玲香に会ってから、丁度1週間。
休日である今日、謙吾と玲香は間接的ではあるが、会うことになっている。
玲香と会った翌日、謙吾に彼女も会いたいと言っていたことを告げた。それを聞いてほっとする彼を見て、嬉しいような哀しいような。朋恵はとても複雑な気持ちでいっぱいだった。
それも当然だろう。謙吾のことが好きだと自覚してしまった以上、素直に喜ぶことなど難しい。
そしてもしかすれば、謙吾が玲香に言えずにいた想いを伝えた時、彼は消えてしまうかもしれない。本当にこの世からいなくなるかもしれない。そう考えると、苦しくて、哀しくて、寂しくて……。
今まで通り振舞うものの、心にぽっかり穴が開いてしまったような気がしていた。いなくなるかもしれないからこそ、この時間を大切にすれば良かったというのに、気付けば1週間は直ぐに過ぎてしまい、今日が来てしまったというわけである。
3人が会うことに決めた場所は、謙吾と朋恵が最初に話をした、あの公園。
玲香に都合の良い時間を聞いて決めた、14時に2人は彼女を待っていた。
だが、ここに先日までのような、他愛のない会話はない。どちらも話をなかなか切り出すことが出来ず、黙ったままだった。
朋恵はもう直ぐで謙吾と別れるかもしれないという思いから。謙吾はようやく玲香に会うことが出来る、その緊張感や不安感から、何を話したら良いのか分からなかったのである。
相手を気遣うまで、この時ばかりはお互いに頭が回らなかったとも言えるだろう。
「……朋恵さん、ですか」
息苦しいと感じるまでの空気が、少し軽くなる。玲香がやって来たのだ。
複雑な想いを抱きつつ、それを絶対顔には見せないことを心に決めて、朋恵は玲香に声をかけた。
「すみません、場所分かりにくかったですか?」
公園に備え付けられている時計は、14時15分を指している。
この公園は、玲香の自宅からは離れている。殆どの人からは姿が見えない謙吾のことはもちろんのこと、話をするならば人気のない所を選びたい。
しかし1週間前、あの時点で彼女の家の付近にそのような場所があるかどうかなど、一切分からなかった。どうしても他に良い場所が思い付かなかったため、玲香には申し訳なかったが、この公園に来てもらうよう頼んだのである。
「あ、違うの。こっちに来たことあるから、場所は直ぐに分かったんだけど……」
玲香は、少し俯いてこう呟いた。
「……心の準備っていうか、その……。謙吾くんにもう1度会えるかもしれないって思うと、何話そうとか、どんな顔すればいいんだろうとか、とにかく何か緊張しちゃって……」
待たせてごめんなさい……。
小さく縮こまるように謝る玲香。どうやら、緊張していたのは朋恵と謙吾だけではなかったようだ。
これは玲香が会いたいと言っている、と謙吾に伝えた時のことだ。会えると分かった途端、酷く緊張してきた、と彼は話した。
正直玲香と会えるだなんて思っていなかったため、彼女からは見えないのだが、どんな顔で会えばいいのだろうだとか、とにかくどうすれば良いのか分からない、と。
2人は、同じ気持ちだったのである。
このまま立って話するわけにもいかないので、朋恵は備え付けてあるベンチに座ろうと促した。それに連れるように、謙吾も玲香と向かい合うように場所を移動する。
すると懐かしそうに、そしていとおしそうに玲香を見る彼が視界に入ってしまい、朋恵は胸がズキンと痛む思いがした。
分かっていたことだけれど、実際に目にしてしまうと、やはり辛い。この世での未練となるほどまでの、大切な存在である玲香に敵うはずがないのだ。
そして同時に、自分から言い出したのに、この場を離れたいと思っている自分が、酷く厭になる。何て自分は未熟なのだろうと、何度も何度も自責した。こんな弱い自分は嫌いだ。
『……玲、香』
謙吾が彼女に向けて、小さく声をかける。しかし、玲香にその声は届いていないのか、全く反応はない。
やはり無理なのだろうか。玲香に、謙吾の姿を、声を聞かせてあげることは出来ないのだろうか。
声が届かないことを恐れ、今まで謙吾は会いに行こうとしなかった。もしかしたら、と心のどこかで期待していた謙吾。つい先程までとは違い、苦しそうな表情の彼に朋恵は声をかけることが出来ず、逃げるように玲香に話しかける。
「中原さん、私が謙吾さんの言葉を代弁して言う。それでいいんですよね?」
「……うん。謙吾くんのこと見えないし、声聞こえないんだもの。仕方ないよね……」
そう言うと、玲香は隣に座る朋恵の手を、軽く握った。
「ごめんね。何となく……。話が終わるまで、握らせていてほしいの」
触れることで分かる、微かに震えている彼女の手。少しでもその不安感が和らぐならば、と朋恵は快く承諾した。
「……謙吾くん、久しぶり。ごめんね、私は謙吾くんのこと見えないけど……。謙吾くんは私のこと見えてるんだよね。だから許して、…ね」
彼女の視線は今、空を向いている。少し顔を上げるような形で、その視線の先に謙吾がいると信じて。
実際、彼女の視線の先には、謙吾が胡坐を掻いて宙に浮かんでいる。地に足を付けて立った時と、ほぼ同じ高さの所で。
謙吾が玲香の視線に合わせたわけではない。偶然に、……いや、偶然ではないのかもしれない。玲香は謙吾の身長を考えて、もしかしたら自然と、彼が立った時の目線に合わせているのではないだろうか。もし目の前に彼が立っていたとしたら。こうして自分が座り、彼が立っていたとしたら、きっとこの視線の先に彼はいるはずだ、と。
『俺の方こそごめん……。玲香を酷い目に合わせちまったし、幾ら謝っても謝り切れない……』
絞り出された声が、何だか痛々しい。しかしこれから逃げるわけにはいかない。玲香には、謙吾のこの声は届いていないのだ。朋恵が中継ぎとなって伝えなければならな―――
「そんなことない!別に謙吾くんのせいじゃないのに……。そんな、独りで抱え込まないでよ……!」
え……?
思わず腑抜けた声が出る。声の主は、朋恵と謙吾である。
玲香は今、はっきりと謙吾に向けて言った。どういうことなのだろう、最初に謙吾が彼女の名を呼んだ時、その声は聞こえてはいなかった。しかし、先程の声は聞こえていたようだ。何せ彼に向かって言ったのだから。
何が何だか分からない朋恵は、思い切って玲香に訊いてみる。
「な、中原さん、謙吾さんの声聞こえたんですか…?」
「え?……あれ?聞こ、えた……」
やはり彼の声は、玲香に届いていた。ならば、彼女の名を謙吾が呼んだ時に聞こえていなかった、という解釈が間違っていたのだろうか。
声が届けば良いのにと思っていたものの、実際は無理な望みだろうと諦めていた。そのため思わぬ展開に朋恵は、どうすれば良いのか分からず軽いパニック状態に陥ってしまい、咄嗟に視線で謙吾に助けを求めた。
彼も少し動揺の色が隠せない様子だったが、何か考えが思い付いたようで朋恵に笑みを向ける。
『……玲香、俺の声聞こえてるよな』
「う、うん。聞こえるよ。姿は見えないけど…」
会話が成立しているということは、玲香が謙吾の声が聞こえていることに間違いはなさそうだ。
『朋恵ちゃんの手、ちょっと放してみて』
「え、こう…?」
謙吾の言葉に従うように、握っていた手を放す。
彼は、一体何をしようとしているのだろう。
『今、俺の声聞こえる?』
そして玲香に向かってそう言う。しかし先程とは違い、彼女に反応はない。聞こえていない、ということなのだろうか。
自分が介入しなければ話が進みそうにないと判断し、朋恵は口を挿むことにした。
「今、謙吾さんが喋ったのは聞こえました…?」
「え、ううん。何も聞こえないけど」
その言葉に謎が解けたのか、少し残念そうな表情をしつつ、再び朋恵に笑みを向ける謙吾。
何故そのような表情をするのだろうか。彼は嬉しいのか、それとも哀しいと感じているのかが分からない。
玲香が聞こえていない今、彼女を蚊帳の外に置いて真意を訊ねるわけにもいかないだろう。
もし幽霊と所謂テレパシーのようなことが出来れば、霊感にそのような類のものがあれば良いのに、と思ってしまう。そうすれば今のような状況だけでなく、かつて朋恵と謙吾が初めて会った時のように人通りの多い場であっても、周りの目を気にすることなく話が出来るというのに。
こんなところで欲を言っても仕方ないのだが。今は、彼の表情をどうにかして読み取るしか方法はない。
『朋恵ちゃん、玲香の手をもう1度握って。たぶん今度は聞こえると思うから』
だがそれを聞くことで、朋恵はようやく謙吾の言っていることを理解することが出来た。残念そうな顔をしたのは、恐らく玲香自身に霊感があるわけではないと分かったからだろう。やはり自分の声は彼女には届かないのだ、と。
『玲香』
「え、あ…、なに?」
朋恵が玲香の手を握った後、謙吾が彼女の名を呼ぶと、今度は聞こえたようで返事をする。
つまり、霊感のある朋恵の手を握る、若しくは触れることによってその力が玲香に流れ込み、結果霊である謙吾の声が聞こえるようになったのだろう。
そんなことが実際にあるのかどうかは分からない。だが朋恵の手を握ることで謙吾の声が聞こえるのは事実だ。口頭で朋恵を介することなく2人はお互いの声を聞き、話すことが出来るのだから、何故、どうして、という疑問はこの際気にする必要はない。
当人の2人はもちろん、介する立場にいた朋恵も少し気が楽になる思いだった。
そして改めて朋恵の手を握り返し、玲香は小さく深呼吸して顔を前に向き直す。
「……じゃあ改めて。謙吾くん、久しぶり」
『あぁ……。1ヶ月ぶり、くらいかな。ありがとう、来てくれて。正直信じてもらえないって思ってた。幽霊なんて、さ』
「最初はやっぱり信じられなかったけど……。せっかく謙吾くんに会えるかもしれないのに、その可能性自分から潰すなんて、出来ないじゃない?」
この公園に来た頃に比べて、話をする玲香の表情が和らいでいる。やはり彼女自身が言っていたように、最初は幽霊という非現実的なこと、謙吾に会えるかもしれないということで、緊張していたのだろう。
一方で少し表情が強張っていたのは、朋恵である。
本当は、謙吾や玲香から顔を背けたかったし、話を聞かないように耳も塞ぎたかった。それは謙吾が死んでしまったとはいえ、恋人同士の2人の話を聞きたいとはもちろん思えないからだ。また恋人同士だからこそ、第3者である自分が聞くべきではない、という気持ちもある。
だかしかし、朋恵が介入しなければ謙吾の声は聞こえず、玲香からも彼がどんな表情をしているのか教えてほしい、と頼まれた。それを約束し力になりたいと彼女に言った以上、拒否するわけにはいかない。
尤も、予想外として玲香は謙吾の声が聞こえている。彼女自身、声が聞こえれば何となく表情は感じ取れると言っていたので、邪魔をしてはいけないということも踏まえ、朋恵は極力口を挟まぬように2人が話す様子を見ていた。
それから、どれほど経っただろう。軽く握られているだけとはいえ、正直腕が少し重くなってきた。もちろん、そんなことを口に出せるはずもなく、顔にも出せない。
気休めでしかならないだろうが、朋恵は気付かれないように小さく溜息を吐く。
『……ごめん、喋り過ぎた』
つと、謙吾がそう言った。
『朋恵ちゃんに申し訳ないよな、せっかくこうして話せる機会作ってくれたのに、長い間待たせちまって』
思いがけない言葉に、さすがに驚きを隠せない。
まさか先程の溜息を聞かれてしまったのだろうか。それとも顔に出すという失態を晒してしまっていたのだろうか。
何て恥ずかしいことをしてしまったのだ。顔から火が出るのではないかと思うほど沸き上がる熱さに、朋恵は大きく頸を振る。
「そ、そんな…!私のことなんて、気にしないで下さい!」
「私もごめんなさい。つい嬉しくて、朋恵さんのこと何も考えてなかった。手、…辛いよね?」
玲香も朋恵と視線を合わせ、申し訳なさそうに謝った。
申し訳ないのは寧ろこちらだというのに。結局2人に気を遣わせてしまうことになってしまった。やはりまだまだ半人前であることを思い知らされ、そんな自分に腹が立つ。
今回のことを謙吾に持ちかけてからというもの、自分の未熟さを痛感していることが多い気がする。
『俺らの話に付き合わせてごめんな、それからありがとう。1番伝えたかったこと、ちゃんと言うよ』
本当に、何て目聡い人なのだろう、彼は。
朋恵は泣きたい気持ちをぐっと抑え、顔を上げる。ここで2人の言葉に甘えるわけにはいかない。それこそ彼らに面目が立たないのだから。
この時ほど彼の性格を恨んだことはないと、朋恵は思った。
そして、改めて謙吾が玲香と向かい合い、地に足を付けた。彼の緊張した雰囲気がこちらにまで伝わってくる。玲香も姿は見えないが、その空気を感じ取ったのかもしれない。口を閉ざし、彼の言葉を待っていた。
『……玲香。何も言わずに死んじまって、ごめん。でも、玲香と一緒にいた時間はすごく楽しかった。この気持ちに嘘はないから』
玲香の、朋恵の手を握る力が強くなる。
「私も……、すごく楽しかった。謙吾くんと一緒にいられたこと、後悔なんかしてないよ」
嗚咽を漏らしながら、必死で言葉を紡ぐ。
朋恵はその姿が、謙吾に自分の姿を目に焼き付けてほしいと、忘れないでほしいと訴えかけているようにも見えた。
「ずっとずっと、好きだから。ずっと……!」
『ありがとう、玲香。玲香に会えたこと、絶対に忘れない』
謙吾の身体が、少しずつ透けてゆく。
つま先から粒子となって、脚が、手が、胴が、ゆっくりと消えてゆく。
その様を目で追っていた時、朋恵は彼が微笑んでいるのを見た。それは優しく、玲香を見守るかのような笑み――。
「朋恵さん、本当にありがとう」
謙吾の姿が見えなくなったことを告げて、暫く経った後。先に口を開いたのは、玲香だった。
「話を聞いた時、正直信じられなかったし、謙吾くんに会おうかずっと迷ってた。何となく、恐くて……」
少し暗くなる表情。彼女の頭の中では今、様々なことが駆け巡っているのかもしれない。
事故のこと、謙吾が死んだこと、それからの1ヶ月間のこと、朋恵が話を持ちかけたこと。そして、この1週間悩んでいたこと。
これは謙吾には話していなかったのだが、昨日玲香から電話がかかってきていた。
彼女に会いに行った時、念のために朋恵は自分の携帯電話の番号を教えていたのである。そしてそれから何も連絡がなかったため一安心していた昨日、夜遅くにかかってきた。
私、謙吾くんに会ってもいいのかな――、と。
今日彼女が言っていたような、緊張した素振りは全くなかった。ただ、自分は謙吾の姿を見ることも声を聞くことも出来ないのに、彼に会っても構わないのだろうか。彼はそれで満足出来るのだろうか。そう訊ねてきたのである。
1週間ずっとそのことについて悩み、とうとう明日に迫ってしまった。不安を抱えたままでは会えないと、思い切って朋恵に電話をかけることにしたのだという。
尤も玲香自身、この不安な気持ちを誰かに打ち明けたかっただけかもしれないとも言っていた。
「でも、良い区切りになったと思うの。謙吾くんに会って、話をして……。これからもっと前向きに生きて行けそうな気がする」
だから、本当にありがとう。
玲香は涙を零しながらそう言う。
泣き顔というものは、実際は綺麗なものではない。涙を流し、ぐしゃぐしゃになる顔。可憐だった声は低い鼻声へと変わる。
だが、今の玲香は良い顔をしていると思った。表面的なものは確かに、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかし、とても幸せそうな瞳、微笑む表情、涙のために微かに赤く染まった頬と鼻。
それら全てが、彼女をより「らしく」魅せていたのである。
昨日の電話口で見えて≠「た彼女とは、今ではその表情が全く違う。
こんな風に微笑うことの出来る彼女が、心底羨ましいと感じた。
小さな窓から入り込む西日が、眩しい。思わず朋恵は、眉間に皺を寄せながら目を細める。
尤も、それは恐らく西日だけのせいではないだろう。
自宅に帰った朋恵は自室のベッドに寝転び、先程のことを思い出していた。
謙吾の嬉しそうな表情。彼の彼女であった玲香の、寂しそうで、それでいてどこか幸せそうな瞳から零れる涙。そして、笑みを浮かべて消えてゆく、謙吾の身体……。
ただただ、それだけが朋恵の頭の中で繰り返される。
玲香の、「ありがとう」という言葉を聞いた時、自分の選択は間違ってはいなかったと確信した。謙吾も玲香も、とても幸せそうな表情だったのだから。
ただ、謙吾が消えてしまう前にもう1度話をしたかった、というのは我儘だろうか。
彼が好きであると、気付いてしまったからこそ芽生えた、悔しさという想い。
たとえもう1度話が出来たとしても、好きだ、とは言えないだろう。彼に迷惑になることはしたくない。しかし、せめて出会うことが出来た喜び。それだけでも伝えたかった。
明日から、以前の生活に戻る。謙吾と出会う前の、生活に。
学校に行くことが当たり前だと感じているように、この1ヶ月で彼と一緒にいることもごく当たり前のことになっていた。それが突然なくなることで、以前の生活に戻ることになるのだろうか。いや、寧ろ戻れない。謙吾と出会ってからのこの1ヶ月が空白になるわけではないのだから。
朋恵の中にだけ生き続ける、思い出。
『辛気臭い顔して、どうかした?』
この気持ちを伝えたい。しかし、その伝えたい相手である謙吾は、もうこの世にはいない。
想いを独り胸の中に抱え、過ごしていくことになる。恐らくいつまでも忘れられることはなく、伝えられなかったことを後悔し続けるのだろう。たとえこの先、好きな人が出来たとしても、ずっと……。
……………ん?
今、何か聞こえなかっただろうか。
ただの空耳…?
気のせいだと思いながら視線を南の窓に向ける。
「……け、謙吾さん…!?」
朋恵は文字通り飛び起きた。空耳ではなかったのだ。今、目の前に謙吾が立って――正しくは浮かんで――いる。
ちなみに飛び起きたのは、驚いたからだけではなく、寝転んでいたため恥ずかしいと思ったからでもあったりする。さすがに、彼もそこまでは分からなかっただろうが。
『勝手に部屋入ってごめんな。でも窓叩こうと思っても、擦り抜けちまうし』
謙吾はそう言いながら、窓に手を伸ばし、この手が擦り抜ける様を見せた。確かに、触れることが出来ないのならば、窓を叩いて音を出すことも出来ない。朋恵に存在を気付いてもらおうと思うならば、声を発するしかないだろう。
まるで悪戯が見つかったような、はにかんだ表情をする謙吾。そんな彼とは違い、朋恵は驚くばかりだ。どうしてここにいるのだ、と。
あの時彼の身体は消えてしまったはずだ。あれは成仏を意味するものだとばかり思っていた。そうではなかったのか?
……それ以前に、謙吾の彼女である玲香に気持ちを伝えれば、この世での未練がなくなり成仏出来るのだと思っていた。しかし今、目の前にいる。つまり謙吾が幽霊としてこの世にいる理由は、玲香のことではなかった…?
思ってもいなかったことに、朋恵は頭がパニックになりそうだ。
そんな彼女の心理に気付いたのか、謙吾は頭を掻きながら照れ臭そうにこう言った。
『朋恵ちゃんに、お礼言いたくて、さ』
彼の話では、身体が消えたあの時、彼自身もこれで自分は成仏出来るのか、と思ったそうだ。玲香に会え、気持ちを伝えられたことの嬉しさ。これでもう思い残すことはない、と。
しかし、ふと気付いた。玲香と話が出来たのは、朋恵が介してくれたからだ。最後にせめてひと言だけでも、彼女にお礼を言いたかった、いや言うべきだった。
何も言わなかったなんて、自分は莫迦なことをしてしまったなぁ……。
身体が完全に消える直前、謙吾はそう思った。
そして、閉じていた目を次に開けた時。そこは天国でもなく地獄でもなく。休日のせいか相変わらず人通りの多い、歩道のど真ん中であった。
始めこそ理由が分からなかったが、ふと思い起こせば身体が消える直前、願ったことがあった。朋恵にお礼を言いたいと。もしかしたら、それを願ったからまだこの世にいるのかもしれない。たとえそうでなかったとしても、せっかくのこの機会、無駄にすることはない。
そういう結論に辿り着いた時、自然と朋恵の家へ向かっていた。
『本当にありがとう。もし…、朋恵ちゃんに会えなかったら、ずっと独りだったろうし、玲香にも謝れなかった。それに1ヶ月くらいだけだったけどさ、色んな話出来て楽しかった』
彼は今、ここにいる。
玲香ではなく、朋恵に会いたいと、そう思って。
「そ、そんな……。そう言ってもらえたら、私……」
抑えようにも、もう感情は涙と共に溢れ出すばかりだ。
謙吾が自分のために、ここに来てくれた。そして、ありがとう、と。ただそれだけで、それだけで嬉しい。
『朋恵ちゃんに会えて、本当に良かった』
そう言うと、謙吾の身体はあの時のように少しずつ透けていく。それは彼が消えることを意味する。
もう、これで本当に謙吾に会えないかもしれない。声を聞くことも姿を見ることも、2度と出来ない。
……このまま、何も言わず別れるなんて厭だ―――。
「……あ、あの」
朋恵は、服の袖で涙を拭く。セーターに涙の染みが出来てしまうと思ったが、この際気にしなかった。机上のハンドタオルを取る余裕なんてない。
最後にもう1度勇気を出そう。謙吾に逃げちゃ駄目だ、と言ったのは自分。今度は、私の番。
また少し、変われる気がするから……。
顔を上げ、消えてゆく謙吾に視線を合わす。形として残すことの出来ない思い出。この目に、しっかりと焼き付けたい。
この1ヶ月は決して無駄な時間ではなかったと、記憶に刻み付けたい。
「私……、謙吾さんのこと、好き…でした。私も謙吾さんに会えて、本当によかったって、思ってます……」
涙を堪え、素直な気持ちを飾らずに伝える。
すると、完全に身体が消えてしまう直前に、彼はもう1度笑みを向けてくれた。
『あり…、がとう……――――』
この言葉を忘れない。
この笑顔を忘れない。
手に触れることは出来なかったけれど、
とても温かかった、彼の言葉と笑みは絶対に忘れない―――。
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2005.5.29
季節違っててすみません(苦笑) 書き始めというかネタが出来たのが、どうやら冬真っ最中だったようで。 書き終わってみれば、もう梅雨間近……。 初恋なんて10年も前の話ですよ。 もっと地味な、気付けば自然消滅していたような恋心でした;
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