幽霊の謙吾と出会い、ひと月が経とうとしていた。
 やはり他愛のない話が多かったが、その中で「嵯峨謙吾」という、彼のことも少しずつ分かっていった。
 高校卒業と同時に働き始めていたこと、家族のこと、好きなもの、嫌いなもの。社会に出ていたからこそのことも含め、彼は色んなことを話してくれた。
 しかし、謙吾が決して触れようとはしないこともあった。それは、付き合っていたという彼女のことだ。
 交通事故の現場に居合わせていた、と聞いてしまっている以上、朋恵にそれを排除する術はない。だからといって訊くことも出来ず、気が付けば1ヶ月も経ってしまっていた。
 そしてここ数日、朋恵が独りで考えていたこと。それは「これから」のことだった。
 謙吾といる時間はとても好きで、あって当然のもの。このまま彼と一緒にいたいが、それは彼がこの世に未練があるからこそ続く時間。
 付き合っていた彼女に会って、彼の気持ちを伝えるべきではないのだろうか。それが謙吾と彼女にとって、1番幸せなことではないのか。
 一緒にいたい、という気持ちに嘘はない。しかし2人のことを考えれば、このままでは駄目だ、と思う。
 何より今のままでは、自分だけが幸せでいるようで、そんな自分が許せなかった。
 朋恵の自分の気持ちは、矛盾だらけだ。
 だからこそ、ここ数日ずっと独りで考えていた。皆が辛い思いをせずに済む方法はないのだろうか、と。
 ――…いや、きっとそんなものはないだろう。全てが思い通りになることなど、あれば今のように悩む必要もないのだから。
 やっぱり、謙吾には笑っていてもらいたい。それが朋恵の今の望み。
 初めて話をした時に心残りだと彼が漏らした、付き合っていた彼女に何も言えなかったという想い。もしかすれば、何らかの方法でその願いを叶えることが出来るかもしれない。朋恵ならば。
 ……言おう、謙吾に。彼女に会って、気持ちを伝えないか、と。
 もちろん、どうしたいのか決めるのは謙吾自身だが。
『幸せそうだとやっぱり嬉しいし。恋に近い感情かもしれない。たぶん好きなんだよ』
 ふいに思い出した、姉の言葉。
 ……恋、なのだろうか。
 朋恵は、今まで恋をしたことはなかった。憧れ、という感情はあっただろう。しかしそれを恋と呼ぶには、まだまだ幼い想いだった。
 絶対恋じゃあないと、そう思っていたのに。
 自問すればするほど、謙吾のことが「好き」なのではないかと。まるで誰かがそう言っているように。
 しかし、自覚してしまえば、案外それだけで気が少し楽になった。
 気付かなかったのは、恐らく初めて会った頃だけ。謙吾の想いを形にしようという考えは、頭から排除していたのだ。
 彼と一緒にいたいから、その時間が好きだったから。
 彼が、好きだから。
「初恋は実らないって言うけど…。ホントなんだなぁ」
 時間が止まってしまった者と、動き続けている者。いつまでも、一緒にいることなど出来ない。
 それは分かっているはずなのに、……分かっていたつもりなのに、どうしてこんなにも辛いのだろう。
 ただ「一緒にいたい」という小さな願いが、叶えられない哀しさ。
 朋恵はベッドに伏せ、声を殺して静かに泣いた――。







「……謙吾さん、話したいことがあるんです」
 小さく深呼吸した朋恵は、謙吾に意を決して言う。
 結局、朋恵がこのひと言を言うのに、数日を要した。
 言ってしまえば、もう謙吾と一緒にいられないかもしれない。そう思うと、いつでも言う機会はあったのだが、なかなか踏み切ることが出来なかったのである。
 自分の気持ちを完全に抑えることは、大人であっても難しい。
 頭では分かっていたものの、少しでも、少しでもこの時間が長く続けばいいのにと、どこかでそう願っていたのだろう。何だかんだ言っても、朋恵はまだ自分の気持ちを振り切れるほど大人に成り切れていなかった。
 ちなみに2人はお互いに、謙吾さん・朋恵ちゃん、と下の名前で呼んでいる。
 偶然的にも同じ苗字であったため、苗字といえども自分の名前を呼び合うのは恥ずかしかったのだ。
 朋恵にしてみれば、異性をさん付けで呼ぶことは少ないので、初めの頃は「謙吾さん」と呼ぶこと自体が恥ずかしかった。
 慣れとは恐ろしいもので、1ヶ月経った今では恥ずかしいとは全く思わないのだが。
『どうしたんだ、改まって……。いいよ、聞くから話して』
 謙吾がそう言うのも無理ないだろう。話したいことがあるならば、わざわざそれを訊く必要はない。
 しかしだからこそ、朋恵は気持ちを改めて話したいことがある。謙吾はそう受け取り、真剣な眼差しの彼女を茶化すことなく先を促した。
 こういうところは、やはり歳上だな、と朋恵は思う。
 別に同級生の男子が子供っぽいとか、相手の気持ちを考えないとか、そんな風に感じているわけではない。ただどうしても比べてしまい、ちゃんと相手のことを視野に入れてくれる彼がとても大人びて見えるのだ。
 彼のことが好きだと自覚し、そしてその想いを受け入れたため、余計にそう感じるのかもしれない。
 朋恵はカラカラに渇く喉を出来るだけ思考から追いやり、ようやく話し始めた。
「彼女さんに……、あの日言えなかったこと、伝えませんか…?」
 強張る表情。謙吾が驚愕するのは、予想出来ていた。しかし、ここで言葉を止めてはいけない。止めたらきっと、続きを言えなくなってしまうから……。
「余計なことだったらごめんなさい。でも、謙吾さんあの日から彼女さんのこと話さないし、ずっと我慢してるのかなって……。逃げてちゃ駄目だと思うんです。もし……、私が謙吾さんの彼女さんの立場なら、謙吾さんに会いたいって、そう思うから……」
 そこで朋恵の言葉は途切れる。
 言いたかったことは伝えた。この気持ちが上手く言葉に乗って彼に伝わったかは分からないが、今の朋恵ではこれが精一杯。これ以上簡潔に言うことは出来ない。
 伝えたかったのは、最初に出した「あの日言えなかったことを、彼女さんに伝える」ということ。最低限そのことを分かってくれるならば、それで良いのだ。
 ……良いのだが、やはり謙吾から直ぐに答えは貰えない。黙り込んだまま、時間だけが過ぎていく。実際はほんの短いのだろうが、とても長く感じるこの時間。
 沈黙が辛い。いつも気軽に話していたからこそ、余計にこの沈黙が辛い……。
 その時、小さく溜息を吐いた音が耳に入った。ここには朋恵と謙吾しかいない。つまり、溜息を吐いたのは謙吾ということになる。
 朋恵の突拍子もない提案に、叶うことのないであろう提案に呆れてしまったのだろうか。謙吾の表情を見るのが恐い。その気持ちをぐっと抑えて、朋恵は恐る恐る顔を上げた。
「……謙吾、さん…?」
 謙吾は、今にも泣いてしまいそうだった。







 休日である土曜日に、珍しく朋恵は謙吾と一緒に過ごさなかった。
 その理由は、彼女が今いる場所がいつもと違うためだ。今、朋恵は一戸建ての家の前にいる。
 謙吾の彼女が住んでいる家だ。
『会いたいんだ、本当は』
 それは朋恵が彼女さんに気持ちを伝えないか、と提案した時、謙吾が漏らした言葉。
『事故ってから、あいつの所に行こうって何度も思った。でも、同時に俺のことが見えてなかったら、声が届いてなかったら……。そう考えると、会いに行けなかった。まだ恐いんだ、死を受け入れることが』
 涙を堪えるかのように、眉間に皺を寄せ、そして無理やり笑おうとする。そんな彼の表情が、今でも目に焼き付いて離れない。
 朋恵が考えていた以上に、謙吾はあの日≠ゥら辛い思いをしていたのだろう。
 彼に、笑っていてもらいたい。そのきっかけを作ることが出来るなら…――。朋恵は意を決して、インターフォンを押した。
 暫くして玄関から出てきたのは、若い女性。
「…あ、あの、中原玲香さん…いらっしゃいますか?」
 それは謙吾の彼女の名前だ。名前も知らずに会って話をするわけにはいかないと思い、謙吾に訊ねていた。
「私、ですけど……」
 若い女性――中原玲香は、躊躇いがちにそう返事をする。互いに初対面なのだから、彼女が朋恵を見て不信感を抱くのも無理はない。そういった意味では、家族を介することなく彼女と話が出来ることは、好都合と言える。
 朋恵は玲香と顔見知りではなく、まして謙吾が生きていた時に彼と知り合ったわけでもない。もし家族が出てきたら、何と自分のことを言って玲香を呼んでもらおうかと考えていた。恐らく、彼女に何の用だ、と訊かれるからである。
「突然すみません。私、嵯峨朋恵って言います。……嵯峨、謙吾さんのことでお話したいことがあるんですけど…。構いませんか…?」
 謙吾の名前を口に出した時、明らかに玲香は動揺した表情を見せた。
 まずここで拒まれたなら、彼女に想いを伝えてもらおうという今回のことは、なくなることになる。朋恵は彼女の言葉を必死の思いで待った。
 何と返ってくるのだろう。受け入れて、話を聞いてもらえるのだろうか、と。
「……それは、私に話すこと?私だから話すことなの?」
 そして待ち望んだ言葉は、まずそれだった。
「中原さんだから…、……中原さんに聞いてもらいたい話です。」
 その言葉の、彼女の真意は分からない。それを探る力は朋恵にはなく、今探るべきではないとも感じた。
 もしかしたら、話を聞いてくれるのかもしれない。寧ろその方が大切なのである。朋恵は素直に玲香に問われたことに答えた。
 そのような朋恵の真剣で、謙吾の気持ちを痛いほど分かっているからこそ引き下がれない想いが通じたのだろうか。玲香は自宅へ入るよう朋恵に勧めた。


「ごめんなさい、汚い部屋だけど座って」
「すみません、ありがとうございます」
 玲香は自分の部屋に朋恵を通し、部屋の中央にある小さなテーブルに紅茶の入ったティーカップを置いた。
 連絡もなしに来てしまったというのに、まして初対面であるにも拘らず、彼女は厭な顔1つせず受け入れてくれた。謙吾に、玲香がどんな人なのかは訊いていない。少なくとも、朋恵よりは歳上だろう。彼女の第1印象は、とにかく「綺麗」だった。
 ふんわりとウェーブのかかった栗色の髪、整った顔貌、すらりとした身長。
 外見で判断するものではないが、謙吾が好きになるのも分かるし、絶対敵わないと、そう思った。
「それで、あの……。謙吾くんのことってなに…?」
 朋恵と向き合うように座り、玲香は訊ねる。正直、話を切り出しにくかったため、玲香から訊ねてくれたことは、朋恵には有り難かった。
 鼻をくすぐる紅茶の香りで心を落ち着かせ、小さく深呼吸をしてからゆっくりと言葉を選んで話し始める。
「……これから話すことは、作り話じゃありません」
 謙吾と初めて会った時のこと。
 自分には霊感があり、幽霊の姿が見えること。
 つい先日も、謙吾と話をしたこと。
 ……謙吾が幽霊であること、そして彼女である玲香に会って話がしたいと思っていること。
「信じられないかもしれませんが……。嘘じゃないんです」
 そう言ったものの、幽霊だなんて信じることが出来るとは、朋恵自身思えない。見えているならまだしも、見えないものをどう信じろというのだろうか。
 今更ながら、自分がしようとしていることは、ただのお節介なのではないかと、そう思った。
 謙吾は玲香に会いたいと思っている。たとえ謙吾の声が彼女に届かなくとも、玲香の姿を見ることも声を聞くことも出来る。
 だが、玲香はどうだろう。
 霊感のようなものがなければ、謙吾の姿は見えず声も聞こえないのではないか? それ以前に、彼氏が亡くなったのだ。未だ1ヶ月ほどしか経っていないのだから、まだ気持ちの整理がついていないかもしれない。
 謙吾のことばかり考えて、玲香の気持ちが全く頭になかった。何が、彼女の立場なら謙吾に会いたいと思う、だ。彼女のことなんて、彼女の立場なんて何も考えていなかったじゃないか。
 謙吾が目の前で死んだ自分と、そんな自分にずっと声をかける玲香の姿を見たのと同じように、玲香は目の前で身体が冷たくなっていく謙吾を見て、触れていたのだ。
 それこそ玲香の立場なら、自分は立ち直ることが出来ただろうか。現実を受け入れることが出来ただろうか。謙吾の死だけでなく交通事故に遭ったという恐怖さえもある。
 ……最悪だ。話し終えてから、こんなにも後悔している。
 なんて子供染みた考えを謙吾に、そして玲香に押し付けてしまったのだろう。穴があったら入りたいとは、このことだ。
「……謙吾くん、私にも見えるの?」
「え……」
 殻に閉じ籠って自責していたため、朋恵は反応が遅れてしまい、思わず聞き返した。
「謙吾くんの姿は、私にも見えるの?声って聞こえる…?」
 玲香はそんな彼女を、自分の言い方が悪く意味が分からなかったと捉えたのか、もう1度言い直す。
 朋恵が聞き返した理由は間違っていたのだが、玲香の言葉を聞いていなかったのは事実であり、結果としては再度言ってくれたお蔭で彼女が何を訊ねたのかを知ることは出来た。
 自分から玲香を訪ねたというのに、話を聞いていなかったなど、それこそ頭が上がらない。ひとまず朋恵は必死に頭から後悔という文字を排除し、彼女の質問に答える。
「あ……、その、たぶん謙吾さんの姿は見えないと思います。声も……」
 自分でそう言いながら朋恵は、見えればいいのに…、と独り心の中で呟く。
 どうして謙吾の姿が見えるのは自分なのだろう。
 玲香が謙吾の姿を見ることが、声を聞くことが出来るならば、これ以上嬉しいことはない。それは謙吾だけでなく、介する必要がなくなる朋恵にとってもだ。
 今まで霊を見る力のことを、どうこう思ったことはなかった。それほど強い霊感を持っているわけではないので、この力によって困ることもさほどない。もっと強い力を欲することもない。
 そして今、初めて望んだ。この力を、他の人に分け与えることが出来たなら、と。
 しかしその一方で、玲香の想いは予想に反するものだった。
「会いたい」
 そう小さく呟かれた言葉に、朋恵は耳を疑った。
 今、なんて……。
「謙吾くんに会いたい。もし…、私が見えなくても、謙吾くんは私のこと見えるんだよね?間接的にでも話すること出来るんだよね?」
 たとえ幽霊であっても。見ることは出来なくとも、会う≠アとが出来るのなら……。彼女の、会いたいという切実な想いが伝わってくる。
 同時に朋恵は気が緩んだのか、視界が翳んでいく。涙が溢れてきたのだ。
「えっ…、ど、どうしたの?私、変なこと言った?言っちゃ駄目なこととかあった?」
 気遣ってくれる玲香に、朋恵は小さく頸を横に振って否定する。
 上手く言葉が出てこない。泣くつもりなんてなかったのに、出てくるのは嗚咽ばかりだ。
「ちが、…ぅんです。断られると思っていたから、嬉し、くて……」
 言葉ではそう言ったが、涙の理由はそれだけではなかった。
 謙吾が玲香に会いたいと望んでいたように、玲香も謙吾に会いたいと望んでいた。共に、強く。
 それが羨ましくもあり、哀しくもあったのだ。自分が入り込む余地はないのだと、まざまざと見せ付けられているようで。
 泣くという行為でしか、今の朋恵にはこれらの感情を抑えることが出来なかったのである。


 朋恵が落ち着いた頃、玲香から1つ頼みごとをされた。
 それは謙吾と会う時、彼がどこにいるのか、どのような表情なのかを教えてほしい、ということだった。
 声だけでも聞くことが出来るならば、その声のニュアンスなどで何となく表情などは分かるかもしれない。しかし、玲香に伝わるものは何もない。だから教えてほしいと頼んだのだ。
 そして朋恵は、それを承諾した。断る理由もないのだから、当然のことである。
 謙吾に好意を抱いている以上、介する立場は辛くないとは言い難いが、2人の力になりたいという気持ちも嘘ではない。
 初恋だというのにその相手が恋人のいる幽霊だなんて、障害が大き過ぎるじゃあないか……。
 そう思うことで、少しでも気持ちを和らげようとする朋恵なのであった。

 

 

 

 

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