「陸人、遅くなってごめんな」
その日、僕を迎えに来たのはパパだった。
今日はママじゃなくてパパが来てくれた。
それに、いつもは1番始めに帰るのに、今日は1番遅かった。
だからみんなはもう帰っちゃってて、パパが来るまで先生と2人だった。
「じゃあ陸ちゃん、また月曜日ね。バイバイ」
先生がバイバイしてるから、僕もバイバイする。
いつもは僕が1番始めに帰るから、みんなもバイバイしてくれる。
今日は先生だけだから、ちょっとさみしい……。
僕はパパと一緒に、パパの車に向かって走った。
パパの車はおっきくて大好き。
ふかふかしてるし、ごろんしても怒られない。
ママがいないのはさみしいけど、帰ったらママにパパの車に乗ったこと言うんだ。
ねぇママ、パパの車に乗ったんだよって。
いっつもママの小さい車ばっかりだから、いいでしょ〜って。
そうしてワクワクしながら乗ったら。
車には、僕の知らない大きなお姉ちゃんが乗っていた――。
ママが、どこにもいない。
家に帰っても、ママはいなかった。
いつも僕とママが先で、パパは夜に帰ってくるのに。
テレビの部屋も、ご飯を食べる部屋も、寝る部屋も、トイレも。
全部の部屋を見たけど、ママはいなかった。
「ママ……」
どうしてママはいないんだろう。
パパはいるのに、大きいお姉ちゃんもいるのに。
なんで、どうしてママだけ……。
僕が「ママ」って言ったら、パパが僕の名前を呼んだ。
パパはしゃがんで、僕と背が同じくらいになる。
困ったような顔に見えるのは、気のせい?
「……陸人、ママは――に、お祖母ちゃんの家に――んだ。だから家にいないんだ」
知らない言葉がいっぱいで、パパが何を言っているのか僕には分からなかった。
ただ、ママがいないって、帰ってこないっていうことだけは分かった。
「だから、亜弥(あや)お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」
そして、ママの代わりに、大きいお姉ちゃんがいるっていうことも。
お姉ちゃんは、誰なんだろう。
パパの友達?ママの友達?
僕はよく分からないし、ママがいないのはすごく嫌だったけど、
「うん」
ってパパに嘘を吐いた。
そしたらパパは「えらいぞ、陸人」って言って、僕の頭をくしゃくしゃにした。
ママはいつも、僕の頭をなでてくれる。
鉛筆やはさみを持つ時、ママは左(こっち)の手を使う。
だから僕の頭をなでる時も、いつも左(こっち)の手。
もう、ママになでなでしてもらえないのかな……。
「託児所の先生、陸人くんのこと『陸ちゃん』って呼んでたよね?私も陸ちゃんって呼んでもいい?」
大きいお姉ちゃんが、パパと同じようにしゃがんで小さくなった。
ママや先生や、みんなも僕のことを『陸ちゃん』って呼ぶ。
『陸人』って呼ぶのはパパだけ。
だから、別にそう呼ばれるのは嫌いじゃないから、
「うん、いいよ」
って大きいお姉ちゃんに言ったら、お姉ちゃんはすごく嬉しそうな顔をした。
何となく、僕も一緒に笑った。
「私は亜弥。お姉ちゃん、でいいよ」
「じゃあおねえちゃん、むこうであそぼ!」
「あぁっ、ちょっと待って。陸ちゃん、先にご飯食べよ、ご飯」
お姉ちゃんがそう言ったから、僕もお腹が減ってきたなって思った。
ご飯を食べた後に一緒に遊ぶ約束をして、僕はお姉ちゃんを、ご飯を食べる部屋に連れて行った。
ママがいなくなってから、大きいお姉ちゃんはずっと家にいる。
僕を送ってくれるのも、迎えに来てくれるのもお姉ちゃん。
いっぱい遊んでくれるし、ご飯も作ってくれる。
時々一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりもした。
今日も迎えに来てくれたから、手を繋いで歩いて家まで帰ってる。
「陸ちゃん、今日は晩ご飯何にしよっか」
お姉ちゃんの作るご飯はおいしい。
パパが作ったご飯は、あんまりおいしくない。
だから、お姉ちゃんが家にずっといるのかな。
おいしくないご飯より、おいしいご飯の方がいい。
……それとも、ママがいないから、ママの代わりにご飯を作ってくれてるの…?
「ただいまぁ」
「ただいま〜」
家に着くと、お姉ちゃんの真似をして、僕も「ただいま」って言う。
いつもパパは僕より帰ってくるのは遅いから、
「ただいま」って言っても「おかえり」っていう声は聞こえない。
でも、お姉ちゃんはいつも「ただいま」って言ってる。
どうしてなんだろう。家には誰もいないのに。
靴を脱いで、手を洗って、うがいをして。
外はすっごく暑かったから、喉がすっごく渇いてた僕は、ジュースを取ってもらおうとお姉ちゃんにお願いをする。
そしたら。
「おかえり、陸人」
そこには、ママがいた。
もう帰ってこないと思ってたママが、白い服みたいなものを持って椅子に座ってた。
ママの横には、パパも一緒にいる。
なんで?どうして?
ママが、ママが家にいる……。
「どしたの?もしかして陸ちゃん、ママのこと忘れちゃった…?」
「ま、ま……」
僕は持ってた鞄を投げて、ママの方に走った。
ママだ、本物のママだ。
ママが帰ってきてくれたんだ――!
「『さやか』っていうの。陸ちゃんはお兄ちゃんになったんだよ」
「にぃ、ちゃ…?」
ジュースを飲んで、テレビのある部屋のソファに座って。
ママは白い服みたいなものを僕に見せてくれた。
それは、ちっちゃい顔と、ちっちゃい手と、ちっちゃい足。
今はおねんねしてるみたい。『さやか』は、すーすー言ってる。
「陸ちゃん、思ってたよりずっと大人しくて、手も全然掛からなかったよ」
お姉ちゃんが、ママと喋ってる。
やっぱりお姉ちゃんは、ママの友達だったのかなぁ。
「え、そうなの?……偉かったね、陸人。お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてたんだね」
ママはそう言って、僕の頭をなでてくれた。
おっきくて、あったかくて、優しい手で、なでてくれた。
いつもみたいに。左(こっち)の手で。
それが嬉しくて、気持ち良くて。
僕は笑った。
お姉ちゃんも好き。パパも好き。
でも僕は、やっぱりママが1番好き。
ママが、大好き。
「亜弥ちゃん、ありがと。本当に助かったわ」
「ホント、身内に保育士の卵がいるとラクだなぁ」
「へへ、良い妹持ったでしょ、お兄ちゃん?まぁ夏休みで暇だったし、なかなかこんな経験も出来ないしね。保育科って言っても、小さい子と触れ合う機会なんて少ないんだよね〜」
ママとパパとお姉ちゃんが、何か話をしてる。
だから、ちょっとだけ『さやか』のちっちゃい手を触ってみた。
すっごくちっちゃい。ぷにぷにしてる。
僕は今日から『にーちゃ』なんだって。
『にーちゃ』って何なのかな?
僕ってすごいのかな?
……ママ、ずっと家にいるのかな。
ママもパパもお姉ちゃんもさやかも、今日はみんな一緒にいるのかな。
いっぱい、いっぱいお話したい。遊びたい。
だから、仲良しになれるおまじない、さやかにも。
そぉっと手を伸ばして、僕はさやかの頭をなでなでしてあげた。
back