その手に触れることができたなら


 人が行き交う中、道のど真ん中で転ぶというものは恥ずかしいこと、この上ない。
 直ぐに立ち上がってその場を去りたいと思いながらも、転んでしまった以上なかなか立つことも出来なかったりする。
 そしてまさに今、女子高校生――嵯峨朋恵は、その羞恥心で頭がいっぱいであった。
 ――…もう〜ッ!ジロジロ見るくらいなら、少しくらい声かけてくれたっていいじゃない…!
 仲の良い友達は皆、電車通学のため登下校は殆ど1人だ。もし一緒に帰っていたならば、笑って済んでいただろう。
 更に今日に限って、肩よりも伸びた髪は1つに括っていて、朋恵からは周りを歩く人が自分を見ていることが嫌なほど分かる。
 出来れば、人気がなくなるまでこうしていたいとも思う。
 だからといってこのままの状態でいるわけにもいかず、何より夕刻に差しかかるという今から、人気がなくなるまで待っていては陽が暮れてしまう。
 ただでさえ、もう冬は直ぐそこだ、というような季節なのだから。
 恥ずかしい気持ちを押し込んで、ゆっくりと立ち上がろうとした、その時。
『……大丈夫?』
 朋恵は頭上から聞こえた声に、顔を上げる。
 そこには、腰を落としてこちらに手を伸ばす男性。尤も、逆光でその表情をはっきりと見ることは出来ない。
 それでもその声色から、揶揄しているわけではないことは分かる。
 未だ手袋をしていない手は相当冷たくなっていて、少し申し訳ないなぁと思いながらもその手に掴まった。
「あっ、ありがとうございま――」
 ……いや、正しくは掴まろうとした。しかし、それは叶わなかった。
 何故かと言うと、
「え……?」
 朋恵の手は、男性の手を擦り抜けてしまったのである。
 そこでようやく朋恵は理解した。
 毎度のことであるが、いい加減区別出来るようにならなければならない、と思う。
 誰もいない所であるならば、それほど気にすることもないだろう。
 しかし、今日のように人通りの多い所では、完全に自分は変人扱いになってしまう。
 先程思い切りお礼を言ってしまったし、腕も少しではあるが上げたままだ。
 これで周りの人から変な目で見られていなければ、奇跡かもしれない。
『お、俺のこと見えるのか…!?』
 彼は恐らく、……幽霊だ。





 朋恵は、所謂霊感というものがあった。
 とは言っても人に自慢出来るほどのものでもなく、ほんの時折、偶然的に見える程度。
 更に時折しか霊に遭遇することがない、ということもあり、霊と生身の人間との区別がつかないことが多々ある。
 身体が浮いていたならば一目見れば直ぐに分かるが、地に足を付けていれば一体何で見分ければいいのだ、と思うくらいだ。
 ……そう、今日のように。
 朋恵は今、帰り道にある公園のベンチに座っている。
 その彼女の目の前に、胡坐を掻いて浮いているのは、つい先程出逢った男性――別の呼び方をすれば、幽霊である。
 あの場にいては、彼が見えていない人からすればクスリをしている女子高生、と捉えられても否定出来ない。
 颯爽と立ち上がると、何とか彼に聞こえるほどの小さな声で「一緒に来てもらえますか?」と言った。
 少し動揺している風にも見取れたが、彼は何も言わず頷いてついて来てくれたのである。
 ここでならば、周りを気にせずに話をすることが出来る。
 初対面の人と話をすることはあまり得意ではないのだが、朋恵は思い切って訊いてみることにした。
「あの……、どうしてあそこにいたんですか…?」
 先程は逆光で顔をよく見ることは出来なかった。
 こうして間近で見てみると、男性というよりは青年と呼んだ方が合っているかもしれない。
 5歳離れた兄のことを考えれば、兄と同じか少し年上といったくらいだろうか。
 ダークブラウンの髪は、陽に当たっても明るく見えることはなく、それは実体がないということを表している。
『人を…、見てたんだ』
「人…?」
 そう訊き直すと、幽霊の彼は少し寂しそうな表情で、ポツリポツリと話し始めてくれた。
 彼は、……5日ほど前に、交通事故でこの世を去ったという。
 強い雨が降っていたその日、助手席に恋人を乗せて、車を運転していた。
 交差点の信号が青に変わり、走り始めたその時。突然左方から、1台の車が突っ込んできたのである。
 思わずハンドルを切ったのだが、雨でスリップしてしまい、その車は避け切れたものの前方から走ってきた大型のトラックに、滑るように運転席から衝突。
 気付けば、自分の身体が宙に浮いていた。
 目の前には血を流している自分と、その何も反応のない自分に涙声で問いかけ続ける恋人の姿。
 相変わらず強く降る雨も、その冷たさも全く感じない。
 その時はやけに酷く冷静で、自分は死んだんだ、と感じていた。
 尤も、1日2日と経つ度にその実感はなくなり、素直に受け止めることが出来なくなっていったのだが。
 そして今日、あの場所でずっと人を見ていた。
 誰か、誰かこの姿を見つけてほしい。誰でもいい、自分が「存在している」ことを証明してほしい、と。
 もちろん自分の姿が見える人など1人もおらず、ただ時間だけが過ぎてゆき、夕刻に差しかかろうとする頃。
 1人の女子高生が、目の前で躓いて転んでしまった。
 冷たい視線を向けるだけで、彼女に声をかけようとはしない人々。蹲ったままの女子高生。
 そんな彼女に、思わず手を差し伸べ声をかけた。
 自分が死人だということを思い知らされ、惨めになるだけだと分かってはいたけれど。
 しかし、違った意味でその考えは覆される。まさか、自分の姿が見える人に会えるだなんて――。
『……家族とか友達はもちろんだけど、現場に居合わせちまった彼女に、何も言えずに死んだってのは心残りかもしれない…』
 彼の言葉が止まり、朋恵は現に戻される。
 ふと気付けば辺りは暗くなり始めていた。もう直ぐで陽は沈む。
 今は何時頃だろうか。母親に帰りが遅くなるなど、もちろん連絡していない。
「あ、あの…、暗くなってきたので、その、私……」
 自分からどうしたのか、と訊いておいて何だが、朋恵の時間が動き彼の時間が止まっている以上、このまま一緒にいるわけにもいかない。
 だがそれは同時に、彼をまた独りにさせてしまう、ということでもある。
 霊となってから自分の姿を「見て」くれたのは、朋恵だけだと彼は言った。
 彼はこれから、どう過ごしていくつもりなのだろう。
 この先朋恵のように、彼の姿が見える人に会えるとは限らない。そして、いつまで霊として彷徨い続けるのかさえ、誰にも分からない。
『俺のことは気にしなくていいよ。寒さとかも感じないみたいだしな。こうして話聞いてもらえただけでも、かなり気持ちは楽になった』
 ありがとう、と言う彼の表情は、朋恵を心配させないようにということではなく、本心からそう思っていることが分かる。
 この世に未練があるから霊となる。そんな話は朋恵もよく耳にする。
 だが、それが真実かどうかは定かではない。そのような場面に立ち会わせたことがないのだから。
 もしそうだとすれば、彼も何かこの世に未練があってここにいるのだろうか。
 ……いや、話が途切れる直前に彼が口にしたのは、心残りだという彼女のこと。それが無関係であるとは言い切れない。
 もちろん、関係があるとも言い切れないが。
 何か…、何か彼にしてあげることはないのだろうか。
「わ…、私、守前(かみさき)高校に通っているんです!」
 突然声を張り上げたためか、彼は少し驚いた表情で朋恵を見つめた。
 だからといって引き下がるわけにもいかず、朋恵は小さく深呼吸をして、高鳴る胸を落ち着かせる。
 ここで言いたいことを伝えなければ、今までの自分と一緒だ。
 霊と偶然的に会っても、霊がいると分かっても、見て見ぬ振りをしてきた。
 自分はその霊の力になってあげることは出来ないから。
 ただ霊を「見る」力しかない自分は、その力を持っていない人と何ら変わりはないと思っていたから。
「だから、あの…、もし寂しかったりしたら、その……」
 同情して、なんて思われたくはない。でも彼の願いを叶える力など持っていない。
 ならばせめて「今」が辛くなった時、独りでいることが辛くなった時。逃げることの出来る場所をつくってあげたいと、そう思った。
 能なしの自分でも、出来ること――。
 しかし、なかなかそれを上手く言葉にすることが出来なくて、朋恵は小さくなる語尾と共に頭(こうべ)を垂れる。
 ちゃんと言わなければ、伝わりなどしないのに……。
『……今日歩いてた所は、登下校の時いつも通ってる道?』
「え…?あ、はい」
 どう言えばいいのかと慮っていたため、彼の言葉を理解するのに少し時間を要したが、何とか返事をする朋恵。
 ふと顔を上げると…、彼が微笑んでいだ。
『独りでいて暇になったら、話相手になってもらいに行くよ』
 寂しくなったら、と言わないのは、恐らく朋恵に気負いさせないため。尤もそのことに朋恵は気付いていない。
 何故なら、自分が言いたいと思ったことが、ちゃんと彼に伝わった。
 それが嬉しくて、微笑ってくれたことが嬉し過ぎて…。
「はい…!」
 何だか少し泣きそう…と思いながら、朋恵は彼に出会ってから初めて笑顔を見せた。







 翌日の天気は、快晴。
 窓側に座る朋恵の頭は昨日のことでいっぱいで、気付けばもう4時間目。
 午前中の授業は、あまり頭に入っていなかったりする。
 そんな彼女を心配してか、友達も「大丈夫?」「体調悪いの?」と声をかけてくれる。
 しかし、昨日会った幽霊のことを考えていた……、などと言えるはずもなく。
 何でもない、ちょっとボーっとしてるだけ。と無理やり笑みを作って、彼女たちに答えていた。
 ちなみに、朋恵は友達に霊感があることを話していない。
 家族はもちろん知っているが、霊感と言ってもただ霊の姿が見えるだけの能力。自慢して言うほどのものではない、そう考えているからだ。
 ……そういえば。
 ふと、朋恵は思った。昨日は自分の名前を言っていないし、彼の名前を訊いてもいない。
 ただ、自分の名前を言うということは、これから宜しくと言っていることと同じような気もする。
 確かに彼は、話相手になってもらいに行くと言ったが、それは絶対ではない。また会えるとは限らないのだ。
 それなのに名前を聞くなど、図々しいことは出来ないし、したくもない。
 朋恵は、今日何度目かの溜息を吐いた。
 そして相変わらず聞いていない授業から逃避するように、窓の外に視線を向ける。――すると。
「……あ、」
 誰にも聞こえないほどの小さな声を出した。
 そこには、昨日の幽霊がぷかぷかと浮いていたのである。
 来てくれたことが嬉しくて、小さく手を振る彼に、自分も手を振ろうとしたその時。
「窓の外見てる嵯峨さん?先生の話も聞いてほしいんだけどなぁ」
 女性教諭のおっとりとした声に、慌てて顔を黒板に向け、
「あ、す、すみません…」
 朋恵は少し俯きながらも謝った。
 結局それから授業が終わるまで、外を見ることは出来そうになかった。
『ごめんな、俺のせいで注意されちまった……』
 ここは、授業でしか使われない特別教室。
 昼休みとなった今の時間、ここに生徒がやってくることは滅多にない。
 つまりは幽霊の彼と話をしていても、それほど不都合のない教室であるということだ。
 もし誰かが来たとしても、先客がいると分かれば出て行ってくれるだろう。
「そ、そんなのいいです。気にしないで下さい」
 先程の4時間目、外にいる彼の存在に気付いたことで、朋恵は教諭に注意された。
 しかし授業を真面目に聞いていなかった自分が悪いことには代わりないし、何より来てくれたことへの嬉しさが勝っていたため、朋恵は謝る彼にそう言う。
 もう彼と会えるかどうかなど分からない、と考えていた直後のことだ。喜ぶのも無理はない。
 そんな思いを知られたくないこともあってか、極力自然に振舞うよう気を遣ったのだった。
『あ、そういえば、君の名前』
 彼が何か思い出したように、そして何故か少し恥ずかしそうに言う。
 4時間目の時、朋恵の苗字が「嵯峨」であると知ったのだろう。
 そのため自分の名前のことを切り出してくれた、朋恵はそう思っていたのだが。
『嵯峨、なんだな。実は俺も嵯峨。すっごい偶然だよな』
「え、そうなんですか?!」
 別に縁だとか、おこがましいことは考えていない。ただ、何となく嬉しい気持ちはある。
 こんな小さなことが嬉しいだなんて、久しぶりかもしれない。
 朋恵は少し驚いたのと同時に、小さく笑みを零した。
『んじゃ、改めて自己紹介。俺は嵯峨謙吾。幽霊だから年齢も何もないけど、一応22』
 彼を見た時の、兄と同じ歳くらいかもしれない、という予想は当たったようだ。
 兄は今大学3年だが、彼は大学に通っていたのだろうか。卒業して職に就いていたのかもしれないし、大学へは行っていないかもしれない。
 1つ知れば、また1つ訊きたいことが出てくる。
 いや、1つではないだろう。幾つでも訊きたいと思っていることはある。
 それでも、甘えるという表現は相応しくないかもしれないが、自分といることで安らいでくれるのなら。今はそれだけで十分ではないか。
 ポッカリと空いてしまった心を、少しでも埋めることが出来るなら。
「あ…、えと、嵯峨朋恵、高校1年の16歳、です……」







 それから2人は、同じ時間を共有するようになった。
 平日は、昼休みと放課後。昼休みは先日と同じように特別教室で、放課後は帰路にあるあの公園で話をする。週末には、朋恵に――学校で出された宿題も含めて――予定がなければ、公園に足を運んでいた。
 それは、ネタが尽きることのない友達と話しているような、本当に他愛のない話ばかりだった。
 しかし常に一緒にいるというわけではなかったが、お互いにこの時間が無くてはならないものになっていたのである。
「ねぇ……」
「ん?」
 声をかけられ、朋恵は読んでいた雑誌から視線を外した。
 ここは姉の部屋。エアコンを付けていると耳にしたので、それなら、とお邪魔している。
 自分の部屋にもエアコンは設置されているが、やはり電気代のことを考えてしまい、付けるのは勿体ないと自粛したというわけだ。
 ベッドに座り壁に凭れていた朋恵と、机に向かっていた姉の視線が合わさる。何だか姉の表情が、少し緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「高1にして、とうとう恋がやってきた?」
「え!?」
 予想外というより想像もしていなかった言葉に、思わず朋恵は少々声を張り上げてしまった。
 上手く言葉が出ないため、頸を左右に振ることで姉の発言を否定する。
「あれ、違うの?」
 そんな妹に対し、予想が外れたことが少し悔しいのか、姉は口を尖らせ溜息を吐く。
「なぁんだ。何か最近の朋恵、すごく楽しそうだし。てっきりそうだと思ったのになぁ」
 最近、となると、やはり謙吾と出逢ってからだろう。
 彼のことは、家族にも話してはいない。霊感があることを知っていても、朋恵の他に霊の姿を見ることの出来る者はいないのだ。彼らが朋恵の力になってあげたことは、今までほんの数えるほど。
 尤も、彼女自身これまでそれほど霊と関わろうとしていなかったため、家族に相談すること自体少なかったのだが。
 そして例によって謙吾のことは姉にも話さなかった。
 それが結果として、朋恵は最近好きな人が出来て、毎日楽しそうなのだ。という考えに辿り着いたのだろう。
 朋恵自身は顔に出しているつもりはなかったのだが、それほど謙吾との時間が彼女にとってかけがえのないものになっていた、ということだ。
「でも、朋恵が幸せそうだとやっぱり私も嬉しいし。何て言うのかな、恋に近い感情かもしれない。好きなんだよ、朋恵のこと」
 何だか姉の表情が、友達が彼氏のことを話している時のような、柔らかで幸せそうなそんな表情だった。
「……えへへ、何か恥ずかしいや」
「うん、正直言ってるこっちが恥ずかしい」
 真顔で姉がそんなことを言うものだから、小さく吹き出してしまった。
 暫くしてこの部屋から聞こえてくるのは、2人の笑い声。
 たった3歳しか違わない姉は、彼女が高校に入った頃からとても大きく見えていた。
 自分よりもずっと大人で、そしてその頃からずっと憧れで。何人かの人と付き合ったこともあり、恋愛の先輩でもある。
「……恋、なんかじゃないもん…」
 朋恵は抱えていたクッションに顔を埋め、姉に聞き取れないほどの小さな声で漏らす。
 確かに謙吾と一緒にいる時間は好きだ。
 中学以前からの付き合いや、高校に入ってからの付き合いである友達と一緒にいる時とは、また違う。楽しいというよりは、ほっとするという感じだろうか。
 しかしそれは、きっと今は独り暮らしをしている、兄のことがあるからだと朋恵は思う。
 年が離れているためか、朋恵はお兄ちゃん子だった。
 小さな頃から兄の後ろをついて回ったのではなく、単に一緒に過ごす時間が多かった、と言った方が正しいだろう。
 他愛のない話をしたり、共に遊んだりと、とにかく一緒に過ごしていたのだ。
 そんな兄が独り暮らしを始めて3年になる。この年にもなって…、とは思うものの、好きなのだから仕方ない。
 尤もその兄も、末の妹である朋恵が可愛いものだから、実家に帰ってきた時はやはり一緒にいることが多かったりする。
 余計に兄から抜け出せないのだろう。
 別に、それが悪いことだとも思わない。兄に依存しているわけではないし、互いに損をしているということでもないのだから。
 実際、彼女もしっかりといたりする。
 だから、兄とほぼ変わらない歳である謙吾は、恋というよりは兄のような存在だ。
 兄と一緒にいて安心するような、ほっとするような感情が、彼に対してもある。
 霊だから恋はしないだとか、彼の存在を否定するつもりはない。ただ、どこかで兄の面影を見ているような、そんな気はする。
 それは朋恵自身気付いていることであり、無意識にそう思おうとしていることでもあった。

 

 

 

 

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