それほど暑くはない。
 晴れてはいるが湿度は低く、カラッとしているためまだ過ごしやすいだろう。
 しかし2年1組の隅に位置する机に、伸び切ったようにうつ伏せているのは悠紀だ。別に暑いからそうしているわけではない。
 この休み時間の前にあった授業は英語。英語は悠紀の得意科目なのだが、問題は次の授業だった。
 苦手、…いや嫌いな科目である数学なのだ。
 得意科目の次に苦手科目の授業があると、元々なかったやる気は更に失せてしまう。
 初めて時間割りを見た時は、本当に落胆したものだ。
 というわけで、悠紀がうつ伏せているのは、あと10分足らずで始まる数学のことを考えていたからである。
 ――…こないしとっても、しょうがないやんな…
 こんなことで悩んだって、時間割りが変わることなど有り得ないし、どうしようもない。それに4月からではないのだから、あと約半年の辛抱だ。
 潔く受け入れろ、と自分自身に言い聞かせ、上半身を起こした。――その直後。
 ガラッ
 右手側から、突然ドアが開く音がした。かなり勢いがあったので、悠紀は肩を少し震わせ、頸を右手に回す。
 悠紀の席は廊下側の1番後ろ。そこには丁度、教室の後ろのドアがあった。そのドアを開けたのであろう男子が、そこに立っていたのである。
「…………」
「…………」
 2人は、視線を交えたまま動かない。
 顔見知りならまだしも、少なくとも悠紀は目の前に立つ男子とは面識はないため、声をかけることに何となく躊躇いがある。
 しかし相手は悠紀を見たことがないのならば、転校生であると結び付けられるだろう。
 なんか喋ってくれ…!とばかりに心の内で訴えてみるが、そんな気配はなく。
「…あ、えと……」
 この沈黙に耐え切れなくなった悠紀が、先に口を開いたのだが、
「亮、どうしたの?」
 思わぬところから助け舟がやってきた。
 背から聞こえた声の主は、梨沙だ。
「あ、梨沙」
 彼女の姿を見付けた彼は、突っ立っていたドアの入り口から教室へ入り、梨沙の方へ歩み寄る。
 話をしていることを思えば、彼は彼女に用事があって1組にやってきたのだろう。
 耳をそばだてなくとも幾らか入ってくる彼らの会話は、次の授業である英語の教科書を貸してほしい、ということだった。
 次の時間は英語か…。2時間続けてはしんどいけど、数学するよりはマシやんなぁ。ええなぁ…。
 それにしても綺麗な顔ゆうか…、モテる顔って感じやな。
 あの2人が付き合うとったら、男も女もショック受ける奴が多い……、いや、そうやけどお似合いやからいうて、丸く収まりそうか。
 ……あ、梶村さんは誰とも付き合うたことない、って話やったっけ。
 隠す風もなく、悠紀の視線は2人を捉えていた。
 どうでもよい言い訳をするならば、自然と耳に入るので会話が気になってしまう。あと10分足らずで始まる、嫌な数学の授業までの気晴らし。といったところだろうか。
 もちろん、その言い訳は2人に対するものではなく、悠紀自身に言い聞かせているものではあるのだが。
「―――それと、」
 その声と共に、男子が悠紀の方へ顔を向け、再び視線が交わる。
 暫時まるで蚊帳の外扱いだった悠紀は、突然彼がこちらを向いたことで思わず肩を震わせてしまった。
「…もしかして、転校生か?」
 そう訊ねるのは、悠紀ではなく梨沙にである。正直、突き刺さるような彼の視線が痛い…。
「うん、前に話した真柴くん。あ、こっちは隣のクラスの、望月亮(あきら)」
「あ…、真柴悠紀、です……」
 そのことに気付いているのか、いないのか。梨沙は2人の視線を自分に集中させるかのように、1歩悠紀の方に踏み出して答えた。
 どうやら梨沙が自分のことを少し話していたようだが、一応初対面であるから、悠紀は少ししどろもどろになりながらも名前を言う。
 何もかも彼女に仲介役をしてもらうのも悪い気がした、というのも理由の1つである。
 そして折角顔を合わせたのだから、勇気を出して少し話でもしてみようか…。そう思い口を開こうとした直後。
 彼は梨沙に礼を言いながら、さっさと教室を後にした。
 悪気はないのだろうが、何だか避けられた感があり、気分の良いものではない。
 先入観というものは、案外強く残っていたりする。もしこれから彼と話す機会があったとしても、避けてしまいそうな気がすると、悠紀はそっと思った。

 

 隣のクラスだという亮が、英語の教科書を持って自分の教室に戻ると、梨沙は自分の席に着いた。
 悠紀は彼のことを少し知りたいと思いつつ、訊ねてしまうと何だか盗み聞きしていたような気がして、躊躇ってしまう。
 いや、実際盗み聞きしていたのだから、余計に訊き難い。
 しかしそんな心配を余所に、悠紀が訊こうとする前に彼女から話始めてくれた。
 改めて望月亮という彼の名を始めとして、隣の2組であること、英語の教科書を貸してほしいと1組にやってきたこと。
 ちなみに教室のドアを開けた時、亮が全く声を発しなかったのは、まさかそこに誰かがいるとは思っていなかったかららしい。
 確かに、今学期まで悠紀の席はなかったのだから、彼が驚くのも無理はないだろう。勢いよく開ければ、尚更のこと。
 そして、悠紀にとってあまり嬉しくない情報も。
「あ、修学旅行の班、男子が1人いたでしょ?あれ亮なの」
 言われてみれば、修学旅行の冊子に書いてあった、同じ班になる予定の男子の名前。「望月亮」だったような気もする。
 どうやら始業式の清掃時に言っていた、得意科目が悠紀と正反対の数学だという知り合いも彼らしい。
 そう、もし同じ学校の生徒だったなら、気が合わないかもしれない。寧ろ自分から話しかけないようにするだろう、と思った知り合いである。
 まさか本当に同じ学校で、しかも隣のクラスだったとは……。
 気が合わないとは限らない。もしかすれば、梨沙や仁志のように気兼ねなく話せる友達になれるかもしれない。
 ――…しかし彼の、
「どうかした?」
 何も反応がなかったからだろうか。梨沙が首を傾げて覗き込んできたため、悠紀の思考はそこで途切れた。
 どうかしたと訊かれて、まさか友達のことについて考察していた、などと言えるはずもなく。
 出来るだけ焦りを見せないように、咄嗟に考えた、しかしなかなか良い言い訳を彼女にぶつけてみる。
「あ、いや…。男子を下の名前で呼んどるのって珍しいよな。梶村さんが呼ばれとるのも」
 互いに呼び捨てということで、更に珍しいと感じるのだろう。
 自分を含め、梨沙は男子を苗字で呼んでいる。女子は依美子など呼び捨ても少なくないが、どちらにせよ互いに、というのは稀だ。
 何となく梨沙と亮の会話に違和感があると思っていたのだが、そのためかもしれないと、彼女に言って初めて気付いた。
「そうだね…、亮は小学校から一緒なんだ。何か馬が合うっていうか。いつの間にか、下の名前呼び捨てになってたって感じかな」
 呼び捨て…、な。
 悠紀はふと思った。
 前の学校では、同じ学年に真柴という苗字の男子がいたこともあるのだが、殆ど下の名前で呼ばれていた。男子からは、呼び捨ても多い。
 そして自分も友達を下の名前で呼んでいることが多かった。
 まだ転入して半月と経っていないのだから、誰彼なしに話が出来るというわけではないのだから、仕方ない。しかし、やはり何となく余所余所しい気がしてしまう。
 寂しい…、そんな言葉に似た感情がどこかであったのだ。
「真柴くんも、下の名前で呼んでほしい?それともあたしのこと下の名前で呼びたい?」
 よもやそんなことを言われるとは思っておらず、悠紀は一瞬全ての動作を止めた。もし、今何かを嚥下している途中だったならば、恐らく大袈裟なほどに噎せていただろう。
 その発言者である梨沙は、にっこりと笑みを浮かべたままだ。
「べ、別にそういうわけやないけど…」
「けど?」
 間髪容れぬ問いに、自分の発言を恨み、焦るばかり。
 ハッキリ言って、先に手が出てしまうタイプの悠紀は、相手を言い包めたりすることは苦手である。
 何と言うべきなのか、しかし適当に言ってしまえば更に墓穴を掘りかねない…。
 と、突然梨沙がお腹を抱えて笑い出した。口を小さく開けた悠紀の視界に入っているのは、僅かに肩が震えている姿。
「嘘、ごめん。苛めるつもりはなかったんだけど、何か反応見てると面白くて……」
 直ぐに謝った彼女に文句を言おうとは思わない。
 が、やはり苛めていると自覚している辺り、…悠紀の反応を見て楽しんでいる辺り、性質が悪いだろう。
 溜息が幾らでも出てくる。
「……自分、サドっ気あるんちゃうやろな…」
 そんな溜息と一緒に小さく零した言葉。
 どうやら耳に入っていたらしく、
「ないって!ヘンなこと言わないでよ」
 梨沙は脹れっ面で否定してきた。
 形勢逆転とまではいかないが、苛められる立場から抜け出せたと思う悠紀である。
 尤も、梨沙の――悠紀にとって煩いでしかない――発言はこれだけでは終わらなかった。
「…ね、やっぱり下の名前で呼んでもいい?」
「は…?あ、いや別に構へんけど……」
「けど?」
 そこでふと先程と同じパターンになっていると気付き、悠紀は慌てて「か、構わないですっ…」と何故か敬語で言い直す。
 もちろん、またもや梨沙には笑われたのだが。
「1人くらい、下の名前で呼んでる人がいてもいいでしょ?」
 彼女の真意は分からない。
 先程の苛めている延長線なのか、ただの気紛れなのか、はたまたそれ以外の理由なのか。
 さすがに悠紀の、下の名前で呼び合えないことが寂しいという気持ちを感じ取ったとは、考えられないだろう。
 ……いや、彼女ならそれも有り得るかもしれない、と思う。
 何も梨沙がエスパーだ、と言っているわけではない。それだけ周りの人のことを見ているのだと、この1週間ほどで十分過ぎるほど分かった。
 そして、彼女が男女共に好かれていることへの、納得。
「じゃあ、悠紀くん、ね」
 いざ呼ばれると恥ずかしい気がしたが。
 何となく懐かしいと感じながら、梨沙に笑みを向けた。

 

 授業は時間通りに始まり、教壇の辺りを数学教諭が左右に行ったり来たりしている。
 そんな様子を視界に入れながら、悠紀は休み時間に梨沙によって遮られた思考を、シャープペンを回しながらもう1度呼び戻した。
 望月亮のことである。
 端麗な顔貌。肩にかからないほどの髪。そしてそのサラサラとした前髪から覗いた、鋭い眼光。
 椅子に座っていたから余計かもしれないが、見下すような瞳に動けず言葉が出なかったのも事実だったりする。
 人を寄せ付かせないような雰囲気を纏い、無口とまではいかぬとも気難しそうで、打ち解けるまで時間がかかりそうなタイプだと思った。
 得意科目などで気が合わないかも、と冗談で思っていたが、本当に合わないかもしれない。
 梨沙と依美子も一緒とはいえ、修学旅行の自由行動の班は彼と同じである。一体、どうするべきか……。
 なんて考えていたが、悠紀はふと我に返った。
 今は数学の授業。ただでさえやる気がなくて、授業内で全て理解できるわけがないというのに、他のことを考えている場合ではない。
 今聞いていなければ、後では何が理解出来ていて何が出来ていないか分からないし、まして嫌いな数学のために自由時間を削りたくない。
 せめてちゃんと聞かなければ、と望月亮のことは隅に追いやり、黒板に意識を集中させた。

 

 

 

 

 

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2005.2.3



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