目覚めの口付け


 平日は毎日のように顔を見せている、客層の中では比較的若いあの青年の姿が見当たらない。
 店を開けてから数時間経ち、客足のピークも過ぎた頃、敦子はふとそのことに気が付いた。
 それほど大きいとは言えないこの居酒屋の客層はというと、仕事帰りの30代後半〜50代のサラリーマンが主である。その中で20代半ばのあの青年――橋元和樹は周囲と比べると若いが、よく足を運んでくれている。
 ただ仕事帰りの平日、ほぼ毎日来てくれるようになったのは、ここでアルバイトとして働いている嵐山凪を家まで送ってあげてほしいと頼むようになってからだろう。
 凪が仕事を終える時間と和樹が食事を終え帰る時間がほぼ同じであったこと、2人の自宅方向が同じであったこと、それに加え年齢層の高いこの店で、最も年齢が近かったことから頼むことにした。
 夜道が危ないため送ってもらってほしい、という純粋な気持ちからだったのだが、まさかこれがきっかけで2人が付き合い始めるとは予想外の展開だった。
 それからというもの、凪が入っている・いないに拘らず、和樹は毎日のように足を運んでくれるようになった。
 こちらとしても、顔馴染みの常連さんが出来ることは嬉しいし、自分の子どもたちが自立してしまった今、子どもたちより少し若い彼の相手をすること――からかい弄っている、という表現の方が正しい時もあるが――は楽しみの1つである。
 とにもかくにも月曜日である今日、いつもはある彼の姿が見えないことに疑問を感じたのだ。
 ……だがしかし、来ない日もこれまであったわけで、今は毎日来ていることが当然のようになっており、不自然に感じただけかもしれない。
 歳を取ってきたせいか、些細な変化が酷く気になって仕方がない……。
 自分が感じている以上に、肉体的だけでなく精神的に歳を取ってきているのかもしれない。そう思うと無意識に溜息が出てくる。
 これ以上歳は取りたくないわね、と自嘲の笑みを零しながら、敦子は頭を仕事モードに切り替えることにした。
 だから明日――凪が仕事に入ってくれる日も同じ違和感を覚えるとは、全く思っていなかった。





「橋元くん、今日も来ないのかしら」
「え…?」
 注文もひと段落し、敦子は店内を見渡せる場所に置いている椅子に腰を下ろす。独り言のつもりだったのだが、同じく手持ち無沙汰になり座っていた凪には聞こえていたらしい。
 ……尤も、彼女に聞こえるほどの声の大きさで漏らした独り言だったりするのだが。案の定、
「……和樹さん、昨日も来てないんですか…?」
 と、興味を示し、こちらに訊ねてきた。
「そ。最近はほぼ毎日来てたから、どうかしたのかなって。――…凪ちゃんが橋元くんと帰ったのって、土曜日だったわよね、何か聞いてる?」
「――…いえ、私は何も聞いてないです」
「そう…。仕事遅くまでやってるのかしらね」
 凪の反応を見て、彼女は和樹から来ない理由を聞いていない、ということは判断出来た。そして同時に、来ない理由は、少なからず凪が関係しているかもしれないということも。
 挙動不審というわけではないが、和樹が店に顔を出していないことを純粋に心配したり、疑問に思っているような感じとは言い難い。どちらかといえば、お互いの行動について知り得ていない、関心を示していなかった、といった感じだ。
 喧嘩でもしたのだろうか。
 先週の土曜日に凪が倒れ、和樹が迎えに来てくれた時は、特に2人が喧嘩しているような様子はなかった。凪は和樹を呼んだことに対し、「どうして呼んだのか」と食ってかかってきたが、それはあくまで和樹に知られたくない、迷惑をかけたくないという理由からだろう。
 ということは、2人の間に何かあったのならば、帰った土曜日の夕方頃から日曜日にかけての時の可能性が高い。
 ただ……、もし本当にその時だとすれば、凪に何も言わずに和樹を呼んでしまった自分の行動が原因の発端という可能性もある。
 彼女たちのことを考えて、真剣さ7割・からかい3割――勝手に和樹に電話をしたこと、それを凪と顔を合わせる直前に彼に告げたこと、などがここに入る――で取った行動。自分の子どもより若い子たちのこととなると、手に取るように分かる…とは思っていただけで、実際は幾らも理解出来ていなかったのかもしれない。
 今日の凪の表情を見て、体調も良くなったようだしこれで一件落着ね、などと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「……もしかして、マズイことしたかしら……」
 今度は凪に聞こえることのないよう、心の中で独り言を漏らした。





 一方その頃、その噂の張本人はというと。独り寂しく、部屋でコンビニ弁当を食べていた。
 敦子の予想通り、土曜日に凪を部屋まで送った後に初めてした喧嘩。3日経ったが、あれ以来和樹は凪と顔を合わせておらず、連絡もしていない。
 平日に顔を合わせる場といえば、凪が働いている居酒屋しかない。会ったところで気まずくなり、何を話したら良いのか分からなくなるのは目に見えていたため、避けることにした。そこに行かないということは、自分から彼女に会うという繋がりを切ったも同然だ。
 弁当を食べ終えた和樹は、床に転がしていた、ここ数日機能を果たしていない携帯電話を手に取る。
 元々電話もメールもあまりすることがなく、定期的に通信している相手といえば凪くらいだった。その彼女と喧嘩したとなれば、使用頻度はぐっと下がる。
 携帯電話の電話帳を開き、凪のアドレスを検索する。尤も苗字が嵐山≠ナあるため、電話帳を開けば検索せずとも1番始めに出てくるのだが。
 今ではほぼ覚えてしまっているほど何度もかけた、凪の携帯電話の電話番号。
 思い切って通話ボタンを押してしまおうか―――、そう思うものの、もしかすれば今日はアルバイトに行っている日かもしれない。ならば決心して電話をかけたところで、意味がない。それに、たとえ凪が出たとしても、何と言えば良いのか全く整理出来ていない状態だ。
 電話が駄目ならメール、だろうか。作成画面を出して打とうとするが、……一体何と書けば良いのだろう。凪の顔も声も気にせずに自分の気持ちを文章に出来るものの、口頭とは逆に、言葉を濁すということが出来ないのだ。言うべき言葉が見つかっていない状態で、気持ちを文章で表すなど出来るはずもなかった。
 喧嘩など、早く終わらせたい。居酒屋に行かないのも逃げているようで厭だ。凪とどう話をすれば良いのか分からない一方で、彼女の顔が見たい、声が聞きたい、話をしたい、という気持ちもあるのだから。
「あ〜…、どうすりゃいいんだ……」
 携帯を投げ出し、床に身体を預ける。
 どうしたらいいのか、と声に出したところで、返事などあるわけがない。寧ろ声に出したことで、より一層虚しくなってしまったと悔いるのであった。







 そうして悩んでいるうちに、金曜日が来てしまった。
 結局和樹は、凪に電話をすることも、メールを送ることさえも出来ていない。まして顔を合わせるなど以ての外で、凪が何曜日にアルバイトに入っているか分からないため、今週は1度もいつもの居酒屋に足を運ばなかった。
 このまま凪と顔を合わさず血を貰えなければ、待っているのは自分の死、だ。その死を避けるために仲直りをしようと彼女に会いに行こうとしている自分には、正直嫌悪感を抱く。
 ただ…、こうしたきっかけがあるからこそ、これは仲直りをする機会だと、決心して会いに行こう、と思えたのも事実だった。
 仕事帰り、まず向かったのは居酒屋。ここ数ヶ月は金曜日は大抵仕事が入っていたため、いるだろうと思っていたのだが姿はなかった。奥さんに聞くと、今日は休みとのことだった。
 ならば、次に向かう先は彼女の部屋にとなる。ご飯食べていかないの? という奥さんの言葉に少しばかり揺らぎつつ店を後にし、凪の部屋へと足を進めた。
 そうして着いた玄関。インターホンを押すと、ピンポーンとこちらの心情を無視した軽快な音が鳴る。
 押す決心をするまでの時間は長かったが、押してからの待ち時間が何より辛い。
 凪が出てきたら、まず何と言おう。ひとまず部屋の中に入れてもらえるよう、交渉しなければならないかもしれない。さすがに玄関前で謝るわけにもいかない。昨日も言うべきことを考えていたが、結局まとまらず、行き当たりばったりとなってしまった。
 何度も深呼吸しながら、頭をフル回転させる。だが、
「―――?」
 凪が出てくる気配はなく、再びインターホンを押す。しかし何の反応もなかった。
 部屋にはいないのだろうか。駄目元で玄関の取っ手に手をかけると、ガチャリ、という音と共に扉が開いた。いくら部屋にいるとはいえ、独り暮らしなのだから、鍵は閉めていた方がいいのではないか、などと今は全く関係のないことを考える。
「凪? ―――部屋、入るぞ…?」
 少し声を張り上げるが、やはり反応は返ってこない。不審に感じつつも靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れた。
 一体どこにいるのだろう。玄関の鍵が開いている以上、この部屋にいることは間違いないはずだ。
 それにしても、何度も訪れたことのあるはずなのに、初めて来た場所のように緊張し、心臓はバクバクと煩い。足取りも重く、まるで何か恐ろしいものを探している感覚である。
 短い廊下を抜け、リビングへと入る。ここはキッチンと繋がっており、リビング兼ダイニングルームとなっている。折り畳み式のテーブルを中心として、テレビやリクライニングチェアなどが置いてある、凪が最も長く過ごす部屋だ。
 と、その部屋の中央――テーブルの直ぐ傍にあるリクライニングチェアに座っている、凪の姿があった。
 まさかこんなところにいるとは思っておらず、心の準備が出来ていなかった和樹は、慌てふためく。
「あ――、か、勝手に入ってごめん、インターホン押したけど全然反応ないから、でも鍵開いてたし、出かけてるわけじゃないんだろうなって、入って、呼んだけど返事ないし、やっぱりいないのかなって、そ、それで……、
―――ぁ、れ…?」
 何を話せば良いのか分からないというのに、何故かスラスラと口が勝手に言葉を紡ぎ出す。その言葉が支離滅裂であることを頭では理解しているものの、声は止まらなかった。
 だが、一体俺は何を言っているんだ…、と冷静に分析していた脳ミソは次に、視覚から得た情報から今の状況を処理していく。
 そこにいたのは確かに凪であったが、目は閉じ、規則正しく小さく動いている胸。
「………な、凪…?」
 恐る恐る声をかけても、返事はない。彼女の近くで動いている扇風機の羽根の音で分かり難いが、微かに寝息が聞こえる。どう考えても、凪は眠っている状態だった。
 どっと力が抜けた和樹は、大きく息を吐く。
 意を決して部屋に入り、姿を見つけたことであれほど動揺し焦ったというのに、その本人が寝ていたなど拍子抜けだ。
 だが、一方でほっとしていた。支離滅裂な言葉を聞かれていなかったということもあるが、話す言葉が決まっていない今、再び考える猶予が与えられたのだから。
 穏やかに眠っている凪の顔を見て笑みを零し、ふと、彼女の手元に携帯電話が落ちているのが目に入った。折り畳み式のそれは、開いた状態のまま手から滑り落ちているように床にある。
 ということは、携帯電話を使っているうちに寝てしまったのだろうか。
 開いたままにしておくのもどうかと思い、凪を起こさないようそっと近付き、携帯電話に手を伸ばす。
 ただ、手に取った瞬間。ただ純粋に閉じようと思っていたはずなのに、その画面が非常に気になった。
 携帯電話は一種のプライベートなものだ。それを本人の許可なく見ることは、和樹自身許し難い。それは重々分かっているというのに、何故か「見たい」という感情を抑えることが出来なかった。
 操作はしない、ただ画面を見るだけだから……。
 ごめん、と心の中で凪に謝りつつ、そっと携帯電話の画面を覗く。
「え―――?」
 そこにあったのは、拙いながらも和樹に謝ろうとする内容の、メールの作成画面だった。
 これが自分宛てのメールであると絶対的に言えるものとして、文中にある和樹≠ニいう名。文章の最後の文字が変換前であることを考えると、これを打っている途中に寝てしまったのだろう。
「――…は、はは……」
 ―――なんだ、俺だけじゃなかったのか……。
 慣れない喧嘩をして、どうしたらいいのか全く分からず、素直に謝れない自分の不器用さに呆れて。自分ばかりが焦って空回りをしているのだと思っていた。
 だがもしかしたら、凪も自分と同じだったのかもしれない。電話やメールで謝ろうとして、結局踏ん切りがつかず、今日まで来てしまったのかもしれない。
 そう思うと、何だか少しおかしくなった。
 もう1度文章を目で追った後、大きな音が出ないようにゆっくりと携帯電話を閉じ、小さな折り畳み式のテーブルに置く。
 首を振る扇風機が凪の方を向く度に短い髪が風でなびくが、全く感じないのか、相変わらず小さな寝息を立てて眠っている。思った以上に眠りは深いのかもしれない。
 まだ、面と向かって言える準備が出来ていないから。もう少しこのまま、夢を見ていてほしい。
「―――凪、ごめんな……」
 彼女の目が覚めた時、素直に謝ることが出来ますように―――。
 そんなことを願いながら、髪で隠れた額に小さく口付けをした。

 

 

 

 

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2007.11.22

サークル11月期。
漸くここまできた、って感じですね;
前回(第3話)と違って〆切ギリギリだったこともあって、
内容とか薄いなぁって読み返して思う…。
最後の4行は結構気に入ってるんですけど。




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