011:柔らかい殻

 思えば、ほんの些細なことだった。
「香穂、何やってるの!」
 まだ昼間だと言うのに、梅雨前線のお蔭で外は真っ暗。更には湿気で肌に空気が纏わり付く。
 最悪の、気分。

 

 

 16歳で9歳年上の人と結婚した朱美は、その数週間後に自分のお腹に新しい命が宿っていることを知った。
 まだ子供であったため、戸惑いは自分だけではなく周囲からもひしひしと感じていたが、彼の「一緒に育てよう」という言葉に、産む決心をした。
 やはり苦労は半端ではなかったものの、彼や周囲の人たちの温かい手に何度も助けられた。
 自分を今まで育ててくれた母が、とても大きな人に見えたのである。
 それから約6年が経ち。
 彼は今、朱美と長女である香穂の傍にはいない。半年ほど前、単身で赴任してしまっていた。
 何もなければ、1年半でこちらへ戻ってくる。それなら独りで大丈夫、と朱美は意地を張り娘と残ることにしたのだ。
 しかし、もう限界がきていた。
 先程の怒鳴り声は、娘の香穂がコップを倒し、入っていたジュースが零れたからである。 恐らくこの天気も関係あるのだろう。ほんの些細なことでもイライラは募るばかりだ。
 更に彼女の目に映るのは、香穂の眼差し。
「…なに?その反抗的な目は……」
 本当はどうすれば良いか分からず、助けを求めていただけなのだろう。
 しかし今の朱美には、その純粋な瞳は彼女を追い詰めるものでしかなかったのだ。
 次の瞬間、乾いた音が響き渡っていた。
 我に返れば、眼前にいるのは瞳を潤ませ、左頬を微かに赤く染めた香穂。
 一瞬、自分が何をしたのか分からなかった。朱美は床に脱力したように座り、自分の右掌を見る。


 叩いた掌が痛い。
 心が痛い、痛イ、イタイ……。

 

 

 

 

 鈍い音も、ジンジンと痛む頬も。
 今よりずっと幼い朱美はどこか客観的に感じていた。
 小さな彼女を叩いたのは、実の父。
 この頃彼は仕事がうまくいかず、何かあっては娘である朱美を叩いていた。彼の妻、つまり朱美の母が止めてと言っても全く耳に入れようとしない。
 とうとうそれに耐え切れなくなった彼女は、朱美を連れて家を出たのである。
 尤も数年後再婚した相手が、今の朱美の父だ。
 だから、自分に子供が出来た時、絶対手は上げないと決めていた。絶対自分と同じ思いはさせたくないと、思っていたはずなのに。
「も…、や……」
 こんな自分が厭だ。
 自分では止められない、抑えることなんて出来ない。
 どうして意地なんて張ってしまったのだろう。私はまだ、独りで生きていけるほど強くないのに……。
 そんな思いが、しゃくり上げて泣く彼女の中で渦巻いていた。
 そこに現れた、小さな光。
 香穂がジュースと共に置いていたドーナツを半分に割り、朱美に差し出していたのだ。
「半分こ、しよう…?香穂のあげるから、泣いちゃやだ……」
 微塵も予想していなかったことに、朱美の涙はピタリと止まった。思わず娘を凝視してしまう。
 しかし未だ朱美が反応を示さない理由が、差し出したドーナツに不満があるからだと感じたのだろうか。
 俯いて思案した後、香穂は少し大きめの方のドーナツを持った左手を、右手と入れ替わりに差し出したのである。
 また、朱美の視界は翳み出していた。眦が、鼻が、ヒリヒリと痛む。
「ママ……?」
 泣かないでと言ったのに、泣き止んでくれる気配のない母親に、香穂は首を傾げる。
「ん……ごめん、もう泣かない。ごめんね、叩いて……。痛かったよね…?」
「香穂も、ごめんなさい」
 その言葉に、朱美は再び呆気にとられてしまう。
 今、一体何と言っただろうか。
「香穂がダメなことしたから、ママは叩いたんでしょ?だから、ごめんなさい。ママはごめんなさいしなくてもいいよ」
 いつの間に、この子はこんなに大きくなっていたのだろう。
 この子の優しさに気付けなかった私は、何て莫迦なんだろう。
「香穂っ……!」
 朱美は、香穂を強く抱き締める。
 香穂の「ママ、ちょっと苦しい……」という言葉が耳に入るまで。腕を放した時、いつもの眩しい笑顔に、また泣きそうになってしまったけれど。

 

 

 貴女を優しく包み込める、そんな母親になりたい。
 ――…ううん、なりたいんじゃなくて、なろう。
 自分が動き出さなくちゃ、何も変わらない。だから……


 ――ねぇ、香穂。
 ――なぁに?
 ――もし、またママが香穂のこと叩いちゃったら、どうして叩いたの、って聞いてね。
    もしかしたら、香穂は何も悪いことしてないのに叩いちゃったかもしれないから…。
 ――うん、分かった。じゃあ、香穂が悪いことしたら、香穂のこと怒ってね。
 ――…うん…。


 痛みも、優しさも、一緒に分かち合おう。
 貴女がいるから、私は私でいられる。
 だって私にとって貴女は、私の一部だから……