昏々 -白鷺-

 ドアを開けるまではよかったのだが、まだ覚醒しきっていないためか、決して小さいとは言えない音を立てて閉めてしまう。
 孝子は思わず息を呑んだ。
 案の定、出てきた部屋と繋がっているダイニングにいた唯は、顔を上げる。
 はっきりとは覚えていないが、眠りに入る直前、着替えて本を持ち部屋を出ていった気がする。
 唯は、1度小説を読み始めると、特に静寂の中でなら周りの変化に気付かない。
 あれからずっと本を読み続け、ドアの音にようやく8時を過ぎていると知ったのも、あながち間違っていないかもしれないと孝子は思った。

「……おはよ、孝子」

 目線が交わり、数時間前部屋に入れてくれた時と同じように、笑って受け入れてくれる唯が眩しくて泣きそうになる。
 昔からどちらかと言えば否定的、ネガティブな思考の孝子。
 そんな彼女を、嫌な顔をせず手を引っ張ってくれたのは唯だった。
 唯が楽観的かと言えば、そうではない。
 しかし今もこうして会う機会があるということは、波長が合っているのだろう。
 尤も、そんなことを唯が言うと、彼女が自分に合わせてくれているからでは…。そう思ってしまうのが孝子である。
 自分でも厭になる、この性格。
 明け方、目一杯彼女に愚痴を零したことをあまり思い出したくなくて、何か話題はないか、と視線を泳がす。
 その時、目に入った1枚の写真。

「…これ、どこの?」

 写真は幾つかあるのだが、風景が殆どを占める中、1枚だけ違うものがある。
 何となく見覚えがあるような気がする、しかし何かまでは分からない。
 はっきり言えるのは、それは城だということだけだ。

「あぁ、姫路城だって。分かる?兵庫県にある、えぇと…世界文化遺産のお城」

 姫路城とは、兵庫県姫路市にある平山城。城郭建築最盛期の貴重な遺構である。
 妹が近畿地方の大学へ行っているのだが、写真を撮りに兵庫まで行き、それを送ってきたとのこと。
 ちなみに孝子が見覚えがあると感じたのは、かつて高校で習った日本史の教科書に載っていたためだ。
 唯と彼女の妹は、とても仲が良い。
 幾度か孝子も会ったことがある。話をしたこともあり、その時に写真を撮ることが好きだ、と言っていたことをぼんやりと思い出した。

「そういえば、久しぶりに孝子に会いたいな〜って言ってたよ。大学に話出来る子がいないんだって」

 2人が同じアーティストを好きだと知ったのは、妹の大学の入学が決まった頃。
 どちらかといえばマイナーなのだ、ようやく話を共有出来る人が現れた!と喜んだのも束の間、会う機会すらなくなってしまった。
 今話出来る人がいないのは孝子も同じだったため、

「じゃあ、またこっちに帰ってくる時があったら教えて。あたしも話したいし」

 会いたいという気持ちに嘘はないが、何とか話が逸れたことには心の中で小さく溜息を吐く。
 明け方やってきて愚痴を零したことを後悔するくらいなら、唯に悪いと思うくらいなら何故来たのだ。
 そう言われれば、ぐうの音も出ない。
 しかし様々な憤りは次から次へと積み重なり、気付けば独りで消化するには限界がきていた。
 仕舞い込んでしまっている不安や悩みを、誰かに聞いてもらわなければ自分が毀れてしまいそうで……。
 その誰か、は唯しかいなかった。
 家族と共に暮らしていない今、包み込んでくれるのは彼女だけなのである。
 とにかく、こんな否定的で悲観的な性格は嫌いだ。
 出来るものなら直したい、と思う。……出来るものなら。
 しかし遺伝でなくとも、既に20年もこの性格で生きてきた。染み付いているとか、そういう問題ではない。

「あ、ホント?絶対喜ぶよ、あの子。孝子ありがと」

 あぁ、やっぱり唯が眩しい。
 彼女と同じようにとまでは言わないから、せめて少しでも彼女に近付きたい。
 そんな風に思い始めて、一体何年経ってしまっただろう。
 しかし、唯は孝子の気持ちを、憤りを分かってくれている。
 自分の性格が嫌いで、だからといって直ぐに性格を変えることなど出来なくて、葛藤して。こんな孝子を分かって傍にいてくれる。
 だから彼女を眩しく感じるのであって、頼ってしまうのだ。
 唯のことをどう思っているのかと問われれば、恐らく好きだと答えるだろう。
 異性に対する感情とはまた違う。別に同性愛だとか、そういうものでもなく。
 ただ純粋に「好き」なのだ。いつも自分のことを考えてくれる、手を差し伸べてくれる彼女が。

「……ね、唯…」
「ん、なに?」

 その気持ちを、言ってみようと思った。
 何だかいつも以上に迷惑をかけてしまった気がする今日。
 当然と言えば当然だが、今まで言葉になどしたことのなかった、想い。
 しかし別に畏まって言うようなことでもないが、何となくしらふの時に言うのは恥ずかしい気もする。
 …というわけで、

「…ごめん、名前呼んでみただけ」

 やっぱり止めた。
 何よそれ〜、と少し頬を膨らませて反論してみる唯。
 しかし、子供っぽい行動だったからだろうか。暫くして唯は小さく吹き出し、笑い始める。
 そんな彼女を見て、孝子の表情も綻んでいく。
 そしてこう思うのだ、やっぱり唯のこと大好きかも、と。






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