大学4年の今は就職活動の真っ最中だ。ただ、今年度に受けなければならない講義もほんの僅かだがあるため、結局昨年度と大学に行く日数はあまり変わらないように思う。
 今日もその僅かな講義のうちの1つを受けるために、大学に来ている。
 はっきり言って、これから始まる講義はあまり面白くない。それは講義を選択する時点で分かっていたことだが、必須科目となっているため拒否することは出来ないし、先生の話を聞いていないと殆ど理解出来ないような講義なのだ。
 そのうえ午後、しかも夕方といえるような時間から始まるため、やる気は一気にダウンしてしまう。必須科目というのならば、出来れば午前中にしてもらいたかった。
 くぁ…、と生欠伸を噛み殺す。
 駄目だ、講義が始まる前だというのに、既に眠気が襲ってきている。このままだと、本当に寝てしまいそうだ。
 どうにかしてこの眠気を吹き飛ばさなければ…、そう思っていた時。ズボンのポケットに入れていた携帯電話が振動し、俺は声こそ上げなかったものの、驚きでビクッと身体を震わせた。
 マナーモードにしていたのだが、頭が完全には働いていない時だったために不意打ちのように感じたのだ。
 振動がまだ切れない、ということはメールではなく電話がかかってきてるのだろう。ポケットから携帯を出し、ディスプレイを見る。
 そこに表示されていたのは、『麻里亜』の文字。
『おにいちゃん、今どこっ!?』
 講義室から出ながら通話ボタンを押すと同時に聞こえてきた、怒鳴るような声に思わず携帯を耳から離した。
 相手が麻里亜であることには間違いないようだが、さすがに今と同じボリュームで喋られては耳が痛いし、周りに聞こえてしまうかもしれない。そう思って、運良く今は使われていない隣の講義室に入り、壁に背を預けて再び耳に携帯を当てた。
「どこって、今日は大学行ってくるって朝言っただろ? どうかしたのか?」
『あ、あの、……ぁ、その……』
 またもや声を張り上げるかと思った麻里亜の喋り方は、普段のそれを通り越して明らかに違っていた。
 何と言えばいいのか、迷い言葉を選んでいるような感じだ。だが一方で、ただ単に走っていたか何かで息切れをしているだけのようにも感じる。とにかく、落ち着いていないのは間違いないと思う。
 出来たら、宥めてゆっくりと話を聞いてやりたい。わざわざ電話をかけてきているという時点で、俺に何か言いたいのは明らかなのだから。
 しかしあと10分もすれば講義が始まってしまう。先生が来てしまえば途中からは入りにくいし、何より出席を取ってもらえなければ、講義に出る意味が半減するのだ(これはあくまで個人的な意見だが)。
 そういうわけで、「今言うところなんだから、急かさないで!」などと怒られるのを覚悟で、麻里亜の言葉を待つのではなく自分から訊くことにした。
「ちゃんと聞くから早く言ってくれ、もう直ぐ講義が始まるんだ。――あ、もしかして奈緒も今一緒なのか?」
 今日は奈緒と一緒に帰ると、麻里亜が今朝言っていたのを思い出した。この時間なら、もう帰宅途中かもしれない。
 奈緒と麻里亜は、別の高校に通っている。だが高校の最寄り駅は1駅しか離れておらず、一緒に帰路につくことも少なくはない。
 自宅が近所なのだから、わざわざ時間を合わせて一緒に帰る必要もないだろうと思うのだが、本人たちの話によると、学校帰りにどこかへ寄り道することに意味があるらしい。
『ぁ、…のね、今日、奈緒と一緒に帰っててね』
 果たして一緒に帰っていたようだ。麻里亜の言い方から考えると、もう家に帰っているのかもしれない。
 ならば尚更、慌てて電話してくることなど、一体何が―――。
『な、奈緒、車に撥ねられて、……』
「ぇ―――?」
 今、麻里亜は何と言った? 車に、撥ねられた―――?
『血がいっぱい出てて、全然、目、覚まさなくて、――あ、それで今、病院にいて、手術してるみたいで』
 途切れ途切れの言葉を聞き漏らさないように、と気を付けて耳を傾けていたにも拘らず、全てを上手く聞き取り理解することは出来なかった。しかしそれはきっと、聞き取れなかったわけではなく、耳には入っているものの抜けていってしまっている、と言う方が合っているのだろう。
『奈緒の家にかけたけど誰も出ないし、でも、おばさんたちの携帯番号なんて分かんないし……』
 もうその声は、涙声だった。しゃくり上げるような声に、胸が痛くなる。
『ね、ねぇ、お兄ちゃん、どうしよう! あたし、どうしたら――!』
「お、落ち着け、麻里亜!」
 電話の向こうで、麻里亜が息を詰めたのが分かった。
 落ち着け、だなんて、半分自分自身に言ったようなものだ。頭がこんがらがって上手く機能していない自分を叱咤して、良い意味で頭を真っ白にさせる。
 今、自分がしなければならないことは何だ。よく考えろ。
 ……そもそも、麻里亜が俺に電話をかけてきたのは、奈緒の家に電話が繋がらなかったから。つまり俺より先に、奈緒の親父さんたちに連絡しようとしていた、ということ。
「―――今、奈緒の鞄はどこだ?」
『え? ――あ、あたしが持ってる』
「その中に携帯入ってるか?」
『さ…探してみる…、ちょっと待って。―――あ、あったよ!』
 それを聞いた俺は、その携帯から奈緒の親父さんとお袋さんに電話をしろと言った。
 彼女の携帯からかければ、もし繋がらなかったとしても、直ぐにリダイヤルしてくれる可能性が高い。上手く言うことを伝えられそうにないのなら、紙か何かに必要なことを書けばいい、とも付け足す。
 だがそれに対し麻里亜は、何を書けばいいのか分からないと言った。どうやら思っている以上に動揺して、いつもは厭になるほど回転の速い頭は殆ど回っていないようだ。
 それなら俺が必要なことを言うから何かに書けと促すと、どこか上の空のような返事の後、今ノートを出すから待ってくれと言い、携帯をどこかに置いたような音が耳に入った。話した通り、学校の鞄からノートと筆記具を取り出すつもりなのだろう。
 その間に俺は、大きく深呼吸した。
 心臓のドクドクという音があまりに大きくて、周りの音があまり聞こえない。それを抑え、麻里亜を少しでも落ち着かせるために、上手く機能していない思考をフル回転して、これから言うべきことを考える。
 電話をかけるなら、親父さんの方が良いかもしれない。あくまで俺の付き合いの限りだが、ほんわかとして可愛らしいという言葉が似合うお袋さんは、ハプニングのような予想外や思いがけないといったことにあまり強くなかった気がするからだ。
 もし電話に出たら、まず自分の名前を言うことも念のために言っておこう。
 それから、奈緒が事故に遭ったということ。俺の耳が正しければ、今は手術中で、病院に来てほしいということ。自分が今どこにいるのか――どの病院にいるのか、俺も後で聞いておこう――も伝える必要がある。
『―――ちゃ――、に――』
 ……どこの病院にいるのだろう。
 そもあまり病院に世話になることがないため、名前を言われても場所まで分からないかもしれない。麻里亜を迎えに行ってはやりたいし、場所によっては親父たちに相談し―――
『―――お兄ちゃん?』
「ぇ―――、ぁ、ごめん」
 俺はつい先程考え出したことを復唱するように、麻里亜がノートに書き写すことが出来るように、ゆっくりと話し始める。幾分か落ち着いたのか、俺が言うことに対する頷きの返事はしっかりとしたものだった。
 一通り考えたことを話し終えると、麻里亜は「……分かった、じゃあまずおじさんに電話してみる」と応える。それを聞いて、ひとまず俺に電話をかけてきた時よりは冷静さを取り戻したと感じたものの、気になることが1つあった。
「―――麻里亜」
 声のトーンを落として、声をかける。
「お前は大丈夫なのか…?」
 奈緒のことばかり言っていて、麻里亜自身のことは何も話さない。こうして電話をかけてきている以上、その動作をすることに対して不自由はなさそうだが、奈緒と一緒に帰っていたことには変わりないのだ。
 もしかすれば、精神的だけでなく身体的にも辛い状態かもしれない。なら、奈緒のことを親父さんたちに伝えるのを、麻里亜のやるべきこと≠ノするわけにもいかないだろう。
『……うん、大丈夫。ちょっと擦ったくらいだから、何ともないよ』
 そして返ってきた言葉に安堵するが、無理に明るい声を作っているのは分かった。しかしそのことにはあえて触れずに、無理だけはしないよう言う。
 病院名を訊くとどうやら俺の知っている病院のようで、幸いにもそこは大学までの通学途中に位置していた。
 俺は麻里亜に、講義が終わったら迎えに行くから病院で待っているよう伝える。麻里亜のこともそうだが、奈緒の状態を自分の目で確かめなければ、気になる……いや、寧ろ怖くて仕方がない。
 それに対し諾と応えた麻里亜は、今から親父さんに連絡してみる、と電話を切った。通話が終わってもツー、ツー、という固定電話特有の音のしない携帯を、耳から離す。
「―――は、ぁ―――――」
 壁に背を付けたまま、ずるずると腰を下ろしていく。完全に床に座り込んだ状態で俯き、大きな息を吐いた。
 携帯が手から落ちて音を立てた気がするが、それを確認する気も起きない。
 俺自身、突然のことで上手く頭が働いていない状態だった。麻里亜には、自分の中で必要だと思うことを言ったつもりだが、何か抜けていたり、場違いなことはなかっただろうか。
 ――実際、何を言ったのか思い出そうにも、気が抜けてしまっている今の頭の状態では殆ど無謀に近いのだが。
 背を預けている壁を隔てた向こうで、これから始まる講義を受ける同じ学科の学生が、講義室へと入りながら談笑している。どうやらその中に、その講義担当の先生の声も混じっているようだ。
 向こう側では、つい先程まで俺がいた現実≠ェある。
 ……そう、今の俺がいる所は、現実だけど俺がそうだと受け入れられない現実=Bこれから前者の現実≠ノ一旦戻り、講義が終わると同時に後者の現実≠ヨと向かわなければならないのだろう。
 そんな簡単に切り替えることが出来るとは思えない。でも、切り替えなければならない。
 大丈夫だ、一緒にいた麻里亜は軽く擦っただけみたいだし、手術をしているということは、治る見込みがあるから。きっと俺や――親父さんやお袋さんが病院に行った時は、奈緒も目を覚まして、何でもなかったように笑ってくれるはずだ。
 だって昨日も、俺の部屋で3人で話をしてた。こんな、こんな簡単に日常が崩れるわけがない。大丈夫、大丈夫だから……。
 唇を強く噛み締め、俺は無機質で冷たい天井を仰いだ。







「失外套症候群、……つまり簡単に言えば、植物状態の可能性があると思われます」
 俺は見たことも聞いたこともない医師の姿と声を、奈緒の親父さんの口を通して思い描いていた。
 麻里亜から電話がかかり、奈緒が事故に遭ったと聞かされた翌日。俺は学校帰りの麻里亜を車に乗せて、2人で奈緒の入院する病院へ訪れた。
 昨日麻里亜を迎えに行った時には、既に奈緒の手術は終わっており、親父さんとお袋さんもやって来ていた。脚や腰の骨を折るなど重傷ではあったものの、命に別状はないということで、俺たち4人は一安心だった。
 手術を終えたらしい奈緒は穏やかに眠っていて、その顔を見て込み上げてきたものがあったのだが、さすがに恥ずかしく歯を食い縛って堪えたなどは、奈緒が目覚めた時にでも打ち明けようと思った笑い話。
 ひとまず状態は安定していると分かった俺と麻里亜は、明日の夕方にまた来ると、反応を返さない奈緒に声をかけ病院を後にした。
 そして今日、もう目は覚めているだろうかと、昨日に比べ幾らか明るい気持ちで病室を訪れると、そこには未だベッドに身体を預けたままの奈緒と、奈緒の親父さんとお袋さんの姿。
 ただ、扉を開けた瞬間、俺は何故か張り詰めたような、それでいて儚い空気を感じ取っていた―――。

 親父さんの話では、今朝早くに奈緒は目を覚ましたらしい。
 意識が戻るまで時間がかかるかもしれないと聞かされていたようで、2人は泣きそうになりながらも奈緒に声をかけた。
『……か、母さん、奈緒が…!』
『な、奈緒! お母さんのこと、分かる!?』
 ……だが、反応はなかった。
『な、お…?』
 開いた瞼から覗く眼と視線が交わることはなく、声を発することもない。
 呼吸はしている、眼も動いている。ただ、親父さんたちの姿も声も、視界に入っていないような、そこには存在していないというような様だった。
『うそ、何で…? 返事して、奈緒』
『見えて、ない、…のか?』
『奈緒っ、ねぇ奈緒…!』
 親父さんたちは、奈緒の目が覚めたら教えてほしいと担当医に言われていたのだが、そのようなことは頭から抜けており、「目が覚めたが様子がおかしい」と言う目的で報せた。
 そして検査をした結果、先程の病名を担当医に告げられた、ということである。
「植物、状態…? それって、その、テレビとかでもやってる…?」
「――…あぁ。ただ、よく聞いたり、今までイメージしてたのとはちょっと違うらしいんだ。寝て・起きてっていう睡眠リズムみたいなのはちゃんとあるし、……起きてる時は、動かないし喋りもしないけど、眼が動いたりすることはあるって言われたよ」
 俺の問いに親父さんは、どこか淡々とした声で応えてくれる。
 促されて見た奈緒は、確かに規則正しく息をしていて、誰とも視線が合わないものの眼は動いていた。
「でも眼が動いてるのも、たぶんこっちのことは見えてないだろうって」
 奈緒はちゃんと生きている。機械などに繋がれることなく、自分で呼吸している。でも、俺たちの声や姿に反応はしてくれず、身体≠ヘ全く動いてはいなかった。
 姿だけ見れば、ただベッドから起き上がれないだけの、いつもの奈緒なのに、どこかが違うと頭が言う。ソレ(・・)は俺の知っている奈緒ではないと、別のモノ(・・)だと、誰かが頭の中で叫ぶ。
 そんな煩い声に少し吐き気がして、脚がふらつきそうになった時だった。
「……ごめんなさい」
 重い空気を破るように、麻里亜が声を漏らした。
「ご、めなさ……、あた、し、一緒に、いた……な、に…!」
「――…麻里ちゃんのせいじゃないから。……だから、自分のこと責めないで。ね…?」
 もう抑えが利かないのか、堰を切ったように泣きじゃくり、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返す。
 そんな麻里亜を、お袋さんは包み込むようにして抱き締め、髪を撫でながら宥めていた。


 幾分か麻里亜が落ち着いた頃、当分のうちはこうして入院したままになるだろうとのことなので、ひとまず俺たちは家に帰ることにした。
 また時間があれば奈緒の顔を覗きに来てやってほしい、と言う親父さんたちに精一杯の笑みと返事を向け、落ち着いたとはいえ体調を崩した時よりも衰弱したような麻里亜を連れて、病室を後にする。
 正直なところ、これから数日は麻里亜を連れて来ることは無理かもしれないと、この時思った。
 共働きの俺の両親には、奈緒の親父さんたちは構わないと言っていたので、夕食後に奈緒のことを話した。
 話したといっても、事故に遭ったことは昨日言っていたので、今日教えてもらった奈緒の様子や今後のこと、俺が見た奈緒の様子など、さほど詳しいものでもない。
 それでもやはり非現実的なことに、両親は勿論、話している俺自身酷い顔で、重く沈んだ雰囲気を纏わずにはいられなかった。
 そのような空気に耐えられないと思ったのか、夕食後早々に部屋に閉じ籠っていた麻里亜が、俺の部屋にやって来たのは日付が変わる少し前のことだった。
 ベッドに腰掛けたものの、一切喋らないため、俺もその横に同じように腰掛ける。
 そうして暫く経った頃、漸く開いた口が紡ぎ出した言葉は、自分自身を責めるようなものだった。
「あたし……、奈緒と一緒にいたのに、あたしだけ助かって…。それにもっとあたしが早く救急車呼んだりとか、前にそういう時どうしたらいいかって学校で習ったばっかりだったのに、全然駄目で、何であの時もっとちゃんとしてたら、奈緒もっと元気なのに……」
「麻里亜……」
 どこか支離滅裂な言葉に、それだけ麻里亜が動揺し、こんがらがっているのが分かる。
 それには特に気にかけることはせず、今はとにかく言いたいことを吐き出させた方が良いのだろうと、ひたすら耳を傾ける。
「奈緒、なんにも悪いことしてないのに、何でこんなことになっちゃうの…!? こんなの、おかしいよ…。ど、どうせなら、奈緒の代わりにあたしが死ん―――」
「ッ、ストップ!」
 ただ、それ以上のことを麻里亜の口から言わせては駄目だと、無理やり言葉を遮った。
「それは、言っちゃ駄目だ」
「おに、いちゃん…?」
「それを麻里亜が言ったら、奈緒が辛くなるだけだ。――…こうやって、お前が奈緒のことを考えて辛いみたいに、もし麻里亜が奈緒と同じようになったら、……絶対、奈緒は泣くぞ…?」
 そうだ、それは絶対に言ってはならないこと。
 もし、もしも車に撥ねられたのが奈緒ではなく麻里亜で、植物状態のようになったとしたら、奈緒はきっと自分を責め泣くはずだ。
「それに、奈緒はまだ生きてる。死んでなんか、ない。だから、自分が代わりにとか、そんなことは絶対言うな。苦しくても頑張ってる奈緒が哀しむようなことは、絶対、言うな」
 強く、押さえ付けるように言葉を投げかける。
 奈緒は生きているのだ、たとえ俺たちのことを分かってくれなくても、ちゃんと生きている。それを否定するようなことを、奈緒を支えるべき俺たちが言ってはならない。そう、思う。
「ごめ、なさ…、お兄ちゃ、…ごめ……ん」
「……俺も、強く言い過ぎた、ごめん…。でも……」
 分かってほしかった。自分を責めることは簡単だが、それでは駄目だということを。俺たちが前を向いてやらないと、きっと奈緒も駄目になってしまうから。
 ……そして、今日病院へ行った時。麻里亜に言わなければならないと思ったことが、1つあった。
「それと…、あんまりおばさんに謝ったりするなよ。……お前が自分を責めるようなこと言ったら、おばさんはそれだけ、大丈夫だからって、お前の前で強くいなきゃいけないんだから」
 当然のことだが、お袋さんは親≠ナ、麻里亜は子ども≠セ。
 弱く幼い、つまりまだ守られる立場にある麻里亜の前で、守る立場にあるお袋さんが弱音を吐くことは出来ない、ということ。そんな姿を見せてしまえば、更に麻里亜は自分のせいだと責めてしまうだろう。
 だから強く在ろうとするのだ、――俺が、そうであるように。
 それを分かってくれたようで、こくり、と小さく頷いてくれた。その応えに少し胸を撫で下ろした俺は思わず、
「―――偉いぞ、麻里亜……」
 そう言いながら、麻里亜の頭を撫でていた。
「な――、ちょ、子ども扱いしないでよ!」
「あ、悪い……」
 半分無意識のうちにやっていたことだったため、麻里亜が顔を真っ赤にさせて憤怒して、漸く自分のとった行動に気付いた。
 思い返せば、言動共に殆どとったことのないものだ。特に麻里亜が高校に入学した頃からは、あまり兄妹という立場や位置付けは意味を成さないようになっていたから、勿論妹扱いをするようなことも少なくなっていた。
 ただ、それにも拘らず無意識で撫でるなんて行動が出てきたほど、今の麻里亜は酷く幼く見えていたのだ。
 一方で麻里亜は、再び俯いたかと思うと、でも…、とポツリと漏らす。
「……今は、子ども扱いしてもいいから、だから、その、―――」
 少し恥ずかしそうに、俯きながら話す様を見て、俺は何を言いたいのか何となくだが理解した。なるべく強がって意地を張らないように、少し遠回しの言い方をしてみる。
「顔は見ない。……だから、我慢しなくていい。落ち着くまで、一緒にいてやるから」
 果たして俺の考えは合っていたようで、「ありがとう」と消えるような声で言った後、麻里亜は俺に縋り付くようにして泣き始めた。
 麻里亜は甘えさせてくれる相手が欲しかったのだ。
 独りで泣くことは、自分の部屋があるため出来るが、それではただ泣き自責することだけ。そうではなく、辛く苦しい気持ちを否定することなく受け止めてくれる誰かを必要としていた。
 親父やお袋では、恐らく駄目なのだろう。気持ちを受け止めて、麻里亜は悪くないと宥めてくれるだろうが、両親に頼らず早く自立したいと思っている麻里亜にしてみれば、そんな弱い部分は見せたくないと思っているはずだ。
 なら、麻里亜が少しでも苦しさを和らげるように、気持ちを吐き出せる場所として支えることが、俺のすべきことなのだろう。
 詳しいその時の状況はまだ聞いていないが、奈緒と一緒に帰り事故現場に居合わせただけでなく、いち被害者である麻里亜の辛さや苦しさは、俺の比にならないはずだ。それに、兄である以上、弱音を吐くわけにもいかない。
 俺は守ってならなくちゃいけないんだと、未だ泣き続ける麻里亜の髪を、再び撫でた。







 奈緒が入院してから1ヶ月近く経った。外傷的なもの以外は、未だ変化は何も見られない。
 麻里亜は何とか高校には行っているものの、以前のような元気な姿はどこかへ消えてしまった。
 通っている高校が奈緒とは違うこともあり、自分の友人には心配かけまいと明るく振舞っているようだが、自宅――特に自室や俺といる時は、目に見えて感情に起伏のないような状態である。親父やお袋の前でも、出来る限り落ち込んだ顔を見せないようにしているため、余計なのだろう。
 だからといって、俺が直接「元気出せよ」なんて言えるはずもなく、無理はしないように、辛くなったり苦しくなったら我慢せずに俺に言えと、伝えることくらいしか出来なかった。
 恐らく麻里亜の表情が1番明るいのは、奈緒の病室に行っている時だ。
 奈緒の親父さんの話では、幾ら声をかけても奈緒から反応はないが、こちらの声が聞こえていたり、姿を捉えている可能性が全くないわけではないと、担当医に言われたらしいのだ。
 ならば、声をかけ顔を見せてやれば、奈緒はそれによって自分はちゃんと生きているのだと、自分のことを想っている者がいるのだと、そう感じ取ってくれる可能性もゼロではないということ。
 だから頻繁に病室を訪れ、泣き言を言うのではなく、ただベッドから抜け出せない状態がために、知ることの出来ない外での出来事を色々と話すことにした。きっと聞いてくれている、話しかけるのを待ってくれていると、そう信じて。
 結果、奈緒の手前で泣き言も辛い顔も禁止事項となり、仕方なくではあるが麻里亜は笑みを見せるようになったのだ。
 無理に作ったような笑みは次第に和らぎ、最近では奈緒と話をしている麻里亜は本当に楽しそうに見える。
 一方その分、特に俺と2人きりになった時の沈み様は、以前に比べて酷くはなっていた。それでも、奈緒の前だけでも元気に振舞う姿を見ることが出来るようになったのは、ある意味進歩なのではないかと思ったりもする。
「……奈緒、おはよう」
 そして俺は今、初めて1人で奈緒の病室を訪れていた。
「……今日は、俺だけなんだ。麻里亜はまた明日来るって言ってる」
 目は覚めているようだが、相変わらず声をかけても反応はなく、視線が交わることもない。
 だがそれは気にせず、壁に立てかけられていた折り畳み式の椅子に座り、足元に鞄を置く。
「1人で来るのが怖くて、ずっと躊躇ってた。……1人で来たら、お前に甘えるっていうか、弱音吐きそうな気がしてさ……」
 麻里亜と同じように、俺も誰かにこの辛くて苦しい気持ちを聞いてもらいたいと思っていた。だが、麻里亜は勿論、親父やお袋にそれを曝け出すことに抵抗を感じないほどもう子どもではないし、仲が良くても全く事情の知らない友達に言うことも出来なかった。
 だから、自分の中でそんな気持ちを整理出来るまで、1人で奈緒の所へ訪れようとは思わなかったのだ。
 ……奈緒は、大抵のことは何でも話してしまえる、俺の気持ちを受け止めてくれる存在だったから。
 あれから1ヶ月近く経ち、漸く気持ちの整理がついた。――そして、1人で奈緒に会えるようになった時、告げようと思っていたことがあった。
 ずっと、ずっと心に引っ掛かっていたこと。幾度も、幾年も先延ばしにしてしまっていたこと。
 小さく、ゆっくりと深呼吸する。
「好き、なんだ。奈緒のこと」
 奈緒の顔から目を逸らさず、ちゃんとこの気持ちが伝わるように、届くように、噛み締めながら形にしていく言葉。
「今更かって言われそうだけど……。俺と付き合ってほしい、彼氏・彼女として」
 言い終え僅かな沈黙が流れた後、張っていた肩を下ろして、長い溜息を吐く。
「ホント、今更だよな。ホント―――」
 思わず零れてしまうのは、自嘲めいた渇いた笑み。
 いつか、いつの日か言おうと自身に言い聞かせて、こんなにも月日が経ってしまった。
 そんなつもりはなかったのだが、結果としては、なあなあで済ませていたのだ。互いに気持ちが分かっているなら、別に言葉にしなくてもいいかもしれない、と。
 そんな不甲斐ない俺に叱咤したのは、4つも離れた唯一の妹。
「前さ、麻里亜に言われたんだ、好きだって言ったことあるのかって」
 怒鳴られ、呆れられ、暴力を振るわれ、……酷く寂しそうな顔をされ、改めて自分が逃げていたことに気付かされた。そこで漸く、ちゃんと伝えなければならないと、けじめをつけなければならないのだと、そう思ったのだ。
 もう、子どもではない。厭なことから逃げ回り続けるわけにもいかない。
 だから今度こそ言おうと決めた。麻里亜に助けを請わなくても大丈夫なように、奈緒に面と向かって言えるように、意気地がないとは思うが、心の準備をしっかりとして。でも―――。
「―――返事、なんてないよな、やっぱり。……俺の声、聞こえてるか…?」
 麻里亜に叱咤されたのは、奈緒が事故に遭う、ほんの数日前だった。
 ほんの数日、弱い自分を奮い立たしていたがために逃してしまったのは、俺の手では抱え切れないほど大きくて、大切なものだった。
「奈緒―――!」
 手はこんなにも温かいのに、自分で呼吸もしてるのに、瞼も開けているのに。――ただ、ベッドに縫い止められているようにしか思えないのに。
 どうして開かれた眼は、1度も俺を捉えてはくれないのだろう。何も、応えてはくれないのだろう。
 眦が痛くて、熱い。込み上げてくるものを必死で空いた手で抑えようとするが、それは嗚咽に変わるだけで何の意味も持たない。
 これから俺はどうするべきなのか、何をしたらいいのか、何をしてあげられるのか。それはきっと、自分で考えて自分で見つけ出さなければならないことだ。
 麻里亜は、それを見つけた。
 奈緒が得ることの出来ない外界のことを、以前と変わらない明るい笑みを携えて話をする。自宅や休日だけでは飽き足らず、平日の放課後に帰る約束をするほど一緒にいた、そんな麻里亜だからこそ出来る、楽しく濃い甘い時間。
 だが俺は、俺にだからこそ出来るようなことを、到底考えられそうになかった。
 頭では分かっていても、この現実を認めたくないし、拒みたいと思ってしまっている。
 麻里亜の前では強がって背伸びしているけど、やっぱり幾ら頑張っても俺≠ヘ俺≠セったのだ。
 奈緒に甘くて、麻里亜に弱くて、……そして、直ぐに厭なことから逃げようとする。表面上を取り繕ったところで、いつまで経っても中身が餓鬼であることに変わりはない。
 あの日、事故に遭う日までに奈緒に気持ちを伝えられなかった俺は、ほんの僅かでも成長し変わることの出来る機会を逃してしまったのだろう。
 後悔したところで、どうしようもないのは分かっている。分かっているが、自分の不甲斐なさに呆れ、嘆かずにはいられなかった。


 ……ごめん、奈緒。
 やっぱり俺は、当分…、答えを見つけられそうにない―――。

 

 

 

 

 

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06.11.25

今月のサークルに出したものです。
珍しく救いのない話ですが、如何でしょうか…。
思ったより後半の方が長くなってしまって、
先に読んでくれた友達が「ラブが足りない…」と(苦笑)
(彼女が恋愛モノ≠、とリクエストしてくれていたので)
一応、奈緒サイドの話も書くつもりなので、そっちでは
晃司と奈緒が一緒に過ごす場面を主に出せたら、と思います。
…医療に関することは間違ってる部分も多いと思うので、
その辺りは大目に見てやって下さい;




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