携帯が、鳴った。
こんな――夜が明ける頃に携帯電話が鳴ることなど、滅多にない。
そのため起きていたものの、携帯電話に手を伸ばしたのが遅くなった。
折り畳み式のそれをパチンと開き、画面を見る。
そこに名前があるということは、アドレス帳に登録している者。
特に焦ることもなく、通話ボタンを押した。
『…ごめん、寝てたよね……。玄関、開けてもらってもいい…?』
少し舌足らずな声。やはり寝ていたと思われたようだ。
実際のところ、直前まで寝ていた。
だがふと目が覚め、眠れなくなってしまったために、のろのろとベッドから起き上がっている時、携帯電話の着信音が鳴ったのである。
肯定の返事をして、荒木唯は通話を一方的に途切った。
玄関に向かいロックを外して開ければ、そこには先程まで機械越しに喋っていた、松見孝子の姿。
僅かに彼女の頬に赤みが差しているのは、気のせいではないだろう。
中に入るよう促し、今度は施錠せずに扉を閉めた。
「ほら」
寝衣姿の唯は、ミネラルウォーターを入れたコップを孝子に渡す。
それを受け取ると、小さく音を立ててながら一気に飲み干していく。
「最近、酒に逃げること多過ぎない?」
飲み終える前に、唯はそう言った。孝子の頬がほんのりと赤く染まっているのは、酒に酔っているからである。
黙り込むのは、肯定の証拠。
何より、視線を合わせようとせず俯いているのだ。今更言い訳など通用しない。
「ま、今日休みだから飲んでるんだろうけど」
日付が変わっている今日は、土曜日である。唯・孝子が勤めている会社は共に休み。
翌日が休みとなれば、少々無理をしても何とかなるだろう、というわけだ。
今までも、度々…とまではいかないが、似たようなことがあった。
それは仕事のことだったり、ただ単に人間関係のことだったり、彼女自身のことだったり。酒に溺れる理由は様々。
だが圧倒的に多かったのは、やはり仕事のことだった。
大学は違っていたが、孝子とは高校からの付き合いである。
どちらかと言えば消極的で悲観的な彼女は、自分の意思を伝えきれないことや他人の勢いに流されてしまうことが少なくなかった。
更にその失敗を悪く捉えてしまったりするものだから、なかなか上手く消化出来ない。
そのため少しでも気を紛らわそうと、酒に逃げるのだ。
「…何があったのかまでは言えない?仕事、だよね…?」
恐らく飲んでいた店が、自分の住む所よりもここの方が近かった。だから、やって来た。
しかしそれは本当の理由をカモフラージュするためではないかとも、唯は思う。
幾ら仲が良いとはいえ孝子の性格を考えれば、こんな明け方に突然やって来るとは考えられなかった。
つまり、受け入れてほしい、と。
耐え切れなくなりそうな気持ちを受け止めてほしいと、訪ねてきたのだろう。
恐らく申し訳ない思いで泣き出しそうになりながら……。
しかしそんなことを、彼女は自分の口から言うことなど出来ない。
「……10月、から…、」
ポソリ、と孝子が口を開く。
唯は「…うん」と柔らかく先を促した。
「…新しい子、入ってきて…。あたしより2つ下なんだけど、すごく気が利く子で、あたし焦っちゃって、そしたら失敗しちゃって、あたしの方が働いてる期間長いのにダメで、……―――」
酒が入っているせいか、平素に比べて饒舌な孝子。
俯き、サイドから流れる髪で隠れた瞳から、今にも雫が零れ落ちるのではと思う。
彼女の話に一切口は出さず、唯は時に頷きながら聞いていた。
唯は小さく溜息を吐いて、ダイニングの椅子に座る。手には部屋から持って来た、読みかけの小説。
すっかり目は覚めてしまったため、既に着替えてしまった。
孝子はというと、喋り疲れてなのか、ただ単に酒の飲み過ぎか。今は部屋のベッドで寝ている。
やはり溜め込んでいたのだろう、あれから彼女の話を聞き続けること1時間弱。
涙は流さなかったものの、くしゃくしゃに顰める表情に、見ているこちらも苦しくなった。
しかし幾ら孝子が弱くとも、彼女を厭になることはない。
自分のことを頼ってくれているからだろうか。
性格というものは、変えたくとも直ぐに変えられない。
もちろん唯自身、自分の嫌いな部分はあるし、変わりたいと思う時もある。
それを分かっているからこそ、自分の気持ちを理解してくれていると思うからこそ、孝子も唯の手に縋るのだろう。
自画自讃をするつもりはないが、こんな自分が好きだ。
中学時代、高校時代。そして大学時代から仲の良い友達は何人もいる。だが、孝子は特別だった。
彼女が好きで、だからこそ力になってあげたいと思う。
彼女の気持ちを分かってあげることが出来る、そんな自分が嬉しいのだ。
――…朝ご飯、何作ってあげようかな…。
そんなことを考えながら、上肢を天井へぐぐっと伸ばし。
椅子に座り直すと小説を開き、栞を机上に置いた。