094:釦

 白い聖なる日を期待するだけ無駄なほど、真っ青な冬空。
 お蔭で陽の当たる教室はポカポカと暖かいのだが、如何せん冬休みに入ったというのにこの場にいることに不満を抱く利子(りこ)の表情は、決して明るいとは言えない。
 本日何度目かの溜息を吐きつつ、通学鞄から昼食のパンが入った袋を机上に出して、窓の外を眺めていた。

「お疲れ。あと1時間でやっと帰れるね」

 暫くして、待ち人の1人が、利子が座る席の向かいにやってきた。
 彼女は季絵。
 その手には登校途中に買ったのか、店名が印刷されたマーケット袋を持っている。音からすると、利子と同じく中身はパンのようだ。
 本日はクリスマスの月曜日。
 先週の金曜日に終業式があり、既に冬休みに入っているのだが、補習のために彼女たちは学校へ来ていた。
 ちなみに今日の時間割りは、2〜4時間目と、昼休みを挟んで5時間目まで。明日は今日よりも時間数は少ないが、2・3時間目にある。
 補習が面倒だと感じているのは利子だけでなく季絵も同じで、あまり浮かない表情を作っていた。
 すると。

「季絵ぇ…」

 何やら今にも泣きそうな声が聞こえて、利子と季絵はその方へ顔を向ける。
 そこには右手には弁当箱の入ったきんちゃく袋、左手は何故かスカートのウエスト部分を押さえた、もう1人の待ち人――志穂実が立っていた。






「そもそも、何で私が志穂実のホック直さなきゃいけないわけ?」
「とか言いながら、志穂実のスカート受け取ろうとしてるじゃん」

 そう利子に言われて、季絵は固まる。
 確かに彼女の言う通り、季絵は文句を零しながらもその手を伸ばし、スカートを渡すよう示している状態だ。

「面倒見がいいっていうか、甘いっていうか」
「う、煩いなぁ……」

 呆れた溜息を吐かれ、恥ずかしさからか、顔を逸らしながら手を引っ込めた。
 志穂実は、自分が穿いているスカートのホックが取れかかっていると、季絵に泣きついてきた。
 季絵に言ったのは、彼女は裁縫が得意であり、尚且つ確か携帯用の裁縫用具を持っていただろう、と記憶していたから。
 それは間違っておらず、何だかんだと言ってスカートをしっかり受け取った季絵は、一旦席を離れ再び戻ってくると、通学鞄から出したのであろう携帯用の裁縫用具で早速縫い始める。
 幸い、スカートの下に体操服のハーフパンツを穿いていたので、志穂実はスカートを脱ぎ、それを季絵に渡した。
 補習は全員受けるわけではないことから、平常とは違い教室にいる生徒数はあまり多くなく、今いる窓際の席は陽も当たり暖かい。
 上はセーターとブレザー、下は体操ズボンというアンバランスな恰好だが、それらの要因から特に周りを気にすることなく、ひとまず弁当に手を付け始めた。
 始めは季絵が縫ってくれるところを見ていたものの、彼女が「先に食べてていいよ」と言ってくれたため、その好意に甘えることにしたのだ。
 そして暫く、利子と志穂実は昼食を取りながら、季絵はホックを直しながら会話が続いていたのだが。
 突然、うち1人が改まった表情を作った。

「補習のために学校に来て、女3人でお昼ご飯食べて、勉強とか進路の話をして、スカートのホックを直して。どう考えても、一般的なクリスマスとは懸け離れてると思うんだけど、どーよ!?」

 大声ではないものの、違った意味で力強い利子の言葉に、志穂実はフォークを持つ手を止め、季絵は縫い針を持つ手を止め、互いに顔を見合わせる。

「どーよ、って言われても……」
「しょうがないでしょ、私ら受験を来年に控えた、進学校の高校2年なんだから」
「だよねぇ…」
「だから〜! なんでそうやって割り切れるの!?」

 志穂実と季絵の、補習に対してもう仕方ないと諦めている様子に、利子はいたく不満なようである。
 周りを気にしてかやはり大声ではないのだが、どこか訴えるようなその表情は、少し退いてしまいたくなりそうだ。

「だって、考えてみてよ! 期末テスト終わった後、午前中授業だったでしょ!? なのに何で冬休みに補習するの!? それならその間、午後にしてたらいいじゃん!」

 利子の言う通り、今月中旬に行われた定期考査が終わると、翌日から授業は午前中のみ。つまり午後は、部活動に所属していない生徒は休みとなっていた。
 わざわざ終業式が行われ冬休みとなった今日などに補習をせずとも、空いている時間を有効利用すればいいじゃないか。それが利子の考えだ。
 それに、志穂実も納得する。

「……言われてみれば」
「でしょ!?」
「でも今更言ったって遅いと思うけど。そう考えてたなら、もっと早くに先生に言ってみれば良かったんじゃない?」

 そして、季絵の意見も尤もだった。
 既に定期考査後の午前中授業の数日間は過ぎ、それどころか今日は補習当日である。正に文句を言ったところで今更だ。

「クリスマスも半日過ぎちゃってるんだし、嘆いても何も変わらないって。いい加減現実を受け入れなよ、利子」
「うぅ〜〜……」

 先程再開した、ホックを縫う手を止めることなく、淡々と現実を突き付ける季絵。
 その言葉は予想以上にダメージが大きかったのか、利子は目に見えるほど沈んでいた。
 その哀しさなのか虚しさなのか、はたまた悔しさなのか分からないが、そういったような感情を紛らわすようにパンを頬張り出した利子を見て、志穂実が「いい食べっぷりだなぁ〜…」と思ったとか、思わなかったとか。

「ほら、出来たよ」

 そして沈んでいる利子は完全に無視していた季絵が、小さな鋏で縫い糸を切り、ホックの直し終えたスカートを志穂実に差し出した。
 丁度弁当を食べ終えたところであった志穂実は、満面の笑みでそれを受け取る。
 その表情は、スカートのホックを直してもらえた嬉しさから、と言うにはあまりにも大袈裟なほどの喜びようだった。
 たかがそんなことで…、と思いつつも満更でもない季絵は、照れ隠しのように視線を逸らしながら、自分の昼食のパンに手を付けることにした。




 それから暫く会話らしい会話はなかったが、志穂実と季絵の間にあるのは、ほのぼのとした空気。
 スカートのホックがきっかけで、お互いに温かい気持ちになっているのである。
 だが一方で、その中で異色なのは相変わらず沈んでいる利子だ。
 今はまだ大丈夫でも、さすがにずっとこのままの状態が続けば、志穂実との心地良い空気までも潰しかねない。それはちょっと嫌だし、放置してた私も悪いか…。
 そう思った季絵は、少し機嫌を直してもらおうと、利子が食いつきそうな話をどうにかして考える。

「――と、ところで、そこまで不満があるってことは、クリスマスのプランとかあったわけ?」
「……話してもいいの?」

 季絵の問いかけに対し、昼食が今しがた済んだ利子は更に訊き返した。
 おかずの詰めてある弁当だった志穂実より、パン食の利子の方が食べ終わるのが遅かったのは、恐らく彼女の方がそれだけ食べることよりも、自分の意見を言うことに力を入れていたからだろう。

「だってさ、そこまで言われると、ちょっと気になるし」

 ね…?
 季絵は志穂実に視線を向け、「志穂実もそう思うよね?」と目で促す。その意図に気付いたようで、彼女も同意をした。
 すると利子は、じゃあお言葉に甘えて、と何故か椅子に深く座り直し、更に深呼吸。

「……やっぱり、クリスマスは恋人と素敵な1日を過ごしたいわけよ」
「え、りっちゃんって彼氏いないよね?」
「そっ、それはひとまず置いといて! ……そう、別に丸1日じゃなくてもいいの」

 利子はふと、椅子に座っていることで少し顔を上げなければ見えない窓の、外の空を眺める。
 その表情は、どこかうっとりとしたものだった。

「夕方に待ち合わせてるんだけど、朝から待ち遠しくてそわそわしたり、何となくドキドキしたりして、あんまりご飯も喉通らなくて」
「―――…そういえば、ホック外れたのっていつ?」

 ちょっと話長くなりそう…。
 と、少し自分がした質問を後悔しつつ、この入り込みなら少々聞いてなくてもバレないだろうと思った季絵は、再び利子は放置して志穂実に問いかけた。
 利子は妄想――…もとい想像力が豊かで、時々こうして自分の理想というか、願いのようなことを話してくれる。
 それはいいのだが、少し空想的なところがある。そして案外長い。
 しかも今回のように、今思い付いたことではなく以前から考えていたことなどは、話し始めると周りが見えにくくなるという、少々面倒な性格だった。
 そんな利子の性格は勿論志穂実も分かっており、季絵が利子の話を聞かずに自分に話しかけてきたことを、咎めることなく応える。

「いつ外れたのかは分からないけど、朝ちょっとヤバかったっていうか…。今日1日は大丈夫かなって思ってたんだけど、数学の時に気付いたら、もう用をなしてないって感じだったんだ」

 数学は、この昼休みに入る直前に行われていた授業のことだ。
 この授業では時々、教室の前に出て解答を書け、と教員に指名され言われることがある。
 ファスナーによってある程度は腰で止まっているとはいえ、もし前に出ることになってしまったら、スカートを腰部分で抑えておかなければ心許ないし、どうしよう…。と、単純に指名されるのとは違う意味でドキドキしていたらしい。

「だから正直、あんまり授業聞いてなかったというか」
「でもまぁ、何とか当てられなかったし、ラッキーだったね」
「うん、ホントに」

 ホックを直し終えた時のような、ほのぼのとした雰囲気が戻ってきた。
 何事もなく済んだことについて喜んでいた2人だったが、この空気に入ってきたのは、

「って、ちょっと! 自分から聞いておいて無視しないでよ!」
「あ、ごめん」

 さほど悪びれた様子のない言動の季絵に、む、と利子は口を尖らせる。
 ただ、このまま放っておくのもやっぱり拙いか、と季絵も思い、ちゃんと聞くからと利子に話の先を促した。
 そしてそう言われると、やはり弱いのだろうか……。
 コホン、と咳払いをし、それまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、再び頬を弛ませて話し始めた。

「え、と…。でね、イルミネーションで飾られた街を、手を繋いで歩いたりなんかして……。夕食はファーストフードとかでもいいんだけど、こうやっぱり……」

 機嫌が直ったことに安堵すると共に、面倒臭いなぁという溜息を吐く季絵。もう話半分聞いてはいない。
 しかし実際に、次に彼女の話から逃げたのは、志穂実の方だった。

「でもホント、季絵スゴイなぁ…。裁縫道具持ってる時点で、私とは違うっていうか」
「……ま、まぁ、女の子なら別に持ってても損はない、みたいな感じなんじゃない?」
「確かに持ってるだけで女の子、って感じだけど、私なんか持っててもロクに使えないからなぁ……」
「でもちょっと意外かも。料理得意だし、家事とか嫌いじゃないって言ってたから、てっきり裁縫も好きでやってるんだと思ってた」
「何でだろうね、私も自分に聞きたいかも」

 季絵が話すように、志穂実は料理は得意で、今日持って来ていた弁当も実は彼女が自分で作ったものだ。
 得意なうえに、作るという行為が好きなようで、そのために朝早く起きるのは苦痛ではないらしい。
 一方で裁縫が得意で、家でも手芸のキットを買うなどしている季絵は、料理はからきし出来なかった。
 そのため始業時間がいつもより遅い今日だけでなく、毎日弁当を作って学校へ持って来ている志穂実を、季絵は純粋にすごいなぁと感じていた。
 ―――と。

「ホワイトクリスマスになったね、なんて言いながら、…――って、あ゛〜も〜! 志穂実もわざわざ今訊かなくてもいいでしょ!?」

 再び利子が現実へ戻ってきた。
 しかしどうやら完全に周りが見えなくなっているわけではないらしい。そうでなければ、志穂実から季絵に訊ねたことなど、耳に入っていないはずだ。
 それは予想外だったようで、志穂実は少々焦り気味。

「え? あ、あ〜…、ごめん。でも今訊かないと忘れそうなんだもん……」
「忘れないっ! 絶対わざとでしょ!?」
「ハイハイ、ちょっとストップ。分かった、今度こそちゃんと聞くから、も1回話して?」

 どちらかといえばおっとりしている志穂実に、捲し立てる利子は荷が重いだろう感じ、再び話してくれと、季絵は利子に先を促した。
 さすがにこれ以上話を無視するのは無理かもしれない、本当に今度はちゃんと聞いてあげよう…。
 そんな彼女の気持ちが表れていたのか、利子は安堵の溜息を吐くと、笑みを取り戻しもう1度話し始める。
 実際のところ、季絵の「ちゃんと聞いてあげよう」は、正しくは「志穂実と話をしないでおこう」なのだが、そんなことは当の本人は知るよしもない。
 そして志穂実は、助け舟を出してくれた季絵に、掌を合わせ「ありがとう」と声を出さずに言った。

「こう、寒くなってきたなぁと思ったら、雪が降っ」

 キーンコーン、カーンコーン……。
 利子の言葉に被るように、高校中に響き渡る音。
 昼休み終了のチャイムではなく、その5分前に鳴る予鈴である。

「え、予鈴!? ごめん私トイレ行ってくるっ」
「あっ季絵待って、私も行く」

 言うが早いか、季絵は食べ終えたパンの包装袋をマーケット袋に詰め込み、席を立つ。
 それに続くように、志穂実も椅子から立った。

「ちょっ、え、え!? 今、ちゃんと聞くって言ったばっかじゃない!」
「言ったけど、今行かないと授業終わるまで我慢しなきゃいけないんだから、しょうがないと思って許して」
「りっちゃん、ごめんね」

 季絵は特に済まないと思っていないような様、志穂実は言葉だけでなく表情も申し訳ないと言っているような様。
 それぞれ性格の出た態度を見せながら、2人は教室を後にした。
 そして残されたのは、どこか呆気に取られたような表情の利子だ。

「――…き、季絵…、志穂実……」

 ポツリ、と呟く言葉は、虚しくも誰の耳にも入らない。
 仕方ない。周りも昼休みということで、各々で好きなことをしており、人数は少なくともこの教室は喧騒に包まれているのだから。


 かくして。
 何1つ理想通りにならず、朝から気持ちが沈んでいた利子。
 せめてその理想を言葉という形にして聞いてもらうことにより、少しでも幸せになった気分に浸ろうという望みすら叶うことはなかった。
 机に突っ伏し、窓から空を覗いても。やはり見えるのはホワイトクリスマスなんて期待出来そうにない、綺麗な青空だった。