意外に強い陽射しに目を細めつつ正門に着くと、途中寄った少々古びた用具入れにあった、竹ぼうきで掃き始める。
 一応無言清掃となっているが、それを守っている生徒は、はっきり言って少ない。
 そしてここの担当になった4人も、例に洩れず話をしながら手を動かしていた。
 ましてそのうちの1人は、今日この高校へ編入してきたばかり。
 互いに聞きたいことが多過ぎて、幾らでも質問が飛び交うのである。それはまさに、間髪を容れずに。
「何でこっちに来たんだ?」
 まず訊いたのは、尾崎仁志。
 短髪によく焼けた肌、人懐こそうな笑い顔。あんまり強くないけど一応野球部、とは彼の言葉だ。
「父親の転勤。てっきり単身赴任やと思とったんやけどな」
 それに答える関西弁は、本日付で編入してきた真柴悠紀。
 ここにいる4人の中では、1番背が高い。編入前に通っていた高校では運動部に所属していたが、仁志と違い屋内で行うバスケ部だったため、それほど焼けてはいなかった。
「兄弟はいるの?1人っ子?」
 続いて、器用にもしっかりと手を動かしている梶村梨沙。
 中等部からの同級生である仁志の話では、男女共に好かれる性格で、教師たちからの信頼も厚いらしい。
「姉ちゃんが1人おるで。でも大学の寮に入っとるから引っ越しは関係なかったんや」
「前の学校って進学校だったのか?」
「ん〜…まぁ、一応進学校やった。そんなにレベル高くなかったけどな」
「んじゃ、得意教科とかあるか?」
「……尾崎くん、もう宿題頼ろうとしてるでしょ…」
 ポソリ、と呟く梨沙。
 その瞬間、仁志の視線が泳いだのを、皆はしっかりと見てしまった。
「仁志、バレとるって」
 梨沙のあまりに鋭い突っ込みに、思わず悠紀は吹き出した。
 ちなみに、悠紀が仁志のことを下の名前で呼ぶのは、正門に着く前。自分のことは仁志で呼んでくれて構わないと言ったからである。
「得意教科なぁ、筆記だけやったら英語は好きやで。喋んのは苦手。ちなみに数学は大っ嫌いや。あんな計算ばっかりなん、どこがオモロイんやろ」
 竹ぼうきの柄に顎を乗せ、体重をかけながら溜息を吐く。伏せ目がちなところを見れば、本当に嫌いらしい。
 そんな悠紀の言葉の後に、小さく聞こえる笑い声。
 殆ど動かしていなかった手を完全に止め、皆はその声がした方に視線を向ける。
 もちろん、声の主である――梨沙以外だが。
 注目を浴びてしまったことに、少し恥ずかしく思ったのだろう。彼女は苦笑いをしつつ謝った。
「あ、ごめん。あたしの知り合いに、数学得意で英語苦手なのがいるの。何か正反対だなぁって」
 彼女の話では、その知り合いは「日本人なんだから、日本語話せたらいいじゃないか」という理由らしい。
 尤も、それは英語が苦手な言い訳だろうということは、梨沙でなくとも分かる。
 じゃあその人と真柴が一緒に宿題とかしたら、はかどるだろうなぁ…という仁志の言葉に悠紀も笑ったが、正直あまり笑える冗談ではなかった。
 実は悠紀は前の学校で、数学が得意で英語が苦手な同級生がいたのである。
 男子だったのだが、あまり気が合わず話をすることも殆どなかった。
 梨沙の言う知り合いが、男子であるのか女子であるのか。また、同級生であるのかどうかも分からない。
 ただ、もし同じ学校の生徒であったならば、気が合わないかもしれない。それよりも寧ろ、自分から話しかけないようにするだろう。
 そう悠紀は思った。
「依美子は?何か聞きたいことある?」
 梨沙が、今まで会話に殆ど参加していなかった松川依美子に声をかける。
 彼女は異性と話すことが少々苦手らしく、あまり自分から話しかけることはない。
 そのため、少しでも会話に参加してもらおうと、梨沙が彼女の背中を押したのだ。
 大抵こういった親切は、行き過ぎてしまうことがある。背を押す者の方が先走ってしまい、自分が楽しんでいるだけになってしまうのだ。
 しかし梨沙は自分の意思を依美子に押し付けてはいないし、自分がどこまで手を貸せば良いのか、ちゃんと分かっている。だからこそ、
「え、と……」
 躊躇いながらも、背を押してもらった彼女は自分から言おうと思える。
 梨沙が同性からも好かれる所以は、このようなところもあるのだろう。
「何でもええで。何かあるか?」
 悠紀も、依美子が言い易いようにと訊ねてみる。
 何を言おうかと頭を動かす度に、僅かに揺れるボブ・ショートの髪。
「……あの、名前、何て呼べばいい…?」
 人と付き合うことが嫌いな者ならば、そんなもん勝手にしろ!と言うかもしれない質問ではある。
 別に悠紀は人と付き合うことは嫌いではない。呼び方を聞いてくれるのは、これからよろしくと、名前を呼ぶことがあるくらい話をしようと捉えることが出来ないだろうか。
 ……いや、そんな深い意味はないかもしれない。悩んだ末に出てきた質問かもしれない。
 だが、別にそれでも構わないだろう。それがきっかけで話をすることが出来るならば。
「苗字でも下の名前でも、何でもかまへん。向こうでも、特にあだ名とかなかったしな」
 男子の中でもあだ名がついていた奴はいたし、小学校からの付き合いなら「ちゃん」付けで呼ばれている奴もいた。
 しかし、何故か悠紀だけは、それが全くなかった。呼び捨て、もしくは「くん」付けのみである。
 少し寂しいと感じた時もあったが、「ちゃん」付けならまだしも、変なあだ名を付けられるよりはマシか、と思っていた。
「そしたら、仁志、梶村さん。それから松川さん、で合うとるよな」
 と、それぞれに視線を合わせながら名前を呼んでいく。
 梨沙と依美子も顔を合わせて、頷きながら小さく笑っていた。

 

「……あ、」
 ふと思い出したように、悠紀が声を漏らした。
 当然その声に、残り3人の視線は彼の方へ向く。
「めっちゃ関西弁で喋っとるけど、言うとること分かるか?」
 話相手が標準語であるとはいえ、それに合わせることなどもちろん出来ない。
 教室に入った頃とは違い話が少し弾んできたので、何も考えずに関西弁で喋っていたが、もしかしたら理解してもらえていない言葉もあるかもしれない。
 その質問に最初に答えたのは、意外にも依美子だった。
「その…、少し早口っていうか……」
 少し躊躇いながらの彼女に、
「それに関西弁って、少し言い方キツイでしょ?だからゆっくり喋った方が丸く聞こえるかも」
 梨沙が付け加えるように言う。
 以前、関西弁は言い方がきつく早口であると、テレビで見たことを悠紀は思い出した。
 周りも同じように喋っていたため特に自覚はなかったのだが、こうして1人孤立していると気になってしまう。
「え、やっぱそうなん?……ちょお気を付けて、ゆっくり喋ろ…」
「ただでさえ関西弁だから敬遠されてんのに、これ以上避けられたら最悪だもんな」
 仁志の言葉に、悠紀は目を少し見開いた。もちろん、その通りだったからである。
 仁志を睨みつつ、つい先刻のことを思い出して大きな溜息を吐いた。
「……人が気にしとること、アッサリ言わんといてくれる?ホンマに教室入った時、帰りたい思たんやから……」
「え、どうして?」
 興味津々といった風に、竹ぼうきを持つ手を今度こそ完全に止めた梨沙が訊ねる。
 仁志とは違い、正門に来るまでは殆ど話をしていない。さすがに教室で少し挨拶をしたくらいでは、彼の中で渦巻く不安を見て取ることは出来なかったのだ。
「まぁ転校生っていうのもあるんやと思うけど、喋った時の周りの視線とかが痛かったんや。あぁ、絶対浮くやろなぁとか、敬遠されとるんやろなぁとか」
 早速気を付けて、喋るペースを気持ち遅くする。
 今はこうして仁志たちが話しかけてきてくれているが、もし同じ清掃場所だと、教室での席が近いのだといっても無視されていたら。
 それほど脆いわけではないのでトラウマにはならないだろうが、なかなか立ち直れなかったかもしれない。
 直ぐに新しい環境に適応出来るほど、もう子供ではないのだ。
 そういう意味では、悠紀にとって彼らは、少し大袈裟だが救いの手を差し伸べてくれたのである。
 苦笑いをしながら話したためだろう。悠紀の話を聞いて悲痛めいた表情をしたのは、梨沙と依美子。
 実際、自分たちも気付かぬうちに彼のことをそのように見ていたかもしれない。そう思うと、言葉もなかなか出てこなかった。
 だが、今は違う。こうして仁志、梨沙、そして依美子が話しかけてくれているのだ。初日ながらそれほど不安もないし、1組のあの席で良かったと思える。
 そのことを言葉で伝えると、少し安心したように2人は笑顔を見せるのだった。
「それにしても、暑っちぃよなぁ。夏休み明けたんだから、もう少し涼しくなってもいいと思うけど」
 もう掃除をする気は殆どないのだろう。仁志は手を団扇に見立てて、パタパタと顔を扇ぐ。汗こそ出てはいないが、暑そうだということは一目瞭然だ。
「そうか?そんなに暑ないやん」
 しれっと言う悠紀に、少し大袈裟に驚いてみせたのは仁志である。
「……それ、本気で言ってんのか…?」
「…?」
 冗談だろ、と言わんばかりの瞳から逃れようと、視線を梨沙と依美子に向ける。
 尤も、2人も悠紀の言葉には賛同出来ないようで、仁志ほどではなかったものの、目を見張っていた。
 暑さや寒さなどの感じ方は、人それぞれ違う。賛同してもらうつもりはなかったものの、まさか疑うような目を向けられるとは思っておらず。
「む、向こうの方が暑いんやって。全国の天気予報とか見たら、自分とこよりも東京の方が最高気温、低いやん?で、実際来てみたら、ホンマにこっちの方が涼しかった」
 ……って感じたんやと思う…。
 自分のことなのに自信なさげに言うのは、あまりにも3人の視線が痛かったからだ。
 都市部は緑がないため、焼けたアスファルトからの熱気で気温が高い。
 しかしここは東京都内といっても緑は多く、―――簡単に言えばつまり田舎なので、幾分かは暑さが和らいでいるのだろう。
 同じ東京でも、テレビのニュース番組で流れるような、タオルで汗を拭く人が大勢歩いている場所とは、また違うのだ。
 ちなみに悠紀の言う『向こう』とは、以前住んでいた関西地方のことである。ここほどではないが、まだ自然の多く残る、彼にとって住みやすい場所だった。
 しかし来年の夏になれば、今のように涼しいと感じることもないのだろう。その頃にはこちらの気温に慣れてしまっているだろうし、最初からこちらで過ごしていれば、比べようがない。
 1人で納得していた悠紀は、はたと気付いた。
 今は清掃中で、…というか話をしていた途中で、自分の発言がきっかけで沈黙が続いているのである。
 場を和ますのは、正直苦手だ。口を開いて更に拗らせてしまっては、どうしようもない。
 どうしよう…、と思案している中、この雰囲気を元に戻したのは、やはり梨沙なのであった。
「じゃあ、そのここより暑いっていう、向こうのこと教えて?あたしたちが知らない、真柴くんだけが見てきたことを知りたい」
 彼女の笑みは、凄い力を持っているんじゃないか。そう思ってしまう。
 つい先程まで重かった空気はどこかへ消え去り、梨沙を除く3人は、細かいことなど気にせず、今は色んなことを互いに吸収しようという気持ちになる。
 結局清掃時間が終了し、始業式のため直接体育館へ行く間も。そして始業式が終了してからも、話がつきることはなかった。

 

 

 

 

 

back / next    


2004.10.19



back