賑やかな街道から少し離れた、車1台が通れるほどの隘路。そこに小ぢんまりとした居酒屋がある。その中は外観を裏切らない、心地良い雰囲気だ。
「ご馳走さま。お勘定お願いします」
「はいはい〜。ちょっと待ってね」
ここの店主の奥さんに声をかけると、彼女は先にレジの置いてある場所へ行っておいてと促した。
独り暮らしをしている橋元和樹は、勤め先の仕事を終えると毎日この居酒屋へ足を運んでいる。その目的は、酒を飲むことではなく、夕食を取ることだ。炊事が出来ないというわけではないが、仕事を終えた後にわざわざ手間隙かけて作る気などなれない。
この店はさほど大きくはなく、客は入れてもせいぜい20人程度。多い時は幾らか賑やかになるものの、それでも普段のゆったりとした雰囲気は、会社での急かされる重圧を和らげてくれ気に入っていた。 尤もそうでなければ、基本平日のみとはいえ、毎日訪れようとは思わないだろう。
「はい、お釣り。今日もよろしくね」
「分かってます。じゃあまた週明けに」
奥さんといつもの会話を交わし、店を出る。店内とは違い、生温い風と空気に目を細め眉間に皺を寄せつつ、道を挟んで向かいの外壁に背を預けた。 今こそ降ってはいないが、今は梅雨。もう少しすれば、日本特有の蒸し暑い夏の夜がやってくるのだろう。 そして暫くして、
「じゃあお先に失礼します。ごゆっくりどうぞ」
中にいる店主や奥さん、客などに声をかけながら、店名の描かれた暖簾を潜り店から出てくる少女。こちらに気付いたのか、少し駆けて和樹の許へやってきた。
動く度に揺れる、短くふわふわとした髪。膝丈のスカートを纏って駆けるやや小柄な姿は、綺麗というよりは、可愛らしいと称する方が似合っているだろう。
「勤労お疲れさま」
「中で待っててくれて良かったのに……」
「支払いしたのに中にいるのもな。…それに、中で待ってたら、知ってる人らにからかわれそうだし」
そういうの、厭だろ。と促してみる。
「…う。厭、です……」
そう言ってぐっと眉を顰めた彼女を見て、和樹は少し悪いと思いつつ笑みを零した。
彼女の名は、嵐山凪。この店でアルバイトをしている、大学3年生だ。大学に通うために県外からやってきており、今は近くのアパートで独り暮らし中。店主もその奥さんも、とにかく可愛いらしいと酷くお気に入りらしい。
その奥さんの「今日もよろしく」という言葉の意味は、彼女を居住先まで送り届けることである。
凪がここでアルバイトを始めて、暫くした頃のことだ。
いつものように夕食目的で来店した和樹が帰ろうとした時、丁度凪も勤務時間を終え帰るところだった。そうして並ぶ2人を見た奥さんが、
『確か帰る方向一緒だったわよね、良かったら途中まで凪ちゃん送ってあげてくれない?』
と和樹に頼んだのは、さほど驚くことでもなく、予想外のことでもなかった。
店から暮らしているアパートまで徒歩15分弱とはいえ、更けた夜に大学生になったばかりの少女を、独りで帰らせることは少し心苦しい。店主が和樹に、ふとそう漏らしたことが以前にあった。
言われてみれば、確かにそうである。地元出身ではなく、ここから遠く離れた所から来ているのなら尚更。 また、凪とは店内で言葉を交わすこともしばしばあったし、客層としては若い方である和樹とは、彼女も比較的話し易かったらしい。そういったことから和樹は奥さんの提案を受け入れ、凪も方向が同じなら、と頼んできたことで、商談成立と相成ったというわけだ。
ちなみに、それを特化した理由もなく断った場合の、奥さんの反応怖さに了承したという気持ちも、ちょっぴりあったりするのだが、それはあえて心の中に仕舞っておいている。 (実際に未だ遭遇したことはないが、古株の人の話では奥さんが怒ると相当恐ろしいらしい。正直、遭遇したくはないし、自分で爆弾投下など以ての外だと思うのだった)
そうして、偶然にも和樹の帰路の途中にあった、凪の住むアパートまで彼女を送るようになって、気付けば2年が過ぎようとしていた。アルバイトは毎日入っているわけではないが、和樹は平日その店に通っているため、結果としては平日に限り凪がアルバイトをしている日は全て送り届けることになっている。
尤も金曜日である今日は、そのアパートを通り過ぎ、和樹が住まう部屋が最終目的地なのだが。
「ごめん、先にお風呂入ってもいいかなぁ…?」
鞄を部屋に置いた凪は、その鞄の中を漁り服を出しながら訊ねてくる。 いつも帰宅する頃に自動で給湯完了するよう予約しているため、既に浴槽に湯は張っているはずだ。鞄から着替えを出そうとしている時点で、応えを求めて訊ねたわけではないと取れるのだが、和樹は一応と了承の言葉を返す。
そうして浴室へと向かった凪を視界に入れながら、彼女が上がってくるまでの空き時間。新聞を取っていない和樹にとって、1日の情勢を知るための主な媒体であるインターネットをしようと決め、パソコンの電源を入れた。 恐らく短くても30分経たなくては凪の姿を目にすることはないだろう。そう思いながら、パソコンが起動するまでの時間を潰そうと仰向けに床に寝転ぶ。
仕事ではその殆どがデスクワークでパソコンを使っているため、正直帰宅後のこの部屋で更に画面を見ることは疲れる。しかしそれでも、今日何が起きていたのか、全く目にしないまま1日を終えてしまうのは何となく厭だった。
「ふ、ぅ―――」
そのため少しでも疲れを和らげようと、瞼を閉じ手の甲で目を覆い、少し長い息を吐く。
次に和樹が感じたものは、凪がいつも使っているシャンプーの香りだった。
「―――ぁ?」
「和樹さん…、起きてます…?」
覆っていた手を退け顔を上に向けると、そこにあったのは、服を着替え若干髪の濡れた凪の顔。
「―――いや、寝てたっぽい……」
身体を起こし、腰を下ろした凪と向き合う。 どうやらパソコンが起動するまで、と寝転んだまま、彼女が風呂から上がってくるまで寝ていたらしい。パソコンの画面の見過ぎで目は疲れていると感じていたが、特に眠いとは思っていなかっただけに、少し驚きだ。 和樹は目を覚ますように、軽く頭を左右に振った。
「早めにお風呂入らないと、また寝ちゃいますよ?」
「ん〜……、だな、入ってくる。―――でも」
その前に――――。
和樹は凪へ視線を向ける。それで意図することが分かってくれたのか、立ち上がり、小棚に置いてあるカッターナイフを持って再び戻ってきた。先程とは違い、膝を揃え座している彼女の雰囲気は、どこか少し張り詰めているようにも感じられる。
「今日は…、まだ大丈夫ですか? もしかして寝てたのは……」
「大丈夫、それに寝てたのはたぶん関係ないよ。明日休みだし、気が弛んだとかだろ」
「そう、ですか? それならいいけど……」
「それよりごめんな、悪いけど、今日も頼む……」
「いいんです。じゃあ―――」
そう言って頸を横に振る凪。 そして少し躊躇いを見せた後、彼女は右手に持ったカッターナイフで、自分の左掌にゆっくりとラインを引いていく。それを追いかけるように僅かに姿を見せ始める、赤の液体。短く漏れる声。顰められた眉。
刃を仕舞ったカッターナイフを床に置き、差し出してきた少し震える左手を、和樹は手に取り自身の口唇へ寄せた。
「……ッ」
独特の錆びた匂いのする液体を舐めれば、切れた傷が痛むのか、その手の主が息を詰める。だがそれを構うことなく、じわりと溢れ出る血をひたすら拭い取るように舌尖を動かす。
ただ、互いの呼吸音だけが響く一室。だからこそこの行為が少し卑猥なものだと感じてしまうのかもしれない、と思ったのは、果たしてどちらだったのか。
長いようでさほど経っていない時間が過ぎ、傷口から新たな血が出なくなると、口中に広がるその錆びた液体を唾液と共に音を立てて嚥下した。 凪の掌から顔を離し、その手を彼女の方へと戻す。だが、視線は未だ上げず床の方を向けていた。
「―――ありがと。また薬、塗っといて。……風呂、入ってくるから」
「あ、わっ分かりました、ゆっくり浸かってきて下さい」
そうして互いに視線を合わせないまま、和樹はこの場から逃げるように浴室へ行ったのだった。
「は、ぁ―――」
いつまで経っても慣れやしない――…。
浴室への扉を閉めると同時に、和樹は大きな溜息を吐く。少し顔が熱くなっている自身に呆れながらも、反面この行為に慣れてしまうとそれはそれで複雑だと、頭を悩ませていた。
喉の奥からする、飲み込んだ血の錆びた匂いで噎びそうになる。喉を通り過ぎたはずのその血が、食道に張り付いているようで痛い。せめてここへ来る前に、何かで喉を潤すべきだったと思うものの、実際は羞恥からそんな余裕などなかったため、仕方ないとも思う。
たとえ好いた人のものであろうと、血など好んで飲みたくない橋元和樹は勿論人間であり、―――吸血鬼でもあった。
吸血鬼といっても、他の人間と何ら変わりはない。外見も、中身も。 そもそも、まず吸血鬼という種族がこの世にあるなど、知っている者の方が圧倒的に少ないだろう。かくいう和樹自身でさえ、1年前までは自分がそうであるなど、半信半疑だった。
自分が吸血鬼であると自覚したきっかけとなったのは、他人の血をひとたび口にしてしまうと、その血を定期的に体内に取り込まなければ禁断症状が出る≠ニ親に教えられてきたことを、実際に体験してしまったことにある。
和樹は、小さな頃から親に言い続けられていたことがあった。それは、他人の血を決して口に入れてはならない、ということ。口にしてしまえば、先の親に教えられてきた言葉のように、禁断症状が出てしまうというのだ。 更にその禁断症状とは、始めは軽い震えや痺れだが、次第に篤くなり、最終的には死に至るものだ、と。
正直、そんなこと信じられるわけがなかった。言い続けられているとはいえ、実際は周りの者たちと同じように過ごし、同じように生きてきたのだ。違いなど、全くと言っていいほどない。
その違いを知ることなく一生を終えるのだとばかり思っていたのだが、あることがきっかけで、凪の血を飲んでしまったのだ。
そして親の話していたことが事実だと理解し、自分が吸血鬼であると自覚したのは、それから1週間後のことだった。 少し手が痺れる…と感じた直後、それは痙攣へと変わったのである。突然のことで上手く働かない頭で、その日が凪の血を飲んでから1週間経った日であることを導き出した。同時に、もしかすればこれはずっと聞かされていた禁断症状≠ネのではないか、と。
『―――和樹、さん…?』
その答えに辿り着いた和樹は、震える手で携帯電話を取り出し、凪へ電話をかけた。
『え…? あ、は、はいっ、今から行きますっ』
恐らくこの時、いたのがこの部屋だったことや、凪が電話に出て直ぐに来てくれたことで、何とか救われたのだろう。あの時の電話越しの声や、来てくれた時の少し青褪めたような顔を思い出すと、今でも申し訳ない気持ちになる。
『―――凪の血、が、欲しいんだ』
『……ち…?』
凪を呼んだその理由を告げた時の、呆けたあの表情も、違った意味で当分忘れないはずだ。彼女も突然のことで動揺していたのだから、そのようなこと決して笑い話として言うことは出来ないが。
とにもかくにも、細かい状況を説明する余裕のなかった和樹は彼女の血を貰い、何とか症状を抑えることが出来た。その時に漸く実感したのだ、自分は吸血鬼であり、凪の血を飲んだことによって禁断症状が現れ、それを抑える薬となるものは彼女の血に他ならないのだと。
落ち着いた後は、凪に自分が吸血鬼であること、先程の症状のことなど、自分がつい今し方自覚したばかりのことを話した。そして、これから定期的に凪の血を飲ませてもらいたい、ということも。
彼女の返答次第によって、和樹の今後……いや、1週間後の運命が決まる。 暫くの沈黙の後、彼女が出した答えは、和樹の言葉を信じ血をあげても良い、というものだった。その言葉を聞いて少し泣きそうになったのは秘密である。
こうして和樹は、取り敢えず生き永らえることが出来た、というわけだ。
それから毎週金曜日は、今日のようにアルバイトを終えた凪と一緒にこの部屋に帰ってくることになった。 禁断症状の出る間隔は人によって違うようだが、少なくとも和樹は1週間が限度のようである。そのため、互いに翌日が休日である金曜日に、泊まってもらうことにした。
凪に自分の種族のことを打ち明ける以前から、時々週末辺りに泊まりにくることもあったため、彼女が週1で泊まる、という行為自体はさほど違和感はなかった。変わったのは、その第1の目的が和樹に血を与えるため≠ノなったことである。
種族の話をすると、吸血鬼は橋元家以外にも、世界中にまだ多くいるようだ。 尤も遙か昔に比べると、外見では判断が付かないほど人間に近付き、その数は減った。それは吸血鬼同士だけでなく、人間と婚姻を結び子孫を残していった結果なのだという。
よく話に聞く、十字架やニンニクを嫌い、鏡に映らず、太陽の光を浴びると塵となる、といったことは一切なく、一方で咬み付くための牙はない。それらを考えると、人間社会で生きるために進化すると共に退化している部分もあるのだろう。
しかし数としては廃れてきているはずなのに、何故未だこうして他の者の血を口にしてはならないのか。何故それは退化してくれなかったのか。 誰が研究したのかなど知り得ないが、それは優性形質となって、どのような血が混ざろうとも劣性形質にはなることなく子孫に引き継がれているらしい。まるで呪い染みている、などとさえ思う。
ちなみに凪の血は、頸からではなく掌から貰っている。吸血鬼といえば頸に咬み付いて血を啜る、というイメージだが、特にこれから夏へと向かう季節。頸に痕を残すわけにもいかない、という配慮からだ。 ……というよりも、そもそも先鋭な牙がないのだから、今日のようにカッターナイフなどで切ってもらうしかないのが事実なのだが。
浴室に来る前、凪に言った薬≠ヘ、血止め用の薬のことだ。傷を治してくれるわけではないようだが、和樹がまだ幼い頃に、もし万が一血を貰わなければならなくなったら、その相手の人に使うよう渡してあげなさい。そう言われ親から手渡されていた物。 正直なところ、この薬も一生使うことはないだろう、などと思っていた。
「―――ふぅ……」
あまり大きいとはいえない浴槽の湯に浸かりながら、またもや溜息を吐く。顔の火照りは少し醒めた気がして、その安堵によるものも混じっていた。
凪に血を貰うようになり、数ヶ月が過ぎた。その行為に慣れることは未だない。 こうして一緒に過ごす時間が出来ることは嬉しいが、申し訳ないという気持ちもある。血止めの薬があるとはいえ、彼女にはその度に傷を付けてもらわなければならない。痛みを伴うその動作をする時に顰められる眉や、微かに漏れる声を感覚が捉える度に、居た堪れないと感じる。
また、和樹と凪は、今の時点ではあくまで恋人関係だ。この先一生、共に歩むと誓ったわけではない。誓った者たちでさえ可能性はゼロではないのだ、いつまで一緒にいるのかなど、いつ離別するかなど分からない。 そうなった時、つまり凪の血を貰えなくなった時、和樹に待っているものは死だ。かつてのように手が痺れ・痙攣し、そうしてそれらは更に酷くなり、最終的には死に至るのだろう。
ただ、もしそうなった時は、和樹は死を享受するつもりでいる。凪に縋るなど浅ましいことはせず、これが自分の運命であり人生であると、純然に受け止めよう、と。
―――だって、そうだろう…?
「これ以上、凪の負担になりたくないもんな……」
小さな空間に響く、本音。 言わば凪は、和樹の我儘を聞いてくれているのだ。和樹のため、痛みを堪えて。それを、どうして自分の欲だけを突き通せるというのか。
自分が吸血鬼という種族に生まれたことを恨む一方、だからこそ深く気付いた凪の優しさや健気さを想い、不覚にも眦がじんわりと熱くなる。 誰も見ている者はいないが、それを隠すように和樹は湯で顔を洗った。
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