始業式となれば、ほぼ午前中で終了し、部活がない者の殆どは昼食のために家路に着く。
 交通が少々不便であるため、悠紀はバス+徒歩で通うことになっていた。
 何とか転校初日には高校までの道も覚えており、1人で帰ってこれたことに、少々安堵する悠紀なのであった。
 早くお昼ご飯が食べたい。そんなことを思いながら玄関を開けると、そこで見慣れない靴が目に入る。
 どう考えても、女モノ。所謂ミュールと呼ばれるものだ。
 だからといって、スニーカーばかり履いている母のものであるとは、考えにくい。となれば、お客さんだろうか。
 ……まだここに引っ越して1ヶ月ほどだというのに?
 近所付き合いは良かった方だ。だが、それはあくまで以前住んでいた所でのこと。ここでは、はっきりいってまだ浅い。
「……ただいま…」
 恐る恐る上がり、リビングをそっと覗く。そこにいたのは、
「姉ちゃん…?」
「あ、悠紀!」
 肩まで伸びた綺麗な茶髪に、その髪を掛けた耳に小さく揺れるピアス。薄く化粧をした勝気そうな顔貌は、笑うとえくぼが現れる。
 そう、彼女は正真正銘、悠紀の姉――真柴みくである。
 悠紀より4つ年上のみくは、大学3年。静岡県なので寮で生活をしている。悠紀が今日仁志たちに言っていたように、既に家を出ていたため、彼女は今回の引っ越しは関係なかった。
 その彼女が何故ここにいるのかというと、今は夏休み中で、課題類も片付けてしまったので、やってきたとのこと。
 お盆にも帰れなかった――とはいっても、8月の時点で悠紀たちは東京へ来ていたので、実家に帰るというよりは祖父母の家に行くつもりだった――ので、久々に家族と一緒にいたいと思ったそうだ。
 寮生活も3年目で慣れてきたとはいえ、やはり寂しい、とみくは悠紀に漏らした。
 4つ離れていて、2人姉弟。更に昔は両親が共働きだったということもあるのだろう。2人は仲が良く、特にみくは悠紀のことをとても可愛がっていた。
 後にみくが大学の寮に入るため家を出ることになり、頻繁に会えなくなったので、今日のように久々に顔を合わせるとなると、
「何ヶ月ぶり?見ぃひん間に、また大きくなったんちゃう?」
 悠紀の顔に自分のそれを、ずずいっと近付ける。
 悠紀が高校生であるとはいえ、みくにとってはいつまで経っても4歳年下であることには変わりないし、自分よりも図体が大きくとも、可愛く思ってしまうのだ。
 ブラコン、と言ってしまえば、それまでなのだが。
 一方悠紀はというと、決して彼も姉が嫌いなわけではない。寧ろどっちだと訊かれたら、好きと答えるだろう。
 しかし、こうして家の中ならまだしも、外でこういったスキンシップをされるのは、はっきり言って恥ずかしい。
 まだ悠紀は中学生。大学生となったみくが、ゴールデンウィークを利用して帰省した時だ。
 偶々バスケ部の練習試合で遠出をしていた悠紀に、時間が合えば途中から一緒に帰ろう、というみくからの言葉。
 電車を使って他校へ行っていたので、もちろんその帰りも電車。それほど時間がずれない限り、どちらかが乗り換える駅で少し待っていれば、一緒に自宅へ帰ることが出来る、というわけだ。
 そして、まさに偶然。2人は乗り換える前の電車内で会ったのである。
 ほぼ1ヶ月ぶりに顔を合わせ、後に聞いた話では、みく曰く「やっぱり姉弟なんやなぁ、運命みたいやない?」と思ったらしいその時。
 周りに一般の人はもちろん、バスケ部仲間が見ているというのに、抱きつくようにやってきた。さすがに他人だと思いたかったし、穴があったら入りたいと本気で思った。
 それでも、地元の昔からの友達…、というよりみくを知っている友達からすれば、かなり羨ましいらしい。
 同じように姉妹がいても、それほど仲が良いわけではないと言うのだ。
「ね、こっちの生活どう?だいぶ慣れた?」
 それでも、何だかんだ言いつつ、やっぱり自分も姉には甘いのだろうと、悠紀は思う。
 こう言って笑って話かけてくる彼女を見て、しょうがないなぁ…と思ってしまうのだから。
「あ、悠紀おかえり。お昼何食べる?残りもんでもええか?みくのお土産もあるけど」
 みくに話しかけようとした時、奥から母が出てきた。
 お土産、と聞いて喜んでしまうところは、やはりまだ子供か。そのお土産が何なのかを聞く前に、いると言った。
 尤も、昼食の話の最中に出てきたのだから、食べ物だろうと考えるのは別段おかしくはない。
 悠紀は静岡といわれても、何も浮かばなかった。食べ物で何か有名な物はあっただろうか。それほど甘い物は好きじゃあない。
 しかし今はとにかくお腹が減っているので、残り物でも甘いお菓子でも何でも構わないと思っていたのだが。
「……お茶?」
 母が台所から持ってきたのは、持ち手のついた湯飲み。
 中身を覗き、色と匂い的にお茶だと悠紀は判断した。もちろん、大袈裟に溜息を吐いて。
「静岡言うたらお茶やん。日持ちせえへん食べ物なんか買うてこうへんって」
 お土産=食べ物と結び付けていた弟の思考を知りながら、少しからからかうように理由を説明した。
 可愛がる、の意味は2種類ある。一般的な可愛らしく思い愛すると、苛めるということだ。みくは悠紀を可愛がっているが、彼女に関してはどちらも意味していた。
 一方騙された…、と項垂れる悠紀は、湯飲みの中を見ながら耳を台所へ向ける。
 野菜炒めか何か分からないが、フライパン類を使い何かを炒めている音。やはり昼食は残り物になりそうだ。
 どうせおかずを待つなら、少しでも早くこの空腹感を和らげたい。そう思った悠紀は、文句を言いながらもズ……、とお茶を飲む。
「……美味しい」
「やろ?」
 期待通りの言葉を聞くことが出来たみくは、満足そうな顔をした。

 

 白米と、予想通りの野菜炒めを含む諸々のおかずを食べ終え、母が再度淹れてくれたお茶を啜りながら、美味しさにほぅ…と溜息を吐いた。
 何だかんだいって、姉のお土産であるお茶が気に入ったようで、悠紀の表情は綻んでいる。
「それにしても、姉ちゃん静岡行って3年やけど、関西弁抜けてへんな」
 そんな中、ふと思ったこと。
 地元を離れて3年経つが、今のところ言葉遣いに変化はない。同じ学科に関西人はあまりいないと、大学入学時に言っていた。ならば周りに影響されてしまうのではないか、と思うのは自然の流れか。
「ん〜、でも向こうやったらそんなことないで。静岡いうか標準語混じり。それでも喋っとる相手が関西弁やったら、自然と出てくるみたいやわ」
「ふぅ…ん、そんなもんなん?」
「そんなもん」
 まだ東京に来て1ヶ月。まともに家族以外と会話したのは今日が久しぶりであり、その相手が皆標準語だったのは、ほぼ初めてだろう。
 いまいち姉の言っていることが理解出来ないものの、自分も高校を卒業する頃にはそんな風になっているのかと思うと、変な気分だ。
 自分が、標準語なんて。
 書くことは出来ても、喋ることなど想像もつかない。
 それと同時に、関西で生まれ育ったという記憶が薄れていってしまうのではないかという不安が現れる。
 こうして思案している悠紀に、みくは「でも悠紀は父さんと母さんが一緒やし、家では関西弁やろうから、そんなに気にせんでも染まりにくいって」といつもの笑顔で言った。
 顔に出やすいのかもしれないが、みくが自分の思っていることをフォローしてくれるのは、本当に凄いと思うし尊敬している。
 確かに今彼女は年齢的にも大人であるし、色んな経験をしてきているだろうが、悠紀の考えていることを当ててしまうのは昔からだった。
 尤も、そんな彼女に苛立ちを感じてしまう時期もあった。
 比べる必要はないのだが、何もかも敵わないと思ってしまえば、幼い思考に葛藤が生じるのである。
「ありがと」
 だが、今は違う。彼女が大人であるということは、同時に悠紀は大人に1歩近付いていることを意味するのだ。純粋に彼女を尊敬し憧れの感情を持っているからこそ、この言葉が出るのだろう。
 少し照れながらも、姉の優しさに答える。
 もちろん、この言葉を聞いて笑みを見せるのはみくだ。
「…もぅ、可愛いんだから。この、このっ」
 そう言って、悠紀の髪をくしゃくしゃと弄る。
 止めろと言いながらも、悠紀は喉の奥で笑っていた。

 

 夜が更けてからかなりの時間が経ち、日付けは変わっている。
 悠紀は部屋に戻っており、昼間とは違い閑散としたリビングにいるのは、みくと母。
「ねぇ母さん」
 小さな缶チューハイをこくりと飲み、向かいで家計簿を付けている母に声をかけた。
 父はと言うと、明日の朝は早いからとさっさと寝てしまっている。
 みくに呼ばれ、視線は家計簿のまま、ペンを持った手も動かしたまま「ん〜?」と返事をする母。
 一応耳は傾けているが、それほど重要な話ではないと思っているのか。あまり真剣に聞こうとはしていないように思える。
 そのため少し大袈裟に溜息を吐いてみせ、今から話すことは母さんにも関係あるんやで、と言わんばかりに視線を向けた。
「正直、引っ越すって聞いて心配やったんやで?」
 母の手がピタリと止まり、2人の視線が交わる。
 してやったりと、交わった片方の瞳は柔らかく細められた。
「でも、悠紀の話を聞いとる限り何とか大丈夫みたいやわ。昼ご飯の時も楽しそうに話してくれたし」
 気兼ねなく話が出来るのは、仲が良い証拠だろう。
 彼女の言う通り昼食を食べている間は、学校はどうだったか、友達は出来たのかなどと訊いていた。
 初日でどうだったかなど、訊いてもそれほど答えは返ってこないと思っていた。しかし意外にも弟は学校での、特に新しく出来た友達のことを色々話してくれた。
 小学生ならまだしも、10年以上も同じ地で過ごしてきたのに、突然見知らぬ地へ行くとなれば、高校生という年齢では楽しみよりも不安の方が大きいのではないだろうか。
 弟が新しい地に馴染みにくいのかといえば、そうではない。
 それでも、入学して1年が経ち、ようやく学校生活にも慣れ親しい友達も出来ただろうに、突然引っ越すなどと言われても、受け入れ難いはずだ。
 こちらに引っ越すという話を聞いた時、みくはやはり弟の悠紀のことが気になった。
 転校なんて嫌だ、東京になんて引っ越したくない。そう言いたくても、自立だなんて以ての外である彼には言えなかっただろう。
 両親はまだ良いとして、強制的に連れて行かれる彼は上手くやっていけるだろうかと、心配で仕方なかったのである。
 しかし今日久しぶりに会い、そして話をして、今のところそれほど心配しなくとも大丈夫だと思った。
 弟を支えてくれる、新たな友達がちゃんといてくれる。
「母さん、ええ学校探してくれてありがとう」
 本来ならば、この言葉はみくが言うべきものではない。
 が、それほど弟である悠紀のことを想っているということだ。
 後に母から、これほどまでに自分のことをみくが心配してくれていたことを聞かされ、改めて嬉しく思う悠紀なのであった。

 

 

 

 

 

back / next    


2004.10.31



back