思えば、ほんの些細なことだった。
「香穂、何やってるの!」
まだ昼間だと言うのに、梅雨前線のお蔭で外は真っ暗。更には湿気で肌に空気が纏わり付く。
最悪の、気分。
16歳で9歳年上の人と結婚した朱美は、その数週間後に自分のお腹に新しい命が宿っていることを知った。
まだ子供であったため、戸惑いは自分だけではなく周囲からもひしひしと感じていたが、彼の「一緒に育てよう」という言葉に、産む決心をした。
やはり苦労は半端ではなかったものの、彼や周囲の人たちの温かい手に何度も助けられた。
自分を今まで育ててくれた母が、とても大きな人に見えたのである。
それから約6年が経ち。
彼は今、朱美と長女である香穂の傍にはいない。半年ほど前、単身で赴任してしまっていた。
何もなければ、1年半でこちらへ戻ってくる。それなら独りで大丈夫、と朱美は意地を張り娘と残ることにしたのだ。
しかし、もう限界がきていた。
先程の怒鳴り声は、娘の香穂がコップを倒し、入っていたジュースが零れたからである。
恐らくこの天気も関係あるのだろう。ほんの些細なことでもイライラは募るばかりだ。
更に彼女の目に映るのは、香穂の眼差し。
「…なに?その反抗的な目は……」
本当はどうすれば良いか分からず、助けを求めていただけなのだろう。
しかし今の朱美には、その純粋な瞳は彼女を追い詰めるものでしかなかったのだ。
次の瞬間、乾いた音が響き渡っていた。
我に返れば、眼前にいるのは瞳を潤ませ、左頬を微かに赤く染めた香穂。
一瞬、自分が何をしたのか分からなかった。朱美は床に脱力したように座り、自分の右掌を見る。
叩いた掌が痛い。
心が痛い、痛イ、イタイ……。
鈍い音も、ジンジンと痛む頬も。
今よりずっと幼い朱美はどこか客観的に感じていた。
小さな彼女を叩いたのは、実の父。
この頃彼は仕事がうまくいかず、何かあっては娘である朱美を叩いていた。彼の妻、つまり朱美の母が止めてと言っても全く耳に入れようとしない。
とうとうそれに耐え切れなくなった彼女は、朱美を連れて家を出たのである。
尤も数年後再婚した相手が、今の朱美の父だ。
だから、自分に子供が出来た時、絶対手は上げないと決めていた。絶対自分と同じ思いはさせたくないと、思っていたはずなのに。
「も…、や……」
こんな自分が厭だ。
自分では止められない、抑えることなんて出来ない。
どうして意地なんて張ってしまったのだろう。私はまだ、独りで生きていけるほど強くないのに……。
そんな思いが、しゃくり上げて泣く彼女の中で渦巻いていた。
そこに現れた、小さな光。
香穂がジュースと共に置いていたドーナツを半分に割り、朱美に差し出していたのだ。
「半分こ、しよう…?香穂のあげるから、泣いちゃやだ……」
微塵も予想していなかったことに、朱美の涙はピタリと止まった。思わず娘を凝視してしまう。
しかし未だ朱美が反応を示さない理由が、差し出したドーナツに不満があるからだと感じたのだろうか。
俯いて思案した後、香穂は少し大きめの方のドーナツを持った左手を、右手と入れ替わりに差し出したのである。
また、朱美の視界は翳み出していた。眦が、鼻が、ヒリヒリと痛む。
「ママ……?」
泣かないでと言ったのに、泣き止んでくれる気配のない母親に、香穂は首を傾げる。
「ん……ごめん、もう泣かない。ごめんね、叩いて……。痛かったよね…?」
「香穂も、ごめんなさい」
その言葉に、朱美は再び呆気にとられてしまう。
今、一体何と言っただろうか。
「香穂がダメなことしたから、ママは叩いたんでしょ?だから、ごめんなさい。ママはごめんなさいしなくてもいいよ」
いつの間に、この子はこんなに大きくなっていたのだろう。
この子の優しさに気付けなかった私は、何て莫迦なんだろう。
「香穂っ……!」
朱美は、香穂を強く抱き締める。
香穂の「ママ、ちょっと苦しい……」という言葉が耳に入るまで。腕を放した時、いつもの眩しい笑顔に、また泣きそうになってしまったけれど。
貴女を優しく包み込める、そんな母親になりたい。
――…ううん、なりたいんじゃなくて、なろう。
自分が動き出さなくちゃ、何も変わらない。だから……
――ねぇ、香穂。
――なぁに?
――もし、またママが香穂のこと叩いちゃったら、どうして叩いたの、って聞いてね。
もしかしたら、香穂は何も悪いことしてないのに叩いちゃったかもしれないから…。
――うん、分かった。じゃあ、香穂が悪いことしたら、香穂のこと怒ってね。
――…うん…。
痛みも、優しさも、一緒に分かち合おう。
貴女がいるから、私は私でいられる。
だって私にとって貴女は、私の一部だから……
back