店に似合う木製の引き戸を開けると、生温い空気を全身で感じて思わず眉を顰める。いや、生温いなんてものではない。陽は沈んだため光の熱さはないのだが、風がないことで蒸されるような暑さだ。
店内は地球に優しい設定温度とはいえ、冷房が入っているのには違いない。店より外の方が暑いのは仕方のないことで、それを頭では理解しているものの、身体は直ぐに適応してはくれないらしい。一瞬くらりと眩暈がしたが、足にぐっと力を入れることで、出来るだけ何もなかったように振舞った。
戸を閉めて視線を上げれば、向かいにいる、私――嵐山凪の待ち人さん。
「ごめんなさい、暑かったでしょう?」
「まぁ、な。でも早めに外に出て、身体慣らさないと却ってツライし」
「少しでも風が吹いてたら違うんですけどね」
待ち人さんと並んで歩きながら、会話をする。
「車でここまで来てたら、もう少しラクなんだろうけど」
「そんな、電車通勤なんですから…。いつも送ってくれてるので充分過ぎますよ」
少し申し訳なさそうにそう言ってくるものだから、慌てて言い返した。
和樹さんは、歳が少し離れているからなのか元々そういう性格なのか、私に気を遣ってくれている。……一応、その、付き合っているのだから、そこまで気を遣う必要ないのに。そんな風に思っているのは、恋人関係というものに少し夢を見過ぎなのだろうか。
隣を歩く橋元和樹さんと私は、一応恋人同士というやつだ。 ――…『一応』を強調するのは、ただ単に恥ずかしいからだと受け取ってもらえると有り難い。私たちが付き合っていることを知っているお客さんにからかわれるのが厭で、店内では和樹さんと一緒にいることを避けているくらいなのだから。
ちなみに和樹さんが私に気を遣う理由には、実はもう1つ思い付くものがある。最近は特に、それが1番の理由なのかもしれない、とも思うのだ。
早いもので、あれからもう1年近く経っているのだろう。大学の講義は午前中で終わり、アルバイトも休みだったあの日。凪は部屋で何をすることなく過ごしていると、携帯電話が鳴った。
着信メロディは1人だけ変えてあるため、直ぐに分かった。相手は和樹だ。
平日の昼間に彼から電話がかかってくることなどそれまで滅多になく、何かあったのだろうかと少し怪訝に思いながら通話ボタンを押した。―――すると。
『―――な、ぎ』
『―――和樹、さん…?』
携帯電話の向こうから聞こえてきたのは、どこか苦しそうな声だった。
『今、どこ…?』
『え? えと、自分の部屋ですけど……』
『悪い、んだけど、今から俺のとこ…来てく、れないか? 出来たら、今直ぐ、に……』
苦しそう、どころではなかった。息は少し乱れていて、言葉も途切れ途切れ。喋ることも辛そうな声に、どうしたのだとか、何があったのだとか、そんな理由を訊いている場合ではないと悟った凪は、
『あ、は、はいっ、今から行きますっ』
ありがとう、という力のない彼の声を耳に入れると、携帯電話と部屋の鍵という必要最低限の物だけを持ち、和樹の部屋へと駆け出した。
ここから和樹の住むマンションまでは、走れば10分もかからない。だがあまり体力に自信のない凪には10分走るということは正直辛く、途中何度も足を止めたり歩いたりしながら向かって行った。勿論、何とか部屋の前に着いた時には、息切れも甚だしいものだった。
『は、は……っ、な、凪です、入りますね!』
一応インターホンを鳴らし声をかけ、返事を待たずに玄関のドアを開け中へと入る。
『かっ、和樹さん!?』
そこには、部屋の中で身体を縮こませ蹲っている和樹がいた。 よく見れば、その身体は細かく震えている。―――痙攣、とも見て取れた。
彼に駆け寄ると、凪の存在に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げる。その顔は、苦痛によるものなのか、歪み真っ青である。
『え、ど、どうしたら……、……あ、そ、そうだ、救急車…っ』
頭がパニック状態であるため、まず何をすればいいのかも分からず、せわしく視線をただ動かす。そうして目に入った固定電話から何とか絞り出したものは、まず救急車を呼ばなければ、ということだった。だが、
『凪…、それ、は、いい……』
それは弱々しい声によって遮られた。更に和樹は、こう続けた。
『―――凪の血、が、欲しいんだ』
『……ち…?』
全く予想していなかった言葉なのだ、凪が思わず呆けて頸を傾げてしまったのは仕方ないことだろう。一体何故このような時に、凪の血が欲しいと言うのか。彼の真意が全く理解出来なかった。
ただ、救急車を呼ぼうとする行動を遮ってまで、頼んできたことには違いない。ならばこうして何もせずに時間が過ぎていくよりは、その言葉に従う方がいいのかもしれない――。そう思った凪は、視線を和樹から小棚の方へと変えた。
確か小棚に置いてあったはずだと、そこからカッターナイフを探し出し、躊躇いながらも自分の左指にそれを当てる。ゆっくりと横に引けばやってくる、僅かな痛みと赤い鮮血。
血が溢れ出てくる指を、身体を床に預けたままの和樹の顔の前へと差し出す。そうして未だ苦痛の表情を伴ったままの彼は、ゆっくりと凪の指に顔を近付けた。
『―――ッ……』
ただ舐めるだけだと思っていたそれは、幾分もしないうちに、絞り取るような吸血という行為になっていた。断続的にやってくる痛みに、凪は小さく声を漏らす。その行為は、ただ血が溢れ出る時には感じなかった、僅かな恐怖感と痛みをもたらしていた。
小さくごくん、と和樹の喉が鳴る。するとどうだろう。凪の血に一体何が含まれていたのか、1分もしないうちに彼の呼吸が穏やかになり、眉間に寄っていた皺が解れていく。更に震えていた身体もゆっくりと落ち着いていった。
『ぁ、はぁ……』
和樹の口から漏れるのは、安堵の息。凪はといえば、その様子にほっと息を吐くと同時に、何がどうなったのか現状を理解し難く、ただ呆けるばかりだった。
その後のことだ。和樹に、自分は人間ではなく吸血鬼だということを打ち明けられたのは。
彼の話では、他人の血を口にしてしまうと、その血を定期的に取り込まなければ禁断症状が出るというのだ。更にそれはほおっておくと次第に篤くなり、最終的には死に至る、と。
そういえば、と。凪は1週間ほど前、和樹が自分の血を口にしていたことを思い出した。意図的ではなく事故によるものだったが、それが原因でこのようなことになったと、つまり凪の血が彼の禁断症状を抑える薬なのだと言っているのだ。
勿論、そんな話を信じられるわけがなかった。彼と出会って2年以上経つが、これまでのどの言動を考えても何の違和感もない、普通の人≠ネのだから。
ただ、嘘を吐いているとも思えなかった。わざわざ電話で呼び出して冗談を言う人ではなく、何より、―――先程の、あの痙攣。あの苦しむ姿を目にして、その話は嘘だと簡単に片付けられるわけがなかった。
そしてまだ上手く整理出来ていない状態の中、和樹は問うてくる。これから定期的に凪の血を飲ませてくれないか、と。
暫く続く沈黙。それを破るように、凪はポツリと声を漏らした。
『……分かり、ました』
『凪…?』
『その、和樹さんが、……吸血鬼だとか、そういうことはまだ信じられないけど、でも、私の血を飲まないと、また…さっきみたいになる、ってことですよね』
さっき、とは、痙攣のことだ。あの姿を見た時、驚きと同時に血の気が引いた。苦しむ姿を、直視することも辛かった。あのような和樹をまた目にすることになるなど想像したくはないし、そのようなことは絶対厭だ。
彼が吸血鬼だと、信じたわけではない。まだ、信じられない。それでも凪の血を飲んで痙攣が治まったことは、紛れもない事実だ。
―――和樹は、凪が付き合った初めての人だった。出来ることならずっと一緒にいたいと思う、今の凪にとって大切な人。そんな人を、自分のせいで苦しんだり、まして死んでほしくなどない。
だから、凪の答えは決まっていた。和樹の言葉は信じ切れなくとも、和樹≠ヘ信じられると、信じたいと思うから。
『それで和樹さんが苦しい思いしなくていいなら、……死な、ないなら、構わない、です……』
そう告げた時の、ほっとしたような、どこか泣きそうな和樹の表情が、暫く頭から離れなかった。
「―――――凪?」
「ぁ――…、ごめんなさい、ちょっとボーっとしてて……」
今は和樹さんの部屋に来ていることに気付き、我に返る。
あれから約1年。翌日の土曜日は2人とも休日だということで、金曜日には私のアルバイトが終わると、そのまま一緒に和樹さんの部屋に行くことになっていた。
「大丈夫か? 顔色あんまり良くないように見えるけど……」
「あ、少し貧血気味なだけだから、大丈夫です。そ、その…、いつもの日、です、から」
直接的に言うのはやっぱり恥ずかしくて、言葉を濁す。
いつもの日というのは、つまり毎月やってくる「女の子の日」のこと。元々あまり血が濃いとは言えない私は、この日は貧血気味になることが多い。それに加えて夏に足を踏み入れた今の季節は、更に体力は落ちてしまう。言わばこの1週間は、1年の中で体調を崩し易い期間の1つというわけだ。
「じゃあ、あの、カッター取ってきますね」
だから顔色があまり良くないというのは、恐らく間違いではないのだろう。実際今は、正直なところ元気だとは言えなかった。それを少し誤魔化すように、話題を変えるように、この部屋に来た1番の目的の行為を促すことにした。
キチキチと、カッターナイフの刃を出す。週に1度だけ、傷は浅く和樹さんに貰った血止め薬もあるけれど、何となくいつも同じ場所を切るのは躊躇いがあって、今日は左手首に刃を当てる。
……正直、私の血がもう少し濃ければ良かったのに、と考える時がある。
私の血はあまり濃くはない。冬はまだマシだけれど、夏や「女の子の日」になるとどうしても貧血気味になることが多い。普段でさえそうなのだ。週に1度でごく少量とはいえ、和樹さんに血をあげるようになったことで、以前と比べて体調が優れているとは嘘でも言えなかった。
和樹さんも、こうして血をあげるようになる前から、私が貧血気味になることを知っている。
だから、なのだ。それを知っているから、以前に比べて体調を崩し易い原因が、和樹さんに血をあげるようになったことだと知っているから、私に気を遣ってくれている。特に最近、そう思うのだ。
確かに倒れるほどではないとはいえ、悪化しているのは事実だ。和樹さんが自分の所為だと言うのは間違いではないし、そう想ってくれることが嬉しいことに代わりはない。
ただ、自分の体調が悪くなることを理解したうえで、血をあげることを決めた。和樹さんと、これからも一緒にいたいと思ったから。それは私自身が考えて決めたこと。和樹さんに言われたからボランティアでやってる、なんてことはない。
それなのに、和樹さんはまるで自分だけが悪いように、私に気を遣ってくれていると感じることがある。それが何となく心苦しいのだ。本当の私のことを、見てくれていないような気がし――――
「ぁ、痛ッ…!」
「凪!?」
手首から溢れ出てくる鮮血が、ぽたぽたと床と私のズボンを赤黒く汚していく。
考え事をしていたせいなのだろう、いつもは軽く線を引くように傷付けるだけなのに、思い切り深く切ってしまっていた。
……この血は、私と和樹さんを繋いでいるもの。
恋人関係になったのは血をあげるようになる前からだから、これがあるから付き合っているというわけじゃない。形やモノだけが全てじゃないし、少なくとも今は互いに一緒にいたいと思う純粋な気持ちの結果が、こうやって共有する時間をつくっているのだと思っている。
それでも…、それでもやっぱり、こういう確固たるもの――関係を繋いでいるモノがあると安心出来るというのも正直なところで………。
―――あれ? どうしてこんなこと、考えてるんだろう。傷口は痛いし、流れ出る血を早くどうにかしなければと思うのに、視界は少しぼんやりとしていて、頭が上手く働かない。思考が行動へと移らない。―――と、
「……凪、これ、貰うから」
「え? ……っ」
少し勢いよく腕を引かれ、和樹さんが手首から流れる血を口に含み始める。傷が深いせいか、いつもよりも痛みが強く、じくじくと針が突き刺さるようだ。
昔小説か漫画か、吸血鬼に血を吸われる時、甘美というか、ゾクゾクっときてある意味快楽だ、みたいなのを見たことがあるけれど、現実はそんなイイものではなかった。あるのは、痛みと、血が吸い取られる時に伴う恐怖感や虚脱感だけ。
尤も和樹さん自身も、血を美味しいと思って採っているわけではないみたいだけれど。
―――そうして。和樹さんの口唇が離れた深い傷口からは、未だ赤い血が外界を求めるかのように溢れ出ていた。
和樹さんの部屋に泊まった翌日、土曜日の夕方。私はアルバイト先の居酒屋に来ていた。
「敦子さん、こんにちは」
「あぁ、凪ちゃん。今日もよろしくね」
いつものように優しい笑顔で迎えてくれた敦子さんは、ここの店主の奥さんだ。私が大学入学後にここでアルバイトを始めてからというもの、県外から来て独り暮らしということもあって、色々と気にかけてくれている。
ただ今日は、何故かその笑顔が、私の顔を見て少し曇ってしまった。
「―――凪ちゃん?」
「……?」
「体調…、良くないんじゃない?」
……そうだ、敦子さんは人の体調を見極めることが得意だということを、すっかり忘れていた。 こうしてお店をやっていて日々色んな人と接していることで培われた能力だ、なんてことを聞かされたのは、随分前の話だったように思う。
「外が暑くて、歩いて来てちょっと疲れてるんです。だから、暫くしたらたぶんマシになると思うから、大丈夫です」
だからこそ疲れが顔に出ている以上、それを全否定して元気なフリをするのは、却って得策じゃない。それこそ体調が悪いことを誤魔化しています、と言っているようなものだ。
「そう? それならいいんだけど……。辛くなったら早めに言ってね」
そして、予想は大当たり。心配してくれている敦子さんには少し申し訳ないけど、何とか誤魔化すことは成功したみたいだ。敦子さんは準備の続きをするためか、部屋を後にする。
その姿が見えなくなって、緊張を解くように小さな椅子に腰を下ろして、息を吐く。
敦子さんに言った原因は、半分本当で半分嘘だ。 外は本当に暑くて、アパートからここまで歩いて来たこともあって、それだけで身体は疲れてしまった。でもその疲れは恐らく、この緩く心地良い冷房の利いた店内にいれば、暫くすれば楽になるだろう。
ただ、それとは別に体調はあまり良くない。昨日から貧血気味で、少しくらくらする、と思う時もあったりする。これが嘘の方の、敦子さんに隠した原因。
考えれば考えるほど、その原因は昨日の、手首を深く切ってしまったことなのだろう。
そうでなくともあまり無駄には出来ない血を、自分で垂れ流しにしてしまったのだ。何て莫迦なことをしたんだ、なんて思ったりする。しかも直ぐに血を止めなかったせいで、自分のズボンだけならまだしも、部屋の床に敷いているラグにも血の染みが付いてしまった。比較的直ぐに拭いたため目立つほどではないものの、それでも薄っすらと残っている。
和樹さんはこれくらい気にするなと言ってくれたけれど、それでも余分な迷惑をかけたことには代わりないし、素直に甘えられるわけがない。普段から気を遣ってくれていることが少し申し訳ないと思うこともあるというのに、更に気遣わせてしまうなんて、一体何をやってるんだろう………。
そこでふと、思考が段々と暗くなっていっていることに気付いた。
悲観的ではないけれど、楽観的というわけでもない。何だかこのままこのことを考えていても、更に落ち込んでいってしまうような気がして、気持ちを入れ替えるようにゆっくり深呼吸をする。
今から数時間、人前に出なければならないのだ。こんな気持ちでいるのも辛いし、ただでさえ敦子さんに体調があまり良くないことが知られているのに、これ以上突っ込まれてしまうと誤魔化すのは難しい。
よし、とにかくせめて仕事が終わるまでは、気持ちを切り替えて頑張ろう…!
「ぁ―――――」
暗い気持ちを吹き飛ばそう、奮い立たせようと気合いを入れた直後、私は自分に莫迦ッ!と叱責した。
特にこの時季、この周期には気を付けていたのに、よりによって外≠ナ勢い良く立ち上がってしまったのだ。結果、やってくるのは立ち眩み。
―――久々に、視界がぐるりと回った。
店を開ける準備をしていた敦子は、控え室の方で鈍い音を耳にした。
向こうに今いるのは、アルバイトで来てくれている凪1人。先程は本人が大丈夫だと言ったため詳しくは追及しなかったが、もしかして何かあったのだろうか、と少し心配になりそちらへ足を向けることにする。
確かに今日は外は暑く、設定温度は高めとはいえ店内には冷房が付いているため、気温差があるだろう。住んでいるアパートから徒歩でここまで来ている凪にすれば、それだけでも疲れてしまうはずだ。
ただ。彼女が貧血持ちであることを、敦子は知っていた。もしかすると迷惑をかけるかもしれないと、働き始めてから暫くして凪の方から告げてきたのである。この暑さの中では、それが要因の1つとして体調を崩し易いと考えられなくもない。
そして良くない予感は当たり、辿り着いた控え室には床に倒れている凪の姿があった。
「凪ちゃん!?」
急いで傍に寄り、彼女の身体を抱きかかえる。どうやら気を失っているらしい。
「凪ちゃん…、凪ちゃん!」
「………ぇ?」
頬を強く、しかし赤くならないよう加減をして叩く。するとその痛みにか、凪は薄っすらと目を開け、声を漏らした。だがその目は、まだどこか虚ろだ。
「……大、丈夫…?」
「ぁ…、その、ちょっと眩暈がして、……。あ、でも大丈夫です、勢い良く立って、立ち眩みしただけだから、本当に―――」
そう言って立ち上がろうとする凪を、敦子は溜息を吐くことで制止する。
「……でも、普通は立ち眩みくらいじゃ、倒れて気を失ったりしないんじゃない?」
「……っ」
「図星」
「あ、敦子さ……」
「だーめ。休んでなさい」
そう言うと不満そうな、納得のいかない顔をする凪。それに対し、今日も意地張りなところは健在らしい…、と敦子は彼女に見抜かれない程度の小さな息を吐いた。
「土曜日だったら平日よりお客さん少ないし、それに―――、……もし、お店で倒れられたら、それこそ迷惑なの」
可哀想だと思いつつも、少しきつく言い聞かせる。 だがこうでも言わなければ、彼女は無理にでも店に出ようとするのだ、心を鬼にするしかない。尤もそれは、敦子が凪のことを――どうすればこの少し強情な彼女を無理強いさせずに済むのか――よく分かっているからこその対応でもある。
その言葉の意味を理解したのか、凪は俯きながら渋々といった風に、しかしどこか安堵した様子で休むことを了承する。それを確認し、敦子も漸く安堵の笑みを見せた。
「……さて、と。じゃあ電話でもしとこうかしらね」
敦子は店用ではなく、家庭用の手書きのアドレス帳を開き、目的の電話番号を探す。
勝手にこんなことをすれば後で怒られそうだが、彼は凪の彼氏なのだ、少しくらい迷惑をかけても構うまい……。
敦子は1人で納得し、平日はいつも店に来てくれる若い常連客へ電話をかけることにした。今日は土曜日、恐らく自宅にいるはずだ。
果たして、4度目のコール音の後、向こうの受話器が取られた。
「――あ、橋元くん? …えぇ、そう。実は……」
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