救済必要ナシ


 暑い。とにかく暑い。
 夏なのだから暑いのは当然なのだが、そう言っていないとこの暑さに心身共に負けてしまいそうだ。
 1学期も今月で終わり、長い夏休みはあと2週間足らずでやってくる。恐らくその夏休みは受験対策の補習で潰れること間違いなしだろうが。
 先日、今学期の期末テストの結果が返却され、なかなか良い成績に小さくガッツポーズ。何とか志望大学にも推薦してもらえそうだし、テストが終わった最初の週末は友達を家に呼んで、お互いの志望校について話をしようと決めていた。
 ……だというのに。
「う゛〜、暇だぁ……」
「暇だ、じゃないでしょ。ほら、さっさとしないと終わんないよ」
 シャープペンを持ったまま腕を伸ばし、机に伏せる。あぁ、テーブルが冷たくて気持ちいい。
 一方、向かいに座る彼女はノートから視線を外すことなく、冷たくあしらう。
 ――くそぅ、この真面目ちゃんが。
 机に伏せたまま、岸井千波は心の中で愚痴った。
「だって、ぜ〜んぜん面白くないんだもん」
 尤もその直後、口に出してしまっているのだが。
 特に気兼ねする相手でもないので、こうして学校の先生の前では言えない本心をサラッと言うことが出来る。
「宿題面白くないのは普通だって。進学クラスなんだから諦めなよ」
 そしてそう言う彼女の名前は、児島柚菜。高校の同級生の中で、1番仲の良い友達だ。
 柚菜を家に呼んで大学の話をしようと思っていたのに、その計画は脆く崩れ去った。テスト後最初の週末だというのに、宿題が出たのである。しかも千波にとって苦手な部類に入る英語。
 そうなれば、ただでさえやる気のない宿題は手を付けることが面倒になり、更に集中すら出来なくなってくる。嫌いではない。ただ、苦手なのだ。
 少しでも早めに終わらせるため、予定通り土曜日に柚菜を家に呼び、まず一緒に宿題をしてから話をしよう、ということになった。共に宿題が出た英語の授業を受けている。1人より2人でする方が、分からない問題があった時に互いに訊くことが出来るため、効率が良いのだ。
 苦手とはいえ、まずは自分で解いてみようという気はあるため、学びに繋がらないというわけではないだろう。だが、それもここまで。
「ダメ!もう集中力切れたっ。休憩しよ、休憩。あと残り半分くらいだし、ちゃんと休憩したら集中してするからさ。ね、気分転換に話しようよ」
 千波は思い切って提案してみる。
 このまま時間が過ぎても、柚菜が1人さっさと終わらせてしまうだけだ。そして恐らく、いつまで経っても千波は終わらず、結局話は存分に出来ぬまま今日1日が過ぎてしまうのだろう。
 せっかく出来た、久々に2人の予定が合った日。無駄にはしたくない。
「しょうがないなぁ……。ちゃんと後、集中して終わらせるって約束出来る?」
 そんな千波の気持ちが分かったのかそうでないのか。持っていたシャープペンをノートの上に置き、漸く千波と視線を合わせて柚菜はそう言った。
「大丈夫!約束する。こうみえて集中力はスゴイんだから」
 この機会を逃すわけにはいかない。ぶっちゃけてしまうと、約束出来る自信はなかったりする。
 というより勢い余って集中力はスゴイ、なんて口にしてしまったが、これは明らかに嘘だ。スゴイのならば、こうして柚菜と無駄話なんてしていないだろう。
 だが、千波が大袈裟に言ってしまったことは、柚菜には分かっていたようで、
「ふふ、どうだか。いいよ、休憩しよっか。じゃあ、…14時半まで。それでいい?」
 笑みを零しつつ、限の良い時間まで休憩することを受け入れた。彼女が決めた時間までは、45分ほどある。休憩としては十分過ぎるほどだ。
 すごく真面目でしっかりしていて。でもちょっぴり千波には甘くて。
 そんな柚菜に憧れていると同時に、こういう時は妹みたいに可愛いなぁと感じてしまう。
 外観も文句なく可愛いのだが、それだけではなく時々見せるうちの可愛さを知っている人は、あまりいないだろう。千波はそんな彼女のうちを知る、数少ない1人なのである。


 千波は、看護系の短期大学に進学することを志望している。
 保健師を目指しているのだが、その国家試験を受けるためには、看護師の資格を有さなければならないらしい。そのため、まずは3年制の大学に進学することが目標なのだ。国家試験を2つ受けることになるため、簡単になれるわけではない。
 それでも目指そうと思ったのは、保健師として地元の地域で働きたいという強い思いがあるからだ。
 正直授業料のことを考えると親に頭が下がらないのだが、自分が決めた道を進むなら応援する、と言ってくれた。だからその親の気持ちを無駄にしないためにも、保健師という目標に向かって頑張ろうと決めたのだ。絶対曲げてやるもんか、と。
 一方柚菜は、正直将来のことは考えていない、と言った。特に就きたい職業もなく、さほど興味のある職業もない。
 千波にしてみれば、それは意外な言葉だった。彼女は将来のことも早々に考えていて、これからどう道を進んで行くのかきちんとプランが出来ている。何の疑いもなく、そう思っていたのだ。
 それだけ千波から見た柚菜は、普段から自分をしっかり持っており、自分で決めたレールから外れることなく進むような人、なのだろう。
『仕事したいっていう気持ちはあるんだけどね。どんな仕事なのかって訊かれたら、答えられない。すごく漠然としてる。したいと出来るとはまた違うと思うし……』
 親には悪いけど、まだ自分を見つめる時間が欲しいなって思ったんだ。
 彼女が理数系より好きだという文系の大学を志望している理由はそれである。
 苦手というわけではないが、とにかく理数系は嫌いらしい。柚菜が自分の好きな科目を挙げれば、それは殆ど文系の科目が占める。自分を見つめる時間として大学へ進学するならば、文系を目指すのは妥当だろう、ということだ。
 更に言うと、その大学に進学しようという決め手は、比較的自宅から近いということもあった。電車で1時間もかからないらしい。何かを目指して進学するわけではないのだから、長時間かけて通学していては、4年間も続かない。それが彼女の言い分だった。
『だからさ、目標決まってる千波が羨ましい』
 今まで将来について考えていることを自慢に思っていたわけではない。それは歳を重ねれば、自然と考えるようになることだと思っていたからだ。
 だが自分の将来の目標を立てているということは、自分をしっかりと見つめて生きていこうとしている。そういうことだと、柚菜は言った。その言葉に、どれほど勇気付けられたことか。彼女と進路のことについて話が出来る友達で良かったと、その時本当に感じた。



 柚菜と友達になったきっかけは、高校の入学式。
 同じクラスで出席番号が前後だったため、入学式での席が隣同士だった。実はただ単に、それだけである。尤も、存外そんなものだろうが。
『あの、23番の人ですか…?』
 千波と同じ中学だった同級生は、皆クラスが別れてしまった。元々この高校を受験した同級生が少なかったこともあり、仕方のないことではあるが、やはり顔見知りの友達が直ぐ周りにいないのは寂しく不安だった。
 人見知りが激しい方ではないものの、自分から周りの人に話しかけるのは躊躇われた。登校した時間が早かったのか、前後左右に人はいない。離れた人の所に行って話しかける勇気もなく、そのため独りで体育館のパイプ椅子に座っていた。
 着慣れない制服に身を包んでいることも、少しは関係しているのかもしれない。
 数ヶ月前まではセーラー服だった制服が、ブレザーへと変わっている。可愛い制服と評判らしく、千波自身もそれが嘘ではなかったと思うのだが、何となく自分には不似合いな気がして仕方なかった。
 そんな時、右手から声をかけられた。
 入学式で1人ずつ名前を呼ばれるためだろう、椅子は出席番号順に決められている。千波の出席番号は23番。その番号を訊ねてきたということは、自分の前後辺りの人なのかもしれない。
 そ、そうです。と小さく答えつつ、千波は顔を上げる。
 そこには、同じ制服だというのに着る人によってこんなにも違うものなのか…、と思わざるを得ないような、可愛らしい女の子が立っていた。
 彼女はほっと安心したような表情で、右隣の椅子に座った。椅子は横1列につき4脚並べてあり、千波は右から2番目。声をかけてきた彼女の席は右の端で、つまり彼女の出席番号は千波の1つ後ろの24番ということになる。
『知ってる人がまだ誰も来てなくて、本当にここで合ってるのかなって心配だったんです』
 少し恥ずかしそうにそう言う彼女は、女の千波から見ても本当に可愛いと感じた。
 それから2人は、入学式が始まるまで互いの名前を教え合ったり、出身中学のこと、この高校でのこれからの生活について話をしていた。もちろんそれは、入学式を終えた後もずっと続き、今に至るのだが。
 因みに3年生の今、クラスは違う。
 3年生は進路別にクラスが分かれるため、理数系の看護大学を目指す千波と、文系大を目指す柚菜とはもちろんクラスは分かれてしまったのだ。
 去年、つまり2年生も違っていたため、実際に同じクラスだったのは1年生の時だけである。
 部活にしろ、陸上部に所属していた千波とは違って、柚菜はどの部にも所属していなかった。よくよく考えてみると、1年生の時に仲良くなったからこそ、今こうして一緒にいるのだろう。もし同じクラスでなかったら、出席番号が前後でなかったら、これほど一緒にいることはなかったかもしれない。
 また、これは後になって分かったことなのだが、
「そういえば、鈴原先輩は仕事どんな感じなの?高卒だと大変だよね……」
「どうなんだろ、最近仕事の話してないなぁ。先輩ってあたしには愚痴零さないから、ぶっちゃけ疲れてるかどうか、ぐらいしか分かんないんだよね。それさえも気付かせないことあるし」
 大学についての話がひと段落したので、少し話題を変えてみる。
 柚菜の彼氏である鈴原大と、千波の2つ離れた兄は高校時代からの友達なのだという。
 時々家に遊びに来ていた顔見知りの兄の友達が、突然学校で柚菜に話しかけてきた時は驚いたものである。忘れもしない、入学した直後の春のことだ。世間は狭いんだな、と思ったことは今でも覚えている。
 クラス内で、出席番号順に2人ずつ日直の仕事をすることになった。千波が奇数、柚菜が偶数の番号だったため、もしかしたら…という予想は当たり、2人は一緒に出来るようになったのである。
 ただ運が悪かったのは、10番台後半のペアがじゃんけんで勝ってしまったことだろう。
 何もかも1番の人から始めるのは不公平だ、という先生の意見により、それぞれのペアの1人が代表として、クラス内でじゃんけんを行った。勝ったペアが1番最後となる。つまり、その勝ったペアの次の出席番号のペアが最初、ということだ。
 その結果、勝ったのは10番台後半のペアだったため、当番制が始まって1週間も経たないうちに日直が回ってきてしまった。いつかは回ってくるものだが、何となく損をした気分になったのは、千波も柚菜も同じだった。
 まずは学校に登校して日誌を取りに行かなければならないため、共に電車通学である2人は乗る時刻を合わせ、入り難い職員室へと足を運ぶことにした。1人よりは2人で入る方がマシだ、というわけである。

 担任の先生から日誌を受け取り、職員室を後にする。入学したばかりでは、2人にとって職員室は見かけない先生たちばかりがいる、圧迫されるような空間なのである。緊張から解けたように息を吐く相手を見て、互いに笑みを零した。
『よ、おはよ』
 そして朝一の仕事を終えた2人が教室に向かおうとしていると、前から歩いてきた男の人が柚菜に声をかけてきた。
 少し着崩れた制服や学校に慣れている風な様子からして、上級生だろうかと千波は予想する。だが、その顔はよく見知ったものだった。兄の友達で、時々家に遊びに来ていた鈴原先輩だったのである。
『……オハヨウゴザイマス』
 この時、千波は2つ驚いたことがあった。
 1つは柚菜が鈴原先輩に挨拶をしたことだ。互いに顔見知りだったことはもちろん知らなかったため、一瞬誰に挨拶したのか理解出来なかった。
 そしてもう1つは、柚菜の鈴原先輩に対する態度である。
 彼女は猫を被っているわけでもないし、感情を無理やり抑えこむこともあまりしない。それはほんの数日一緒にいるだけでも分かった。だが、この時はあまりにも露骨に拒否するような態度を示したのだ。挨拶といっても、どう聞いても棒読みだった。
『朝からそんな厭そうな顔しなくてもいいだろ。……ん?岸井の妹、さん…?』
『え、あ…、お、おはようございます』
 驚きが大き過ぎて、話かけられた時、咄嗟に反応出来なかったほどだ。
『え、千波知り合いなの?』
 まさか柚菜と鈴原先輩が顔見知りだとは思ってもいなかったので、もちろん千波も彼と顔見知りだということは話していない。自分の兄が、同じこの高校の3年生だ、ということくらいである。
 そしてそう言った時の、柚菜の「何でコイツなんかと知り合いなの!?」と言わんばかりの表情も、今でもハッキリ覚えている。何やら只ならぬ関係がありそうだ、と思ったのもこの時が最初だった。
 後の話では、この時点ではまだ2人は付き合っていなかったらしい。
 どうやら2人は同じ中学出身で、柚菜は鈴原先輩を一方的に知っており、かなり忌み嫌っていたのだとか。それがどういうきっかけで付き合うようになったのかは、未だ聞けていない。恥ずかしくて言えないと、柚菜が断固拒否しているのだ。
 いつまで経ってもその経緯は聞けそうにないので、こうなれば兄に頼んで、鈴原先輩から聞き出してもらう方が賢明だろう。それなら善は急げだ。今日の夜にでも、さっそく兄に頼んでみよう。
「……本当はさ。もう少し愚痴言ってほしいんだ。別に聞きたいってわけじゃないけど、愚痴って人に話したら少し楽になったりするでしょ?だから、その、もうちょっと頼ってほしいなぁって」
 ――あたしって、頼りないのかなぁ……。
 柚菜は口を尖らせて、小さく溜息を吐く。
 時折こうして自分だけに本音を漏らしてくれることが、千波は嬉しかった。柚菜自身、あまり他人に自分の感情を押し付けないのだが、時々ぽろりと零す。それは決して誰彼構わずではなく、千波の前でのみ。
 こういうところが、彼女のうちの可愛さなのだ。普段しっかりしている分、余計に可愛らしく感じる。今までさすがに言葉に出したことはないが、こういう時の柚菜を見ると、ぎゅっと抱き締めたい…!と千波は密かに思っている。もちろん、今も然り。
 柚菜は恐らく大抵の人が見たら「可愛い」と言われる。そして、鈴原先輩も同じく「恰好良い」と言われる容姿だった。
 告白されようがスッパリ断る柚菜に対して、鈴原先輩は悪い意味で女の人に誰彼問わず愛嬌を振りまいている。硬派か軟派のどちらかと言われれば、誰もが軟派と答えるだろう。彼女の話では中学当時、最低の女タラシという意味で有名だったらしい。二股なんて当たり前、とさえ言っていた。
 そんな彼と付き合っているなんて、最初は考えられなかった。彼女にしては珍しく個人に向けて露骨に文句や悪口を言っており、何より肌が合わないような気がしたのだ。もちろん、外観だけならかなりお似合いだと思うが。
 しかし、2人が一緒にいるところを何度か目にするうちに、存外良い関係なのではないかと思うようになっていた。
 確かに柚菜は、鈴原先輩に対して常に厳しい口調で、彼はそれを気にすることなく話しかけている。また、柚菜に対して気を引くようなことを言い、彼女がそれを受け流している時もある。
 だがよく観察していると、柚菜の無関心な表情と厳しい口調は、いつも一緒に現れるわけではない。もしかすれば、顔や口に出さないだけで、この何でも言い合えるような関係が好きなのかもしれないと、千波は思ったのだ。
 恋愛に関しては不器用なんだ、と感じたのもその頃。鈴原先輩のことが異性として気になっているのに、それを誤魔化そうとしている彼女が、とてもいじらしく可愛かったのである。
 本当に一体、先輩はどのようにしてこの気難しい彼女をオトしたのだろう。その武勇伝を聞いてみたいものだ。
「それって、欲が出てきてるってことじゃない?彼氏がいないあたしとしては、今の柚ちゃんが羨ましすぎデス」
 頬をぷぅと膨らまし、少し嫌味を含んだような言い方をしてみる。
 尤も、正直な気持ちでもあったりする。現在彼氏いない歴更新中。更にここのところ、恋愛すらしていない。気になる人や彼氏が欲しいという気持ちは正直あまりないのだが、それでも『付き合う』ということに憧れを抱かないわけではない。
 ……そう、憧れだ。だから彼女のことを妬ましいと思う以前に羨ましいと、恋愛をしている彼女が可愛らしいと感じるのだろう。
 しかし柚菜からは、意外な言葉が返ってきた。
「彼氏、ね……。別にあたしは彼氏だとか、付き合ってるとか、そんなつもりないんだけど」
 思わず、千波の思考が停止する。
 付き合っていないのだと言うならば、今の2人の関係は一体何だと言うのだ。友達、先輩と後輩、友達以上恋人未満、犬猿の仲、……まさかただの顔見知り!?
 頭に思い浮かぶ言葉で、彼女にがぁーっと捲し立てるのをぐっと我慢して、せめてと目で強く訴える。
 何を考えているのだ!と言わんばかりの表情の千波に、柚菜もさすがにそれを感じ取ったのだろう。慌てふためくように、手と頸を横に振って自分の発言不足を認めた。
「い、いやそういうことじゃなくて。一緒にいるとほっとするというか、その時間が嫌いじゃないから、ただ一緒にいるだけっていうか……」
 恥ずかしそうに言う柚菜とは裏腹に、千波はぽかんと小さく口を開けている。
 少なくとも、鈴原先輩は付き合っていると思っているだろうし、もしそうでなかったとしても、柚菜と同じような気持ちがあるからこそ一緒にいるのだろう。お互いにそう思っているのなら、それは付き合っていると言ってもいいのではないだろうか。
 いや、意外と2人とも付き合っていると考えていないのかもしれない。柚菜の言う通り、一緒にいる時間が嫌いではないから、寧ろ好きだからただ一緒にいる、と。
 よし、このことも兄伝いで訊いてみよう。見ているだけでは分からない、思わぬ2人の関係が明らかになるかもしれない。期待に胸膨らませ、弛みそうになる頬を引き締めた。
「でも、正直言うと意外だった。先輩って何となく甘えたりとか、愚痴とかポンポン言いそうなのになぁ……」
 ……あ、そういうことか。
 千波はピンと閃いた。鈴原先輩が柚菜に愚痴を言わない理由が思い付いたのである。
 こんなチャンスは滅多にない。柚菜を苛めることが出来る、数少ない機会だ。慌てる柚菜を想像して、思わずニヤリ、と笑みを浮かべる。
 鈴原先輩と一緒にいる時間は柚菜の方が多いだろうが、彼が家に遊びに来ている時に話すことも、少なからずある。共通のことが柚菜である以上、自然彼女の話しになることが多いのだが、その度に思うのは、本当に柚菜のことが好きなんだな、ということ。
 いつも見ている、2人が一緒にいる時とは違う。微かに照れ臭そうに、優しい表情で話しているのを見て、大切に想っているということが伝わってくるのだ。柚菜をからかって遊んでいるような、軽いイメージがあったのだが、それは恋愛に不器用な彼女と上手く付き合うための手段のようである。
 こういった一面を知っているため、柚菜が知りえないことを、千波が気付く可能性は全くない、というわけではないということだ。そしてこれは確信を持って言える。
「本当に好きな子には、自分の弱い部分を見せたくないって感じかな?鈴原先輩って意外と純粋なんだねぇ。この幸せ者ォ」
「なっ……。千波やめてよ!」
 頬を仄かに赤く染めて、柚菜は千波に抗議する。
 最近、柚菜の様子がおかしかった。いや、おかしいというより元気がない、という感じだった。また喧嘩でもしたのだろうか。それとも、思ってもいないことを思わず口にしてしまい、気まずくなっているのだろうか(喧嘩においては、柚菜が一方的に怒っていることが多いが)。
 とにかくどうにかして聞き出して、元気付けてあげなければ。そう思っていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。要は、鈴原先輩があまり頼ってくれないため、落ち込んでいたのである。
 これなら心配する必要はなさそうだ。
 本当に大切に想っているからこそ、先輩は柚菜に自分の負の感情を押し付けまいと、何も言わない。それに気付けないから、柚菜は不安になる。互いに思っていることを隠さず伝えれば解決することだ。
 もう少し様子を見ていても大丈夫だろう、柚菜が焦ることなんて滅多にないのだから。そう嬉々していたのだが――。
「あぁ〜、もう。話やめ!ほら宿題しよ、宿題!」
 千波の話はもう聞かないとばかりに、端に置いていたノートを広げ、問題を読み始めた。明らかに赤くなった顔を隠し、これ以上墓穴を掘らないためだ。
「えっ、ちょっと待ってよ。まだ14時過ぎただけだよ!?」
 時計を見れば、柚菜が決めた14時半まで幾らか時間がある。
 からかうことには成功したが、どうやらそれは裏目に出てしまったらしい。存外柚菜は負けず嫌いで、頑固だ。こうなれば余程のことがない限り折れてはくれないだろう。
 仕方ない、ここは諦めて宿題をしよう。目標があれば、いつになく集中して出来るはずだ。そう、柚菜を再びからかい、苛めるという目標があれば……。

 

 

 

 

 


2005.11.18

11月期のサークル会報に出した作品です。
「逸脱因子」の後書きで、設定とリンクさせた作品を書きたいと言っていますが、
今回はそのリンクさせた作品、…になるのかなぁ……。
正直、その時に考えていた設定とは全く違うので。
柚菜と鈴原は殆ど出番なしの予定だったし(特に鈴原)、
出会った頃とは考えられないくらい、熟年夫婦みたいな感じでした(笑)




back