもらえない苦痛な時間。自らの死を受け入れるということは同時に、自分の時間は止まっており2度と動かないと、もう同じ時を刻むことは出来ないと認めることでもあるのだから。
 そんな悲痛な思いを感じ取ったのか、女子高生は僅かに目を逸らし思い詰めた表情を作るものの、再び視線を合わせた時には曇りのないものへと変わっていた。
「……はい…」
 その言葉を聞いて、幽霊はよし、と満足そうな笑みを浮かべる。
『うん、なんか成仏出来そうな気がする。最後に家族のとこ行ってくるわ。……本当にありがと』
 女子高生に笑みを向けると、地を蹴るようにして宙に浮いた幽霊の身体はこの場を去って行く。
 その言葉の通り、彼女はこれから家族の所に行くのだ。たとえ自分の姿が見えなくても、声が聞こえなくても。彼女にとって大切だった家族の姿を目に焼き付けて、この世から去るために。


 完全に幽霊の姿が見えなくなると、女子高生――嵯峨朋恵はほっと小さく溜息を漏らした。
 『ありがと』という温かな言葉が、身体中に染み渡っていく。この言葉を貰いたいがために霊と一緒にいたわけではない。しかしそれでも、嘘偽りのない感謝の気持ちを表してもらえると、自然とこちらも温かな気持ちになる。
 幽霊の嵯峨謙吾がいなくなった翌日から、朋恵はこうして成仏出来ずに彷徨う霊に会うことが多くなった。そして同時に、彼らがそれまで吐き出せなかった思いを、話を聞くということで受け止めていた。
 尤も会うようになった≠ニいう表現は間違っており、決して彼女の霊感が精鋭されたわけではない。
 今まで朋恵は出来る限り霊と関わりたくない、という気持ちがあった。それは自分は霊を見ることしか出来ないため、何の力にもなってあげられない、ならば関わらない方が自分にとってもその霊にとっても1番良いのかもしれない。そういった考えがどこかであったからだろう。
 しかし謙吾と出会い、少しずつ動き始めた。もしかしたらこんな私でも、ただ話を聞くということしか能のない私でも必要としている霊がいるかもしれない、と。
 すると自然、霊が分かるようになった。地に足を付け街中にいても、多くの人間の中から霊を識別することが出来るようになっていたのである。
 出会った霊が皆、死人である自分の姿が見え対話が出来る、朋恵のような人を求めているわけではない。声をかけたものの、放っておいてくれと朋恵を拒否し、どこかへ行ってしまった霊もいた。
 それでも彼女が出会った霊の大半は、誰にも自分の姿が見えない、声が届かないという不安と哀しみで押し潰されそうになっていた。その時感じたのだ。話を聴く≠ニいうことは簡単ではあるが、死人となった霊たちにとって、自分の思いを受け止めてくれる器は、死してなお彷徨っている自分の存在を認めてくれるものなのではないか、と。
 だから朋恵は、こうして自分から動こうと思った。霊に声をかけるという自分のちょっとした勇気によって、謙吾の時のように少しでも力になることが出来るのなら。僅かでもいい、その勇気を出していこうと、そう思ったのである。
 その一方で、謙吾に想いを伝えることが出来たとはいえ、やはりどこかで彼を慕う気持ちが消えずにいた。
 好きだと、そう言えたことで充分だったはずの想いは、何故か日が経とうとも失くなることがない。寧ろ膨らんでいっている、というわけではないものの、あくまで思い出≠竍記憶≠ニして残るだけだと思っていた朋恵にとって、いつになっても消えてくれない感情はとても痛かった。
 自分の中で記銘した嵯峨謙吾≠ヘ保持され、彼女の思い通りに想起される。しかしそれだけだ。写真や映像、彼が書き記したもの、などという謙吾と一緒に過ごした日々を綴ったモノは一切ない。携帯電話の着信記録もなければ、受信したメールも彼宛てに送信したメールもない。
 あるのはただ、彼の姿を見て、声を聴いていたという朋恵の中だけの記憶。
 謙吾の、彼が付き合っていた玲香に会いたいという願いを叶えるため、自分のとった行動が間違っていたとは朋恵は思っておらず、想いを伝えることが出来た以上後悔というものもさほど感じていない。
 あれは彼女があの時出来た精一杯のことであり、恐らく朋恵・謙吾・玲香の3人にとって1番良い結果だった。もし朋恵が自分の望みである、謙吾と出来る限り一緒にいたいということを最優先にしていたとしたら、何て自分勝手で厭な人間なのだろうと、いつか後悔するのは朋恵自身に他ならなかったのだから。
 しかし好き≠ニいう感情は分かったが、ならば消化しきれないこの感情はどうすればいいのだろうか。いつまで経っても未練がましく謙吾のことを想い・考えている自分が、恥ずかしくもあり莫迦莫迦しくもある。もう2度と会うことは恐らく叶わないのに、彼のことを想い続けて一体何になるというのだ。
 それこそ恋愛の先輩である姉に相談してアドバイスか何かを貰いたいのだが、そういうわけにもいかない。恋なんかじゃない、と姉には否定してしまったため――実際、姉に恋をしているのか訊ねられた時は、謙吾のことを好きだと自身では認めていなかったのだが――、失恋したなどとは口が裂けても言えないのだ。だからといって母にも、年末年始こちらへ帰省していた兄にも、勿論相談など出来るはずがなく。
 朋恵の頭の中では、終わりのない思考がこうして年が明けてからも続いている。知らず知らずのうちに、彼女の口からは小さな溜息が漏れていた。
「嵯峨さん、プリント」
「え……」
 そう言われて、朋恵はハッと我に返った。
 今は授業真っ只中。前の席から、資料のプリントが回ってきていたのだ。慌てて受け取ろうと腕を伸ばす。
「あ、ごめん―――」
 ―――!
 その時。ほんの一瞬、だが確かに、朋恵と彼女の前の席に座る男子生徒の指が触れた。
 そして同時に起こったのは、胸の高鳴り。心臓を強く打たれたような、鷲掴みにされたような感覚。
 後ろの席の子にプリントを渡して再び前を向き、落ち着こうとするものの心臓の音がやけに煩い。俯き、先程触れた指先をもう片方の手で軽く包む。
 どうしたのだろう。何てことはない、少し指が触れただけだというのに、心拍数は跳ね上がり、胸が苦しい。……そうだ、この感じ。この感じはまるで、小説や漫画などでよくある、誰かに恋をした時のような反応なのでは―――。
 ――…違う。そうじゃない。
 朋恵は浮かんだ感情を、先程までとは打って変わって冷静なほど静かに自分で否定する。
 胸が高鳴ったのは、煩いほど心臓がドクドクと打っているのは、指が触れた男子に対するものではない。男子と手が触れる機会が少ないため、恥ずかしいという意味で緊張したわけでもない。
 ただ指が触れた、という行為に対して胸が苦しくなっただけ。そう、それはきっと、ずっと触れたい≠ニ思っていたからだ。
 霊である謙吾の姿が見え話をすることは出来ても、その手に触れることは出来なかった。言葉や表情だけでは物足りないと思ってしまったからこそ出てきた欲。目の前にいるのに触れることが出来ないということが、これほどまでに辛いものだとは思わなかった、とは朋恵の今更ながらの自嘲。もし自分の霊感がもう少し強ければ、触れることは出来たのだろうか、と無駄なことを考えてみる。
 朋恵は先生の目を盗み、窓から空を見上げた。真っ白い雲が幾つも浮かび、それを覆うように澄んだ藍(あお)い空が広がっている。こうして空を見上げていれば、謙吾と会った翌日の授業中のように、手を振っている彼がそこにいるんじゃないかと、そんな気さえしてくる。
 勿論それは、ただそんな気がするだけ。姿が消えていったあれが成仏というものであったかは分からないが、少なくとももうこの世に嵯峨謙吾≠ニして存在はしていないはずだ。
 窓から零れる陽が眩しい。眦が熱く感じるのは、謙吾のことを想って苦しいから、辛いからではない。こんなことで、しかも周りに人がいる所で涙が出るだなんて、そんなにヤワじゃなかったはずだし、そうきっと、陽が目に入って痛いからに違いないんだ……。
 朋恵はそう言い聞かせるも、それが自分の弱さを認めたくないだけだということは分かっていた。認めてしまうことは簡単だ。だが、そうして認めてしまった時。今まで中(うち)に溜めていたものが滝のように流れ出して、自分を飲み込んでしまうのではないかと、そんなことを考えてしまう。
 そんなことはあるわけないと言われるかもしれないが、今まで恋≠ニいうものに触れる機会のなかった朋恵にとっては、大袈裟だとしても未知のことだらけであったのだ。
 どうすればいいのか分からない。誰かに言いたい、いや、どうすればいいのか教えてほしい……。
「涼ちゃん、相談したいことがあるの!」
 4時間目の授業は終わり、昼休み。未だ人の多く残る教室だからこそ小声だが、彼女にしては珍しく捲し立てるように声を荒げた。その様子に涼ちゃん――涼子は一瞬たじろいだものの、あくまで冷静に朋恵に視線を向ける。
「……それは、ここではちょっと言えないようなこと?」
 こくり、と少し俯きながら頷く朋恵。
 涼子は高校に入ってからの友人で、放送部に所属している。
 昼食は活動場所である放送室で食べているため、大抵教室にはいない。今も昼食の入った通学鞄を持って、教室を出ようと席を立つ直前だった。朋恵が焦るように引き止めたのも、涼子が出て行く前に、と思ってのことである。
 一方相談したいことがある、と迫られた涼子は思案していた。
 朋恵は、周囲に人のいる教室では言い難い相談、と言った。そう言う彼女の表情は真剣でいて、どこか苦しそうにも見える。そんな表情を向けられては、適当に流すことなんて出来ない。
 だが、周りに誰もいない教室なんてそうあるだろうか。あったとしても、誰かが入ってきた時に出て行ってくれ、などと言える権限など勿論持っていない。
 そこでふと、自分が今から向かう放送室が思い浮かんだ。今日の放課後は丁度活動はなく、あそこならば余程のことがない限り部員以外は入ってこない。結構先輩たちも溜まり場として放課後使っていることも多いようだから、理由を言って頼んでみれば使わせてもらえるかもしれない。
 そうなれば善は急げ、朋恵に放送室のことを提案し、大丈夫ならそこでも構わないという彼女の返事を聞くとダッシュで放送室へ向かった。先輩が昼休みが終わるギリギリまで放送室にいるかどうかは分からないからだ。
 案の定、少し顔を出しただけで自分の教室に帰ろうとしていた現部長の2年生の先輩を捕まえ、涼子は放課後使っても良いか相談する。やはり自分たちも溜まり場として使っているという理由から、特に咎めなくOKを貰い、一応と訊ねてみた顧問も戸締まりさえしっかりしてくれれば構わないと、アッサリと許可してくれたのだった。







 そうして放課後、朋恵と涼子は放送室で向き合っていた。誰も来ないだろうが念のため、と内側から鍵を締め、3畳ほどのカーペットの床に足を崩して座る。暫くは何と言えば良いのか分からず沈黙が続いていたのだが、意を決して朋恵は、謙吾が幽霊であったことは伏せたうえで涼子に話し始めた。
 好きな人がいたこと。その人はここを離れ遠くへ行ってしまい、もう会えないこと。その人には付き合っている彼女がいたが、会えなくなる前に好きだと告白したこと。もう会えないというのにいつまでもその人のことを好きだという感情が消えず、未練がましい自分が厭になっているということ。そして、どうすればこの感情を上手く消化することが出来るのか、ということ。
 これまで誰にも言えなかったことを曝け出すことは、躊躇いや恥ずかしいという気持ちがあったのだが、それを振り切るように、いや寧ろそれを抑え込むように朋恵は途切れさせることなく話す。
 そんな彼女に対し涼子は、話の内容に何か思うことがあっても口を挟むことはせず、ひたすら聴くだけの姿勢を取ってくれていた。
「……そっか。去年とか一時元気ないなぁって思ってたけど、もしかしてその人のことがあったから?」
「……うん…」
 たぶん、それだと思う……。
 先程まであった勢いが嘘のように、重く沈んだ声で返事する。
 そして、一時の沈黙の後。
「ただね、その、一時元気ないなぁって思ってたけど、年明けて久々に会った時に、何か吹っ切れたのかなって思った。それくらい、最近のトモって何か生き生きしてるっていうか……。それって私の勘違いだったのかな…?」
 どこか自信なさ気な涼子の言葉に、その意味することを理解した朋恵は大きく首を振って否定する。
 涼子の言う、元気のなかった時というのは、恐らく謙吾のことが好きだと自覚してから、彼が消えてしまい冬休みに入る頃までのことだろう。せめて学校では今まで通り振舞おうとしていたつもりだったのだが、少なくとも涼子からは違って′ゥえていたようだ。
 しかし一方で、謙吾がいなくなってからというもの気持ちの持ちように変化があったのか、朋恵は頻繁に霊と会うようになっていた。そして同時に、こんな自分でも必要としてくれる霊がいるのだと知り、喜び、謙吾に対する気持ちも少しずつではあったが自分の中で消化しつつあった。
 冬休みを挟み、朋恵は霊感があるということを知らない学友と、会う機会が殆どなかったことが良い方向へ進んだのか、特に年が明け3学期に入った頃はかなり吹っ切れていたように彼女自身思っている。涼子が変化を感じたのも頷けるだろう。
 そう、つまりは涼子が言っていることは、別に間違ってはいない。自分が生き生きしているかどうかは正直分からないが、少なくとも以前に比べあまり好きではなかった、霊感によってもたらされることから逃げないようにしているのは事実だ。少しでも変わろうと、出来る限り前を向いて歩けたら、と。
 そして今こうして再び自分の感情が苦しいと感じるのは、男子生徒と指が触れたことで、かつて謙吾に対して望んでいたことを思い出したから。そのふとしたきっかけで、丸みを帯びてきていた謙吾への想いが、再びじくじくと膨らんでしまったから。
「ちが、う…。涼ちゃんの言ってることは当たってる」だからこそ、否定する。
「今はその、好きだっていう気持ちはまだなくなってくれないけど、だいぶん整理出来たっていうか…。ただ、ちょっとしたことでその人のこと思い出して、辛いっていうか苦しくなっただけで、…その人のお蔭で今の自分があるっていうか、前よりちょっと変われた気がするっていうか…。だから、その人のこと好きになったことは後悔してないし、その……」
「―――なら、たとえその人と会えないんだとしても、その好きっていう気持ちを無理やり捨てる必要はないと思う」
 静かで少し淡々とした涼子の声に、朋恵はふと顔を上げる。
「そうなの…?どうして…?」
 いつまで経っても謙吾に対する想いを忘れようとしない自分に嫌気が差していた朋恵にとって、涼子の言葉は意外なものだった。彼女から返ってきた回答は、この想いを上手く消化する方法ではなく、寧ろそれは間違っていると、そう言ったのだ。
 そのように返答されるとは思っておらず、素直に疑問をぶつけてみる。すると、涼子は人差し指を立て、ずいっと朋恵の眼前に伸ばした。
「そもそも、何でトモは忘れなきゃ駄目だって思ったの?」
「え……、だって、その、その人に迷惑だし、ずっと好きでいたって、何にもならないし……」
 自分の質問に対する具体的な回答がないまま、逆に自分が答える立場になっていることに気付かずに、朋恵はしどろもどろに話す。
「でも、もう会えないんでしょ。それに彼女さんいるって知ってて告白したってことは、その告白っていうこと自体がトモにとって重要であって、付き合いたいとか、そんな風に思ってるわけじゃないんだよね?」
 そしてその問いには、声には出さずに軽く頷いて合っていることを伝える。
 謙吾に好きだと言った理由は、付き合っていた彼女である玲香より、自分を見てほしいと思ったからではない。ただ純粋に、もう2度と会えないであろう彼に、自分の想いを伝えたかったから。そのことで、自分が僅か1歩でも前へ踏み出せるかもしれないと思ったから。まさしくその言葉通り、告白という行為そのものが重要だった。
 勿論、後悔はしていない。伝えたあの日からほんの少しだが強くなれた気がするし、少なくともそれ以前に比べ頻繁に霊と会うようになったことは、朋恵の自分の霊感に対する気持ちに変化が現れた何よりの証拠だろう。
「じゃあ、別にその人のこと好きでいても、誰にも迷惑かからないじゃない。それにその人のお蔭で変われたって言ったよね。それはこれからだって、その人のこと好きで、その人のこと思い出したり考えたりしたら、ちょっと強くなれたり頑張れたりとか出来るって、私は思うんだけど」
 それならほら、忘れる必要なんてない。
 朋恵は、小さく「……うん」と頷くように応えるしか出来なかった。否定するものが何も見つからなかったからだ。すると涼子は伸ばしていた指で朋恵の鼻先を軽く押し、作ったのはまるで勝ち誇ったような表情。
「トモは難しく考えすぎ。好きとか嫌いになるっていうのは、自分じゃどうにも出来ないことなんだから。私たち高校生だよ?まだピチピチに若いんだしさ、恋のこともっと簡単っていうか、気軽に考えるっていうか。……そう、欲情のままに突っ走ってもいいじゃない…!」
「……ぴち…?欲…?」
 放送部で培い中の、腹式呼吸によるハキハキとした声で、高らかに宣言するように涼子は言う。しかしその言葉には幾つか素直に受け止められない単語があり、その単語の意味自体は分かるものの、涼子がどういったつもりで言ったのか理解出来ず――死語に近いものや、女子高生が大声で言うには少々気恥ずかしいと思われるものだからだ――、朋恵はそれを無意識ながら呟いていた。
 だが気付いたら、笑っていた。
「ふ……、何か、変なの……」
 別に可笑しいと感じたからではない。何だか肩の力が抜けたようだと思うと、同時に自然と頬が弛み、笑みが零れていたのだ。
「そうそう、トモはそうやって笑ってるのが1番。暗い顔してたら、せっかくの可愛い顔が台ナシだよ」
 たとえお世辞だとしても。そう言ってくれる涼子の気持ちが、笑みが嬉しかった。少し照れ臭くて、思わず視線を落とす。
「……そっか、そう、なんだ」
 この気持ちに、もう少し自信を持っても良いんだ。こんなにも強く人を「好き」になれたこと、胸を張ったら良いんだ。朋恵はそう、自分の中で呟く。
 謙吾は幽霊だった。しかしそれは、朋恵が彼に出会った時に霊だっただけで、彼が人間であったことに変わりはない。謙吾と出会うことで、好きになることで、少しではあるが変われた自分がいる。そのことを、相手が幽霊だったからといって、気のせいだとか否定なんてしたくない。
 自分を変えてくれた人のことを、ただ「好き」でいるだけなら、誰にも迷惑はかからない。その「好き」という気持ちが自分を強くしてくれるのならば、捨てる必要はない。
 それに、謙吾は言ってくれた。「ありがとう」と、「朋恵に会えて本当によかった」と。朋恵にとってそれは、何よりも嬉しい言葉。今でも思い出すと、もう会えないという事実にぎゅっと胸が締め付けられる。だが同時に、自分が出来る精一杯のことを彼にしてあげられたのだと、彼も自分と一緒に過ごした時間が無駄ではなかったと思ってくれていたのだと。それが嬉しくて、少し恥ずかしくて、……涙が出そうになるほど幸せだと思った。
 ……もしかしたら誰かに話すことで、私が謙吾を好きだった、ということを誰かに認めてもらいたい気持ちもどこかにあったのかもしれない。その想いは嘘なんかじゃないよ、と。幻想ではなく現の気持ちだよ、と。
 自分自身に言い聞かせるようではあったが、そんな風に自分の気持ちを認めて受け入れたら、すっきりした。かつて謙吾のことが好きだと自覚した時のように、気が楽になった。
 涼子が言うように、難しく考えすぎていたのだろう。初めて経験した恋の相手が幽霊という、ある意味少し特殊だったことで、余計に感情の行き場が複雑になってしまった。少し冷静にそう考えると、恋愛経験が殆ど皆無なのは自分のことなのだから分かっているが、あまりの稚拙さに何だか恥ずかしく感じてくる。
「トモ?」
 心ここに在らず、というような状態であった朋恵は、その声に勢い良く顔を上げた。視線の先には、少し怪訝そうで、不安そうな、とにかく複雑な表情がある。
「ごめん、何か説教臭かった…?ていうか、変なこととか場違いなこととか、あ、もしかして解釈自体が間違ってた…!?」
 どうやら自分の思考にトリップしていた朋恵を見て、涼子は自分の発言が求められていたものではなく、呆れられてしまっているのではないかと勘違いしたらしい。しかしその彼女の考えこそ勘違いであり、先程まで何も発さなかったのはそのような理由ではないと、大きく首と手を振って否定する。
 寧ろその逆であるのだから、そう解釈されてしまうととんでもないし、何より彼女に対して申し訳ないことこのうえない。
「ごめんね……」
「うん?」
 大袈裟なほど否定した甲斐あってか、何とか涼子は信じてくれたようで、彼女自身も少し安心したような顔でほっと溜息を吐いた。それに重なり紛れるように、朋恵も小さな溜息と詫びの言葉を同時にポツリと呟くと、涼子が聞き返すように声を漏らす。
「涼ちゃんに相談して良かった。好きってこと忘れなくてもいいって分かって、ほっとしたっていうか、嬉しいし、涼ちゃんはすごいなぁって思ったし…。―――その、……ホントに、ありがと」
 この放送室を借切りに近い状況を作ってくれたうえに、こうして真剣に自分の話を聞いてくれ、どうすれば良いのかを教えてくれた。面と向かって言うのは正直恥ずかしかったが、これでお礼を言わないわけにはいかないだろう。
 謙吾に対する感情を消化していく、という行為を否定された時は正直不安のような感情もあったが、今は彼女に相談して本当に良かったと嘘偽りなく言える。
 これでまた、少し成長することが出来ただろうか。辛いことも含めて、謙吾と出会ってから多くのことを経験して、吸収している気がする。初恋は実らない、という迷信を実体験したわけだが、恋をすると強くなる、といったようなものも強ち嘘ではないかもしれないと、ふと感じた。
 またいつでも相談のるから、困った時はドーンと私の胸にいらっしゃい!
 そして、自分の胸を拳で軽く叩きながらそう言う涼子に、朋恵は思わず吹き出したのだった。

 

 

 

 

 


2006.10.21

1111hitでリクエスト頂いた「朋恵ちゃん再び」ということで、
「その手に触れることができたなら」の番外編です。
プロット自体は比較的早くに出来上がっていたものの、
そこからなかなか進まなくて気付けば1年以上経過;
本編も含め色々と悩ませて、朋恵ちゃん申し訳ない(苦笑)
書き始めより変わったのは、たぶん涼子の性格だと思う…。
ちなみに放送室は通っていた高校のがモデル。
放送部の友達がいたので、よくお邪魔させてもらってました。




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