077:欠けた左手

「陸人、遅くなってごめんな」
 その日、僕を迎えに来たのはパパだった。


 今日はママじゃなくてパパが来てくれた。
 それに、いつもは1番始めに帰るのに、今日は1番遅かった。
 だからみんなはもう帰っちゃってて、パパが来るまで先生と2人だった。
「じゃあ陸ちゃん、また月曜日ね。バイバイ」
 先生がバイバイしてるから、僕もバイバイする。
 いつもは僕が1番始めに帰るから、みんなもバイバイしてくれる。
 今日は先生だけだから、ちょっとさみしい……。

 僕はパパと一緒に、パパの車に向かって走った。
 パパの車はおっきくて大好き。
 ふかふかしてるし、ごろんしても怒られない。
 ママがいないのはさみしいけど、帰ったらママにパパの車に乗ったこと言うんだ。
 ねぇママ、パパの車に乗ったんだよって。
 いっつもママの小さい車ばっかりだから、いいでしょ〜って。
 そうしてワクワクしながら乗ったら。
 車には、僕の知らない大きなお姉ちゃんが乗っていた――。







 ママが、どこにもいない。
 家に帰っても、ママはいなかった。
 いつも僕とママが先で、パパは夜に帰ってくるのに。
 テレビの部屋も、ご飯を食べる部屋も、寝る部屋も、トイレも。
 全部の部屋を見たけど、ママはいなかった。
「ママ……」
 どうしてママはいないんだろう。
 パパはいるのに、大きいお姉ちゃんもいるのに。
 なんで、どうしてママだけ……。
 僕が「ママ」って言ったら、パパが僕の名前を呼んだ。
 パパはしゃがんで、僕と背が同じくらいになる。
 困ったような顔に見えるのは、気のせい?
「……陸人、ママは――に、お祖母ちゃんの家に――んだ。だから家にいないんだ」
 知らない言葉がいっぱいで、パパが何を言っているのか僕には分からなかった。
 ただ、ママがいないって、帰ってこないっていうことだけは分かった。
「だから、亜弥(あや)お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」
 そして、ママの代わりに、大きいお姉ちゃんがいるっていうことも。
 お姉ちゃんは、誰なんだろう。
 パパの友達?ママの友達?
 僕はよく分からないし、ママがいないのはすごく嫌だったけど、
「うん」
 ってパパに嘘を吐いた。
 そしたらパパは「えらいぞ、陸人」って言って、僕の頭をくしゃくしゃにした。

 ママはいつも、僕の頭をなでてくれる。
 鉛筆やはさみを持つ時、ママは左(こっち)の手を使う。
 だから僕の頭をなでる時も、いつも左(こっち)の手。
 もう、ママになでなでしてもらえないのかな……。
「託児所の先生、陸人くんのこと『陸ちゃん』って呼んでたよね?私も陸ちゃんって呼んでもいい?」
 大きいお姉ちゃんが、パパと同じようにしゃがんで小さくなった。
 ママや先生や、みんなも僕のことを『陸ちゃん』って呼ぶ。
 『陸人』って呼ぶのはパパだけ。
 だから、別にそう呼ばれるのは嫌いじゃないから、
「うん、いいよ」
 って大きいお姉ちゃんに言ったら、お姉ちゃんはすごく嬉しそうな顔をした。
 何となく、僕も一緒に笑った。
「私は亜弥。お姉ちゃん、でいいよ」
「じゃあおねえちゃん、むこうであそぼ!」
「あぁっ、ちょっと待って。陸ちゃん、先にご飯食べよ、ご飯」
 お姉ちゃんがそう言ったから、僕もお腹が減ってきたなって思った。
 ご飯を食べた後に一緒に遊ぶ約束をして、僕はお姉ちゃんを、ご飯を食べる部屋に連れて行った。







 ママがいなくなってから、大きいお姉ちゃんはずっと家にいる。
 僕を送ってくれるのも、迎えに来てくれるのもお姉ちゃん。
 いっぱい遊んでくれるし、ご飯も作ってくれる。
 時々一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりもした。
 今日も迎えに来てくれたから、手を繋いで歩いて家まで帰ってる。
「陸ちゃん、今日は晩ご飯何にしよっか」
 お姉ちゃんの作るご飯はおいしい。
 パパが作ったご飯は、あんまりおいしくない。
 だから、お姉ちゃんが家にずっといるのかな。
 おいしくないご飯より、おいしいご飯の方がいい。
 ……それとも、ママがいないから、ママの代わりにご飯を作ってくれてるの…?
「ただいまぁ」
「ただいま〜」
 家に着くと、お姉ちゃんの真似をして、僕も「ただいま」って言う。
 いつもパパは僕より帰ってくるのは遅いから、
 「ただいま」って言っても「おかえり」っていう声は聞こえない。
 でも、お姉ちゃんはいつも「ただいま」って言ってる。
 どうしてなんだろう。家には誰もいないのに。
 靴を脱いで、手を洗って、うがいをして。
 外はすっごく暑かったから、喉がすっごく渇いてた僕は、ジュースを取ってもらおうとお姉ちゃんにお願いをする。
 そしたら。
「おかえり、陸人」
 そこには、ママがいた。
 もう帰ってこないと思ってたママが、白い服みたいなものを持って椅子に座ってた。
 ママの横には、パパも一緒にいる。
 なんで?どうして?
 ママが、ママが家にいる……。
「どしたの?もしかして陸ちゃん、ママのこと忘れちゃった…?」
「ま、ま……」
 僕は持ってた鞄を投げて、ママの方に走った。
 ママだ、本物のママだ。
 ママが帰ってきてくれたんだ――!
「『さやか』っていうの。陸ちゃんはお兄ちゃんになったんだよ」
「にぃ、ちゃ…?」
 ジュースを飲んで、テレビのある部屋のソファに座って。
 ママは白い服みたいなものを僕に見せてくれた。
 それは、ちっちゃい顔と、ちっちゃい手と、ちっちゃい足。
 今はおねんねしてるみたい。『さやか』は、すーすー言ってる。
「陸ちゃん、思ってたよりずっと大人しくて、手も全然掛からなかったよ」
 お姉ちゃんが、ママと喋ってる。
 やっぱりお姉ちゃんは、ママの友達だったのかなぁ。
「え、そうなの?……偉かったね、陸人。お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてたんだね」
 ママはそう言って、僕の頭をなでてくれた。
 おっきくて、あったかくて、優しい手で、なでてくれた。
 いつもみたいに。左(こっち)の手で。
 それが嬉しくて、気持ち良くて。
 僕は笑った。
 お姉ちゃんも好き。パパも好き。
 でも僕は、やっぱりママが1番好き。
 ママが、大好き。

「亜弥ちゃん、ありがと。本当に助かったわ」
「ホント、身内に保育士の卵がいるとラクだなぁ」
「へへ、良い妹持ったでしょ、お兄ちゃん?まぁ夏休みで暇だったし、なかなかこんな経験も出来ないしね。保育科って言っても、小さい子と触れ合う機会なんて少ないんだよね〜」
 ママとパパとお姉ちゃんが、何か話をしてる。
 だから、ちょっとだけ『さやか』のちっちゃい手を触ってみた。
 すっごくちっちゃい。ぷにぷにしてる。
 僕は今日から『にーちゃ』なんだって。
 『にーちゃ』って何なのかな?
 僕ってすごいのかな?
 ……ママ、ずっと家にいるのかな。
 ママもパパもお姉ちゃんもさやかも、今日はみんな一緒にいるのかな。
 いっぱい、いっぱいお話したい。遊びたい。
 だから、仲良しになれるおまじない、さやかにも。
 そぉっと手を伸ばして、僕はさやかの頭をなでなでしてあげた。