093:Stand by me

この話は「larme〜飛べない小鳥〜」の番外編です。
上記ページの「白い望」と同じ内容になっています。







 陽が沈みかけようとしている。
 基本的に、陽が沈めば城内に住まう者は仕事を終え、休息を求める。尤もこの時間から忙殺になるのは、晩餐の準備に取り掛かる者たちだ。幾分かすれば城内に良い馨りが漂い始めるだろう。
 金糸雀(カナリヤ)色の大きなガラス窓から覗くのは、白い月。
「……今日は望月、か」
 それは、独り言だったのかもしれない。
 既に本日の皇子≠ニしての仕事を終えたヴィラは、義兄の部屋へ来ていた。
 だがどうやらユリスは、これから出向かなければならない所があるようだ。平素は堅苦しい上に重いと文句を垂れている、正装用のマントを肩口で止めている。
 彼が身体を動かす度に翻る藍玉色のマントは、その原石のような瞳のためか、彼に良く似合う、と常々ヴィラは思っていた。
 自分の胡桃色の髪と翡翠の瞳に、このマントは少々不似合いなのである。
 愛する母から継いだこれらが、決して嫌いなわけではない。寧ろ好きだからこそ、似合う義兄が羨ましいと感じるのだ。
 今も何も変わらないと分かっていて、自分が着衣しているマント――こちらは正装用ではないが、その鮮やかな色は同じだ――の裾を少し引っ張ってみたりする。
 そしてユリスがポツリ、と呟いた先程の言葉に、
「え…?」
 思わず反応して振り返ると、彼は苦笑いの表情を漏らしていた。
 やはり独り言だったのだろう。そしてその表情に続いたのは、リリィの所へ行ってくれないか、という言葉。
 別に断る理由もないのだが、しかしそれには躊躇いの気持ちがヴィラにはあった。
 もう直ぐ陽が沈む。それは同時に、リリィが国の安定を祈る時刻でもあることを示すのだ。未だその時刻に達していないとはいえ、今彼女の視界に在(い)るべきではない。それをユリスはもちろん認識しているはずなのに、何故――。
 試行錯誤しているヴィラを見捉え、更に「早く行かねえと、本当に時間ねえぞ」と急かす。
 気が引けるものの、ユリスがそう言うならと彼の部屋を後にした。
 ―――今宵は、望月。





 リリィとユリスやヴィラたちの部屋は、さほど距離はない。
 本当に行っても大丈夫なのだろうか…、恐る恐る彼女の部屋の扉を軽く叩く。すると中から微かに返事が聞こえた。
「……リリィ?」
 ゆっくりと大きな扉を開ける。
「ヴィラ」
 そこには、今まさに大きく開け放した窓から外へ出ようとする、リリィの姿があった。
 ただ気に掛かったのは、彼女の服装である。
 つい数時間前に顔を合わせた時とはまるで違う。肌衣ではないかと思うほど、明らかに生地の薄いワンピース。幾ら何でも、その服装で外気に触れれば風邪を引きかねない。
 そのことを彼女に伝えたが、祈る時は常にこの恰好であるとのことで、少なからず安心した。
「ありがとう、心配してくれて」
 そう言って微笑む彼女が、その服装のためか大人びて見えた。

 さほど季節に区切りがないためであろう。日の出・日没の時刻は、共に年間通してほぼ同じである。
 幼い頃からの日課…いや、彼女にとって当前のことである祈りは、日の出でさえ苦痛だと感じていないようだ。
 ヴィラは一度訊ねたことがある。何故ずっと祈り続けるのか、と。その時リリィは、一瞬驚いた顔をした後、羞恥の表情を見せこう言った。
『皆が幸せになれるのに、他に祈る理由なんてある?』
 このような考えを持った少女なのだ。自分には手の届かない少女だと、そう思ったことを、今でも覚えている。
 たとえ皆が幸せになれるとしても、身を削ってまで――そこまで大層なものではないだろうが、日の出の時刻にはまだ眠りについているヴィラにとっては大事(おおごと)だ――日々祈るなど、自分に出来るとは思えなかった。
 勿論皇子≠ニいう立場にいる以上、国民の生活の安定を望み、保障するための努力を惜しむことは許されないことだ。
 だがしかし、それと国民1人ひとりの幸せを願うことは、似ているようで違う。実際ヴィラは、自分が全く知り得ぬ人の幸せまでも願おうとは思えない。まず自分が幸せと成ることを望むのであり、それは人間であれば自分勝手でも何でもない、ごく当たり前の感情だろう。
 ならばリリィの言う皆≠ノは、彼女自身は含まれているのだろうか―――
「……ねぇヴィラ」
 彼女の声に我に返り、顔を上げる。そこには、自分の右手を差し出すリリィがいた。
「一緒に、祈ってくれる…?」
 その言葉で、ユリスが今宵は望月だ、と言った意味が漸く分かった。
 平素は独りだが、月が満ちる日は国民の前に姿を見せ、彼らと共に国の安定を祈る。
 そして今日、恐らく自らの眼で見ることは出来ないものの、セントキエティム王国の国民は、皆リリィの姿を浮かべ祈るのだろう。自国の安定と、リリィの身の安全を。
 ヴィラはその白い手を取り、彼女と共に窓枠を越えて外へ出て腰を下ろす。ペンダントのような物を付けているのか、リリィは左手で自分の胸の辺りの服を掴み、瞳を閉じた。
 ふと、彼女の右手から何か≠感じる。
 自分の『気』を感じることは出来るものの、魔法を使用するユリスとは違い、ヴィラは他人の『気』を感じることは全く出来ない。
 しかし今、確かに繋がっている右手から、彼女の力――プリエルビスを感じているのだ。
 それほどまでに、彼女の力は強いということか……。
 頭の片隅でぼんやりと考えていたが、その力に引き込まれるようにヴィラも祈り始めた。





「……ねぇ、リリィ」
 祈り始めてどのくらい経ったのか、ヴィラは全く分からなかった。
 リリィに名前を呼ばれたことで、既に祈りが終わったのだと知る。それほど集中していたのか、周囲の音、気配、温度を殆ど感じていなかった。勿論、繋がっていた彼女の手の温もりさえも。
 そうして風邪を引かないうちに中に入ろうと、離された手。温かなその手が離れた時、浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「今、君は何を祈っている? ここに来る以前と変わらず、セントキエティム王国の安定…?」
 ―――君は、何よりもまず大切な、自身の幸せは望んでいるのか…?
 何となく訊き難く、本当に識(し)りたいことは口には出すことなく問う。
 リリィは少し考える様子を見せた後、小さく首を横に振った。俯きかけていた顔を上げ、柔らかな微笑みを漏らす。
 それはつい数日前に目にした、翠々とした草原や彼女の指で羽を休める小鳥たちに向けた、可愛らしい歳相応の笑顔とはまた違ったもの。リリィという少女でも、セントキエティム王国の王女でもない。かつてその王国の内戦を平定へと導いた、プリエルビスの力を持つ女性(ひと)の貌。
 何だか今日は、今までとは違う彼女を見ている気がして仕方なかった。
「今は、セントキエティム王国、メダデュオ帝国、そしてボワフォレ王国の平和を祈っているわ。たぶん……、今の私の力では、三国全てが争うことなく共に生きてほしいと願っても、その祈りが叶えられることは無理だと思う。それでも―――」
 ヴィラは、穢れのない茜色の瞳を見詰める。
「――…それでも、何処か一国だけでもだなんて望めない。全ての人が幸せであってほしいの。ユリスも、そしてヴィラ、貴方にも……」
 それもこれも、彼女と共に初めて祈りを捧げたからであろうか。
 彼女をこの手で護りたい――と、そう感じたのも。