とうに立秋を過ぎ、暦の上では秋となった9月。
 日は確実に短くなっているものの、未だ残暑が厳しい中、泉水(いずみ)学園高等部に在籍する生徒は文句を漏らしながらも、それぞれに登校している。
 本日は9月1日。
 長い夏休みは終わりを告げ、長い2学期が始まろうとしていた。




stand up



 ホームルーム開始のチャイムが鳴ったが、それを聞いて着席する者は殆どいない。
 久々の友達との会話に花が咲き、チャイムを無視している者。自分の席に座り、本を読んでいる者。遅刻はギリギリ免れ、切らしている息を整えている者。実に様々である。
 余程校則が厳しい学校や高尚な者でない限り、高校生だからと言って、特にホームルーム開始を告げるチャイムを守る者は少ない。
 もちろんここ、2年1組も例に洩れず、だ。
 担任は入学時から学年担当の教諭だったため、殆どの者が少なくとも1年間は担任、もしくは教科を持ってもらっている。
 そうでなくとも、4月から既に約4ヶ月は顔を見合わせている。
 だからこそ知っているのだ。彼、――その男性教諭は、チャイムが鳴った約5分後に教室へやってくるということを。
 話をするにしても、本を読むにしても、息を整えるにしても。
 5分という時間は存外貴重である。
 どうせまだ5分ある、と皆思い、それぞれの時間を過ごすのだった。

 

 そして皆の予想通り、5分経って教室に現れた担任。
 やってくると、さすがに咎められないようにと自分の席につき始める。
 しかし。
 今日は何故かなかなか静まらない。席につくものの、前後左右に座るクラスメイトと話を始める者が多く、寧ろ口を開いていない者の方が少ない。
 それもそのはずだろう。
 確かに担任は教室に入ってきたのだが、彼は1人ではなかった。
 半袖のワイシャツと生成り色のベストに、臙脂色のネクタイ。2年1組の生徒たちと同じ制服を纏った、男子生徒と一緒だったのである。
 身長は175cmほどで、細身というわけではない所謂標準的な体型。恐らく全く弄っていない黒い短髪は、彼の顔貌に合っていた。
 女子生徒の会話からは、「見た目はイイ感じじゃない?」という声も聞こえる。
 つまり、転校生はそういう容姿なのだ。
 担任はというと、暫く黙っていたものの、このままでは埒が明かないと思ったのだろう。
 彼の静かにしなさい、という少し強い言葉に、ようやく教室内の喧騒は静まり始める。
 今まで黙っていた口が、躊躇いながらも開いていく――。
「真柴悠紀です。よろしくお願いします」
 自分が喋っている言葉と、アクセントの場所が違う。
 訛りのあるイントネーションに、教室内で椅子に座る殆どの者は、そう思った。
 そして他地域に比べてある程度は受容があるため、1度は耳にしたことがあったのだろう。彼らはこうも思った。
 あれは、もしかして関西弁ではないのか?
 この1組の生徒の考えは正しい。つまり、この真柴悠紀という転校生は、関西からやってきたのである。
 そして当の本人はというと、
 ――ほらみろっ、絶対ヘンに思っとる!東京で1人関西弁やなんて、浮くに決まっとるやないか……
 硬い表情の裏で、誰にも聞こえるはずはないが、思い切り毒突いた。
 彼の怒り、というより呆れの原因は、数ヶ月前に遡る。

 

「転勤?」
 ある日の夕刻。
 珍しく父が仕事から少し早めに帰宅し、共に夕食を取っていた。そこで父から出た言葉を、息子の悠紀は反復する。
 彼の話では来月になる8月から、東京へ赴任命令が下されたとのこと。
 時々横から母が口を出していることを考えれば、この話は以前からあったようだ。
 それにしても、関西から急に関東とは、生活に慣れるまでかなりの時間を有するだろう。
 他人事だが、…いや他人事だからこそ客観的に考えていられるのかもしれない。
 中学なら分からないが、高校に通っているとなれば、転校は難しいだろう。つまり、父の単身赴任になる。
「独りでやったら寂しいんちゃうん?」
 だからこそ、悠紀の口からこのような言葉が出たのだが。
 この後、信じ難い会話を耳にする。
「何言うとるん?あんたもお母さんも一緒に行くんやで。そんなん、お父さんおらへんかったら、お母さんやっていかれへんもん」
「お父さんも料理出来ひんし、単身はちょっとキツイからなぁ。やっぱり一緒におってもらわんと」
「こんな危なっかしい世の中やのに、独りで知らん所行くなんて心配やって」
 自分の親ながら、見ているのが恥ずかしくなり顔を逸らす。プラス溜息。
 ……なんや、このイチャイチャぶりは。
 じゃなくて!
「だって、高校は!?」
 それほどレベルが高いわけではないが、一応今通っている高校は進学校。
 必死で勉強し、一般入試で入学したのだ。
 2年になり、ようやく学校にも慣れ、仲の良い友達もたくさん出来たというのに。
 ほぼ高校生活は半分を終えたという今、いきなり転校しろと言うのか。
「心配せんでも大丈夫、向こうに行ける高校あるから。ちゃんと悠紀のことも考えてるって」
 そういう問題じゃない!
 と言ってやりたかったが、言えそうになかった。
 両親は2人で一緒に住むことを前提としている。父独り、単身で行くなど欠片も考えてはいないだろう。
 だからといって、今の高校に通うために、独りここに残るわけにもいかない。というか、絶対に生活出来ない。
 姉は1人いるが、大学生の彼女は寮生活をしている。
 詰まるところ、悠紀に選択肢などありはしないのだ。

 

 回想に浸っていた悠紀は、担任の「じゃあ、真柴」という声に現に戻ってきた。
 ぼうっとしていたことが気付かれないように、抑え気味に返事をする。
「席はあそこの1番後ろな。前は、…尾崎で、隣は梶村だ」
 そう言って指差す担任の視線は、廊下側の最後列の机。
 外観から、もっと簡単に説明するならば、制服から前の席は男子、こちらから見て右隣は女子だと分かる。
 最初からこんなことで、本当に大丈夫だろうか…。
 不安になりながらも、このままここに立っているわけにもいかない。
 悠紀は先程の周りの自分に対する反応が痛く、また恥ずかしくもあり、俯きつつ最後列へと足を進める。
 席について鞄を机上に置くと、一応今から話をする担任に気遣っているのだろうか。身体を横向け、気持ち小さな声で前の席に座る尾崎≠ェ話しかけてきた。
「俺、尾崎仁志ってんだ」
 いかにも、この夏休みは部活をしていました!といわんばかりに焼けた肌。
 ニカッと笑う表情は、人懐こそうに見える。
 席についたところで無視されるか、嫌味の1つでも言われるんじゃないか、と思っていた悠紀にすれば、嬉しい言葉だった。
「…あ、よろしく」
 少々引き攣っていたかもしれないが、笑って返事をした。
 と、左から伸ばされた指がトントン、と悠紀の机を突付く。視線をふっと左に向ければ、
「あたしは梶村梨沙。よろしくね」
 悠紀はドキリとした。
 曇りのない瞳。柔らかく持ち上げられた口許。胸元辺りまで伸ばした黒髪は、梳いているのだろう、決して重い印象は見せない。
 どちらかと言えば、綺麗より可愛いと形容する方が合っている。
 近寄りがたい、という雰囲気も特に感じられなかった。
 そんなことを考えていると、担任が今日の予定を話し始めたようで、悠紀は見惚れていたことを自覚する。同時に恥ずかしくなり、笑って誤魔化し視線を担任に向けた。
 どうやら今から清掃をし、その後に始業式があるらしい。
 清掃場所と共に何人か纏めて名前を呼んでいる。
「尾崎、松川、梶村、…それから真柴は、正門の掃き掃除」
 周りの席をぐるりと見渡せば、前の席の尾崎仁志、左隣の梶村梨沙と自分が同じ清掃場所。ということは、松川というのは左斜めの席に座っている女子のことだろう。
 ひとまず、声をかけてくれた2人が同じ清掃場所であることに、安堵の息を漏らした。
 担任の話が終わると、一斉に机を移動させ清掃を始める。
 一応今日は正門から入ったものの、いまいちどこから行けばいいのか分からない悠紀は、3人と一緒に行くというよりは付いて行っている状態だった。
 実際、そんなことを当の3人は気付いていなかったが。
 そして階段を下りて行っている今は、前に女子2人。彼女たちから少し離れて男子2人でいた。
 ちなみにもう1人の女子は、松川依美子というらしい。
「…なぁ、真柴…、だっけ?」
「え…、あぁそうやけど……」
 自分の名前を言ったのは教壇の横で自己紹介をした時のみ。隣に歩く仁志がこうして訊くのも無理はないだろう。
 8月過ぎにはもう東京に来ていたため、同年代と話をするのは約1ヶ月ぶり。
 慣れない学校に顔が少し強張っているものの、悠紀は内心ワクワクしていた。
 同年代と言っても、関西と関東。一体どんな話が出来るのだろうかと、休み中も楽しみにしていたのは、ここだけの話だ。
 何だかんだいって、こちらの生活に不安がある反面、楽しみにしていることも多かったりする。
 …しかし。
「最初の質問がこんなのって、どうかと思うけどさ」
 梶村梨沙、可愛いと思わねぇ?
「………は?」
 よもやそんなこととは、思っておらず。
 悠紀は腑抜けた声を出してしまった。
 そんな反応に、言葉が足りなかったか、と思った仁志は頭を掻く。
「あ〜…いや、さ。男受けする奴って、だいたい同性にはちょっと嫌われてたりするだろ。でも梶村は、あんまりそういう話聞かないんだよな。自分のこと棚に上げないし」
「へぇ、そうなんや……」
 確かに、とも思う。
 容姿は前述したように可愛いの一言だ。
 異性と話すことが苦手なのだろうか。教室を出る前に、仁志の左側の席である依美子に、同じ班のようなので改めて自分の名前を言ったのだが、彼女は少し視線を逸らし気味に「え、と…、松川依美子、です……」と。
 そんな依美子とは違い、自分から声をかけてきた梨沙。
 短時間で他人の性格が分かるわけがないが、中学の時から同級生だと言った仁志が絶賛するのだから、外面だけが良いわけではなさそうだ。
 階段を下りきって昇降口へと向かう廊下で、依美子と話をしている梨沙を見て、悠紀はそんな風に思った。

 

 

 

 

 

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2004.9.29



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