部屋の中は存外涼しく、彼女をベッドに横たわらせた後は、エアコンではなく扇風機を付けた。窓を少し開けているだけでも、外に比べれば幾分も過ごし易いだろう。
別に電気代を気にしているわけではなく、凪がエアコンの冷気をあまり好んでいないためだ。 身体を動かしている時はさほど気にならないようだが、こうして眠る時などは逆に身体が冷えすぎたり、酷くなると関節が痛むこともあるらしい。
そういった体質はここへ出て来る前、実家での生活において、夏の暑さはその殆どを扇風機のみで乗り切っていたことにあるのだろうと話していた。
確かにエアコン嫌いな知り合いは彼女以外にもいる。それを思えば別段珍しい体質でもないのだろう。
「飲み物、持って来たぞ。何か食べたりするか?」
冷蔵庫に入っていた、500mlのペットボトル。 この部屋の冷蔵庫を物色したことはこれまで殆どなく、何が常備されているのか分からない。それでも少なくとも飲料水は入っているだろうと考えつつ、案の定簡単に見つかった未開封のスポーツドリンクを手に取った。
問いに対し凪は小さく首を振り、身体を起こそうとしたため彼女の背を支える。上半身のみ起こした状態で持って来た清涼飲料をひと口飲むと、少し楽になったのか小さな息を吐いた。 ……ただ。
「………和樹、さん…」
「ん?」
「ごめんなさい、せっかくの休みなのに……」
ただ、凪が部屋に帰ってきてから初めて発した言葉は、体調の悪さとは違った苦しさのようなものを含んでいた。
週末以外殆ど乗ることのない軽自動車を、店の駐車場に停める。2台分しかスペースのないここは、今の時間ではまだ1台も停まっていない。 維持費を少しでも安くという理由で軽自動車にしたが、こういった狭い道路や駐車場の時は、小回りが利くため悪くないと思う。
『……あっちぃ…』
車外の暑さに思わず声を漏らしつつ、開店準備中のプレートが掛かった引き戸を開け、店内へと足を踏み入れた。
『こんにちはー……』
『はーい、……あ、橋元くん!』
奥から声が聞こえ、その主である奥さんが少し駆けてやって来る。
『ごめんね、ありがとう』
凪ちゃん、今は向こうにいるから、と言いながら店の奥へ付いて来るよう和樹に促す。 彼女の後に続こうとして、ふと足を止める。その前に、……凪と顔を合わせる前に訊いておかなければならない。
『あの、凪の様子はどうなんですか…?』
本人の前でこれを訊くのは憚れたし、本人に訊いたところで正直に話してくれるとも思えなかったからだ。
それを悟ってくれたのか、奥さんは苦笑いをした。
『うん、……あくまで私の目で見た状態だけど、少なくとも顔色はあまり良くないわね。暑さも相まって、貧血で倒れたんじゃないかな、っていうのが私の予想』
急に立ち上がって、立ち眩みがしたって言ってたしね。
一方で、凪の様子を話すその表情は、あまり明るいとはいえなかった。 確かに倒れて気を失っていたとなれば、軽く言うわけにもいかないだろう。これまでここでの仕事中に体調を崩すことがあっても、倒れることなどなかったのだから尚更だ。
尤も和樹自身も、凪が倒れて気を失ったことを目にしたことはないのだが。
『あ、そうそう。言い忘れてたんだけど』
『? 何ですか?』
『橋元くんを呼んだの、凪ちゃんにはまだ言ってないから』
客としてしか訪れたことのないこの店の、言わば裏側へと進んでいく。 ある奥の部屋の前で足を止めると先程の表情とは打って変わって、奥さんはドアを開けながらにっこりと厭な笑みを見せ、恐ろしいことを口にした。
ドアを開けた先には、壁に凭れかかるように座っている凪の姿。眠っているようにも見えるその瞼がゆっくりと持ち上げられ―――数度の瞬きの後、その目は思い切り見開かれた。
『ぇ、かっ和樹さん!? ……ッ!』
「凪っ…」
余程驚いたのか、勢い良く身体を起こす凪。そんなことをすれば、奥さんが言っていたように立ち眩みのようなことを起こしかねない。そう思って咄嗟に声をかけるが、勿論間に合うはずがなく、結果凪の身体は前のめりに傾く。 尤も、壁に手を付くことで持ち直し、何とか顔面を床にぶつけることは回避された。
だが息つく間もなく、凪は奥さんに食ってかかっていった。
『敦子さん、和樹さんに言ったんですか…!?』
『そうよ?』
『っ…、どうして話したんですか? 少し休めば私は大丈夫です。そんな、わざわざ言わなくたって…!』
『だって、こんな暑い中、歩いて帰らせるわけにはいかないし。だからって涼しくなる頃にはもう真っ暗でしょ、体調悪いのに独りでなんて認めません』
声を張り上げる凪は珍しいが、その頑張りも虚しく、奥さんは軽く流している。 これが人生経験の差、というものなのだろうか。何だか奥さんの秘密を1つ知ってしまったような気分だ。
『それに休みで家にいるんだから、少しくらい彼氏をアシに使ったってバチは当たらないわよ』
『…あ、あし……』
『呼んじゃったものは仕方ないんだから、諦めて今日は送ってもらいなさい。―――ね、橋元くん』
『え――? あ、あぁ、はい……』
突然こちらに振られ、――先程の「アシ」という言葉に少しばかりショックを受けていたこともある――しどろもどろになりながら返事をした。
ここに来てしまった以上、手ぶらで帰るわけにもいかない。奥さんから電話をもらったとはいえ、こうして車で来たのは和樹の意思であることに間違いはないのだから。
『……と、いうわけだ。文句は聞くから、ひとまず帰ろう、凪』
まずはそれからだ。どうせなら、お客さんがやってくる開店前に帰る方がいい。
『……分かり、ました。ごめんなさい、我儘言って……』
凪の言う我儘がどこにかかっているのかは和樹には理解出来なかったが、ともかく送らせてくれるようだ。ならば今は、それを追究する必要はないだろう。
凪が納得したと分かり、和樹だけでなく奥さんも、彼女には知られないようひっそりと溜息を吐いたのだった。
『凪、どっちに帰る? 俺んとこ…、来るか?』
『――…私の部屋に、お願いします』
『……ん、分かった』
そうして凪を助手席に乗せ、車を出す。 何となく気まずいとお互い感じていたのか、それから目的地までは会話はなく、車内のエアコンの音だけが静かに鳴っていた。
凪の謝る言葉を聞き、ベッドの横に腰を下ろして胡坐を掻く。ベッド自体の高さはさほどないとはいえ、布団の上に座っている彼女と視線を合わせるには、少しばかり目線を上げることが必要となった。
尤も凪自身は、こちらに視線を合わせるつもりがないのか、顔は身体に対して正面を向いたままだ。
「別に気にしてないからそう謝るなよ。距離もそんなに遠くないんだしさ。――…それに」
何となく一気には言い難く、途中で言葉を切る。
「……昨日のも、原因なんだろ…?」
金曜日だった昨日は、凪から血を貰った。 ただその時、いつもとは違い少しぼんやりとしていた彼女は、自分の手首をカッターで切る際、思った以上に深く傷付けてしまった。
切った箇所が悪かったのか、切り口の大きさからは想像のつかないほど溢れ出てきた鮮血。とどまることの知らない血は腕から零れ落ち、凪の服や床へ赤黒い染みを作っていく。
しかし血は流れ・傷口は痛むだろうに、凪は慌てるどころか血も止めることなく、ただその傷口を見ているだけだった。
少しぼんやりとしていたのも、切ってしまった時に何もしようとしなかったのも、今思えばその時点で体調は優れておらず、頭が上手く働いていなかったのだろう。
そしてこの時季・月に1度の週間で、ただでさえ身体の血液が足りていないというのに、ああして流してしまった。昨日のことが貧血で倒れたことの原因である、という結論に、和樹は至ったのである。
視線を合わせる気のない彼女に話しかけたところで何の反応もないと思っていたが、凪は身体を少し強張らせた後、しゅんと小さく項垂れた。
つまり、昨日・今日と体調が悪いということを、彼女自身は理解していた、ということなのだろう。
体調不良において、無自覚であることは恐ろしいものだ。そのため、今回はそうでなかったことに安堵するが、直ぐにそれも納得出来るものではないことに気付く。 凪は自身で体調不良であると理解していたにも拘らず、こうして倒れるまで無理をしていたのだから。
自覚があったのに、何故ここまで無理をしたのか。その理由が全く分からない。少々負けず嫌いなところがあるが、今回は度が過ぎている。
ただ、体調が優れないことを話してくれなかった凪に不満を覚える一方で、彼女の様子の変化に気付けなかった自分にも苛立っていた。
昨日あんなことがあったというのに、今朝起きた時の「ひと晩寝てもう大丈夫」という言葉を信じ、バイトに行くと部屋を出た時でさえ、こちらに向けた笑顔を疑いもしなかった。 ……恐らくそれは、心配かけまいと無理に作った笑顔であっただろうに。
だからこそ、考えれば考えるほど情けない自分への苛立ちを抑える術を、今の和樹には持ち合わせていなかった。
「なんで…、なんで倒れるまで無理したんだ!? 俺はともかく、奥さんに迷惑かけることになるけど、それ以前にそこまで無理してたら辛いのは凪だろう!? それに体調悪いなら悪いで、どうして俺に何も言わなかったんだよ!」
気付いたら、凪に問い詰めるようなことを言ってしまっていたのだ。
……いや、それだけで留めていれば良かったのかもしれない。強く言い過ぎたと悔い、別の言葉を探しながら話したことで、この状況は改善するどころか更に悪化してしまうのだから。
「ぁ――…、いや、別に凪のこと責めてるわけじゃなくて、……ただ、どうしてそこまでして、俺に血をくれるのかって…――」
「――…どう、して=c?」
「凪――?」
和樹の言葉を半ば遮るように、凪が疑問の声を漏らす。ただその声はどこか自嘲めいたものであり、怪訝な反応をせずにはいられなかった。
「どうしてって、そんなの和樹さんに死んでほしくないからに決まってるじゃないですか!」
突然の、聞き慣れない怒声に和樹は肩を震わせる。
「カッターで手を切るのだって恐いし、痛いし、……その、和樹さんのためだったら仕方ないとか、そんな気持ちでそれを我慢出来るほど、強くない! 私、が…、私が、和樹さんに死んでほしくないって、ずっと一緒にいたいって思うから、痛みだって恐怖だって耐えてるんです…!」
こんな風に捲し立て、声を荒げる姿を見たことはこれまでなかった。 そして、彼女が和樹に血を与えている行為に対し、どのように思っているのか、という本心を聞いたのも初めてだった。
和樹はずっと、凪に対して申し訳ないという気持ちがあった。
ただでさえ貧血気味の彼女に、僅かずつとはいえ定期的に血を貰い、生きている自分。その行為のために恋人≠ニは違ったモノで彼女を縛り付けてしまっている自分。
自分のために痛みを耐えてくれているというのに、彼女に甘えて死にたくない≠ニいう我儘を突き通し続けている、そんな自身が情けなくて仕方ないのだ。
――…だが、凪はそうではなかった。
和樹が死なないために≠ニいう意味では、2人の考え・想いは同じだ。 しかし凪は和樹のためではなく、和樹に死んでほしくない、という凪自身の我儘から、痛みや恐怖を耐えていると言っている。
2人の考えや想いは、似ているようで異なっていたのである。
「……、な…ぎ……」
何と声をかければ良いのだろう。様々なことが頭をぐるぐると回り整理出来ず、言うべき言葉が見つからない。
それに、血を与え・貰う行為に対する想いが異なっていたと分かった今は、何を言っても理解し受け入れてもらえるとは思えない。まして軽々しく「ごめん」などと謝っては、更に彼女を傷付けるだけだ。
かける言葉がない。 ……なら出来ることといえば、彼女に触れる、ということくらいだろう。そう考えたのだが、
「……帰って、下さい」
弱々しい言葉に、伸ばしかけた手を止める。
「も、独りで大丈夫だから、……お願い、だから……」
その声には、怒りと哀しさが混ざっていた。
こんな声で拒まれてしまえば、強引に黙らせることは勿論、彼女の話を訊くことも出来ない。
「―――分かった、水分取って、ゆっくり休めよ。……何か困ったこととかあったら、また連絡してくれたらいいから…」
立ち上がりながら凪に言うが、やはり顔は変わらず身体に対し正面を向いたまま、こちらと視線を交わらせてはくれない。 その態度に苛立つ自身の気持ちをぐっと抑え、和樹は部屋を後にした。
「―――…は、ぁ……」
車に乗り、シートに背を預けて大きく息を吐く。
バイト先へ迎えに行ったことで、凪の機嫌が少々悪くなることはその時点で覚悟していたことだった。空気は重くないに越したことはないが、少しくらいなら仕方ないだろう、と。
だが正直いってこんな展開は予想外であり、今でも何がどうなっているのか、上手く頭が働いてくれない。
……喧嘩、になるのだろうか。
凪とはこれまで喧嘩という喧嘩をしたことがない。 互いに感情的になることは殆どなく、たとえなったとしても、一方のどちらかが冷静にその想いを受け入れていたため、感情的になった方が後に少しばかり慙愧となる程度だった。
いや、案外これまでは、考えている以上に浅い付き合いだったのかもしれない。互いのことを深く知り、関わり過ごしていたのは思っていただけで、実際は幾ばくも理解していなかったのだろう。 だからこうして、共有していた思考が少し噛み合わなくなっただけで、心地良かったはずの関係は脆く崩れてしまった。
もう1度、深呼吸するように息を吐く。
こんなところで考えても仕方ない。凪のあのような態度を見ていては、こちらも要らぬことを言ってしまいそうだし、彼女自身が落ち着くまでは少し離れている方が互いのためにも良いだろう。
……来週までに仲直り出来るだろ―――
「―――ッ! ……ったく、最悪…」
和樹は大袈裟に舌打ちをした。
自分は、こんなにも生に対して執着心があったのだろうか、と思わずにはいられない。こんな時にも、無意識のうちに1週間後血が貰えるかどうかを心配しているのだから。 凪と仲直りすることよりも、それによる結果を求めているなど、本当に情けない。
ただ無意識だからこそ、その自分の執着心に少しばかり畏怖を感じた。
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