073:煙

 フィルターを銜える、少し薄い口唇。
 桜色のマニキュアが彩られた、すらりとした長い指が銜えていたモノを口唇から外すと同時に、ゆっくりと紫煙が吐き出される。
 好きになれないその煙に目を細めながらも、流れるような一連の動作から視線を放せずにいた―――。








「――…なに?」

 ふいに、声を掛けられた。
 気付かれるほど見過ぎていたのか……。俺は何でもない、という素振りを表す。
 一方、上司は怪訝そうな表情で俺を見た後、何か思い付いたように指で挟んでいたモノ――煙草を灰皿に押し付け、火を消した。

「ごめん、煙草苦手なんだっけ? それなら早く言ってくれたら良かったのに」
「え、―――あ、いや、嫌いですけど、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」

 どうやら、俺が彼女を見ていた理由が、煙草を早く消してくれ、と目で訴えていると勘違いしたようである。
 確かに煙草は嫌いであるが、ここは禁煙スペースではないのだから、謝られるのは間違っているのだが。




 昼休み、今日は食堂に行く時間がいつもより遅かった為、既に禁煙スペースは人で溢れていた。
 極力喫煙者に近寄りたくない――匂いさえ、出来れば避けたい――のだが、昼食は持参していないし、今から社外に食べに行く時間もない。ならば、選択肢は1つくらいしか思い付かないわけで……。
 嫌々ながらも、我慢して喫煙スペースで過ごすことにし、早くモノを寄越せという、自分の胃の激しい訴えを聞き入れることにしたのである。
 喫煙スペースも何だかんだと結構な広さがあり、有り難いことに、ある一角では座っているのは1人のみ、という場所があった。不幸中の幸いと言うと大袈裟だが、もっと煙の充満した空間で食べなくてはならないと思っていた為、喜ばしい限りである。
 そしてその、座っていた1人≠ニいうのが、俺の上司なのだ。
 上司――彼女が喫煙者であることは以前から知っていたが、実際に喫煙する姿を目にするのは初めてかもしれない。上司は昼食を終え、ここで一服しているようで、昼食を乗せたトレイを手にする俺を一瞬見た後、再び視線を戻した。
 それにしても、この辺りで座っているのは彼女のみとはいえ、やはり喫煙スペース。この場に染み付いているような煙草の匂いが気になり、早めにご飯を食べ終えたのはいいが、その分直ぐに動くのが億劫になってしまった。これでは急いだ意味はなかったと少し気落ちしつつ、暫く座っていることにした。
 そうすると自然と目が行くのは、相も変わらず煙草を吹かせている上司の姿。
 喫煙者に自ら近寄ることが滅多にない為、こうして煙草を吸う姿をまじまじと見るのも数えるほどだ。特に女性が吸っている姿は殆どなかった気がする。
 指に映えるマニキュアだとか、ほんのりと紅で彩られた口唇だとか……。言葉で表すほど、特別艶やかさのようなものを感じる動作ではないのだが、どこか魅かれるモノがあって視線を放せずにいた。
 そうして、上司に声を掛けられたのだ。

「いえ、煙草を吸う動作がすごく様になっているというか、綺麗だなぁと……」
「そう? 煙草吸ってる姿なんて、皆一緒だと思うけど」
「……そうなんですか?」
「まぁ、そう言ってもらえて、嫌な気はしないけど」

 特に隠す必要もない為、実際に思ったことを口にしたのだが、気に止める動作ではなかったらしい。
 しかし、今ひとつ理解出来ないというか、腑に落ちない。
 嫌いなモノは、たとえ好ましく思っている人がしていることでも、好きになどなれない。特に自分にとって煙草なんてその典型的なモノだと思っていた。だから、何メートルも離れていない距離で過ごすだけでなく、もう少し喫煙する姿を見ていたい…。そう無意識に思った自分に、驚いているのだ。
 その理由は、一体何なのだろう。……例えば、もしかして彼女に惚れていて、無意識にまだ見ていたいと思っていた、とか…? ――…いや、それは違うような気がする。
 彼女は効率良く仕事をこなし、俺たち部下への指示も的確なうえ、目配りのきく出来た人だ。そういったところは憧れるし、尊敬している。
 だが、少々性格がキツイというか、他者に厳しいところがあって、仕事をしていてももう少し柔らかな言葉を使ってほしい…、と思うことが度々ある。その指示――言葉が的確であることは、頭では分かっているのだが、常に怒られているような気がして仕方ないのだ。
 つまり、上司として付き合う分にはまだ良いのだが、1人の女性として付き合うのは正直なところ遠慮したい。怒られているような気分になるのは、仕事だけで良い……。
 というわけで、惚れているから、という理由ではないと思う。ならば、他の理由が何かあるのだろうか? 思い付くのは、好意云々くらいしかないのだが……。

「さて、と…、じゃあまた後で。煙草、本当にごめんね」
「あ、はい。こちらこそすみませんでした」

 ……まぁ、今こうして悩んでいても仕方ない。例えば、もし本当に惚れているのだとしたら、そのうち自覚する時が来るだろう。それこそ今日と同じように、彼女の姿を見ていたいなどと思うことが今後あれば、やっぱり異性として気になっているのかもしれない。
 そしていつの間にか来ていた、上司とは別の喫煙者の煙に少し咳き込みながら、俺は食堂を後にするのだった。





* * * * * * *
名なしの上司と部下。
精神的な力関係をどうするか…と考えて、
結局は上司≒部下にしました。
意識せずに書いていたら、
部下が(天然)誑しへ突っ走っていってたので…;

お題としては、煙=煙草っていうのが安直な感じで不満だったり。