キリュウは小さく喉を鳴らした。
 眼前にあるものは、村人たちの気持ちを振り切るようにしてまで臨んだ、悪魔の城。
 今まで山の麓に建っているとしか認識がなかったため、間近で見るのは初めてだ。思っていたよりも少し小さいが、それでも村の家屋の何倍もあり、これが突如ここに現れたのかと考えるとゾッとする。
 一体どのようにして一晩でここに建てたのだろう。……いや、悪魔なら造作もないことかも知れないが。
 そもそも、突如この地に現れた理由が分からない。災害が起こる以前から自給自足、物々交換という繁華地とは交流のない片田舎。まして伝記通り人間を喰らうのだとしても、ルバウトには数えるほどしか住んでいないのだ。このような地に来たところで利得があるとは思えない。
 村の皆に伝えることは出来ぬまま死を迎えることになるだろうが、可能ならば何故この地に現れたのか、その真実を悪魔に訊ねたいとキリュウは考えていた。
 ……気を紛らわすための思考もここまでだ。1歩前へ踏み出し見据えるのは、重々しく人の手では安易に開くとは思えぬような扉。緊張のため、大きく跳ね上がる心臓を深呼吸して落ち着かせ、少しばかり声を張り上げて城の主を呼ぶ。
 ――つもりだったのだが、息を吸ったその時、大きな音を立てて扉が勝手に開いた。その扉の向こうには誰の姿もない。自分がこの城に来ていることを、悪魔は見ている、ということだろうか。
 とにもかくにも、こんな所で立ち竦んでいるわけにもいかない。自分が動かなければ、何も始まらないのだから。震えそうになる脚を、強く踏み締めることで紛らわせつつ、1歩1歩と城内へと足を進めた。
 仄かに灯る光に沿って歩き、広いホールのような所へ出る。
 それにしても、ここも、ここに来るまでも自分の足音しかしない。まるで誰もいないかのような、とても静かな…、言い換えれば酷く閑散としていた。まさか、誰もいないと油断させておいて、一気に襲ってくるのだろうか。自分の末路を想像してしまい、キリュウは身震いがした。
 その時、正面から靴音らしきものが耳に入る。響き渡るそれに身体を強張らせ、恐ろしいまでの悪魔の姿を目にした。
 ……そう思ったのだが、初めて見る悪魔の容姿に肝を抜かされた。想像していた、つまり伝承されてきた悪魔とは、全く以て違っていたのである。
 自分とそれほど変わりないように見える背丈。しかし自分の茶褐色の髪やくすんだ藍色の目とは違い、腰まで伸びた艶やかな漆黒の髪と、吸い込まれそうになる葡萄(えび)色の眸。見惚れてしまっていた。そう言っても、嘘ではなかったかもしれない。
 だがかつてこの悪魔が現れた時、城へとその正体を見るために向かった青年たちは、悪魔がいたと言った。図体が大きく、闇を思わせる漆黒の髪と瞳を持つ者を見た、と。それが目の前の悪魔であろう者に当てはまるとは思えない。
 一体どういうことなのだろう。彼らが見た悪魔は、この者とはまた別の悪魔だったのだろうか。予想外のことに頭は上手く働いてくれない。
 尤もそのような呆けた思考は、悪魔の声によって途切れさせられ、現に戻された。
「……で、突然生贄を出した理由はなに?」
 淡々とした、感情を見せぬ声。吸い込まれそうになった眸も今は射殺されそうなほど鋭く、恐怖からか逸らせない。
 しかし何故キリュウが生贄であると知っているかは分からないが、悪魔が改めて訊くのも無理はない。今こうしてキリュウがここにいるのは、あくまでルバウトの住民が一方的に決めたことだ。
「……この身を贄として捧げる代わりに、ルバウト――あの村に今後一切手を出さないでほしい。それがこちらの要求だ」
 悪魔と会話をするなど極力避けたかったキリュウは、自分が今ここにいる理由を簡潔に述べる。そう、贄としてここへやって来た理由は、ただ1つ。ルバウトに住む人たちの身の安全だ。それ以外は何もない。だからこそ余計なことも言う必要はないだろう。
 すると何が可笑しいのか、くっと黒髪の悪魔は笑った。
「何年も手出ししてないのに、今更なんじゃない?」
 彼の言葉は尤もだ。悪魔の城がルバウトに現れて既に5年になる。これまで彼は村に手を出すどころか、姿すら見せたことはなかった。そのことを切り出されては、何も反論は出来ない。どうすれば納得し、こちらの要求を呑んでくれるか、キリュウはまだ大人に成り切れぬ頭で思い巡らせていたのだが。
「まぁいいか、契約成立ってことで。君が生贄としてここにいる代わりに、君の村には今後一切手を出さない。それでいいよな?」
 悪魔はまるで何でもない約束のように言葉を交わす。勿論、悪魔にとってはさほど重要なことではないかもしれない。しかしあまりに軽率すぎる承諾に思わず緊張は綻んでしまい、悪魔が何か聞き慣れぬ言葉を呟いた気がしたが、特に気に留めることはなかった。


 その時ルバウトでは、見慣れぬ生物に村全体が騒然としていた。尖った嘴、細い2本の足、赤い目。翼を含む全てが黒に覆われた、鳥に類似しているそれが突如村に現れたのだ。
 しかし現れてから一刻近く経つが、一向に動く気配はなく、その瞳はただひたすらに空(くう)を見つめている。このままでは埒が明かないと、1人の青年が小振りの鋤(すき)を持ち、恐る恐る近付こうとすると、
「ひぃっ…!」
 突然赤い目をギロリと向け、青年を睨み付けた。射殺されそうなほど鋭く光らせた目に、彼は腰が抜けてしまい尻餅をついてしまう。
 こうなれば、皆で動くしかないだろう。村人たちはそれぞれに振り下ろせるような物を手に、少しずつ鳥を囲うように近付いていく。1歩、2歩、3歩……。鳥をぐるりと囲い、捕らえられる距離まであとほんの数歩、という時だった。
『我は、山の麓に住まう悪魔だ』
 まず村人たちは、目の前の鳥が言葉を発したことに耳を疑った。話す鳥など目にしたことなどない、一体どうなっているのだろうか。それでも喧騒が直ぐに治まったのは、「悪魔」という言葉が出てきたからであろう。山麓に住む悪魔、つまりキリュウが向かった城の悪魔のことだ。
 皆は声を、息を潜め次の言葉を待つ。
『少年を生贄として頂く。その代わり今後一切村には手は出さないことを約定しよう』
 その言葉を、村人たちはどのように受け止めたのだろうか。今後ルバウトが悪魔に襲われるという、目に見えぬ恐怖はなくなった。それは非常に喜ばしく、重い苦しみが救われる思いだっただろう。しかし、それはあくまで少年≠フ犠牲があったからこそ、得られるもの。決して失ったものがあることを、忘れるわけにはいかないのだ……。
 因みにこの鳥は烏と呼ばれるルバウトには在世せぬ種で、それが発した言葉からも分かるように、悪魔の使い魔である。ルバウトには手を出さないとキリュウと交わしたその直後、村に放していた。キリュウが訊き慣れない言葉を彼は呟いていたが、それはルバウトに使い魔を放つための呪文だったのである。
 使い魔である烏の言葉によって、悪魔とキリュウのみの口約束だけではなくなったことなど、キリュウ自身知る由もない。そのため贄を差し出すとはいえ、こうした口約束をいつまで遵守してくれるのか全く以って確証は持てないはずなのに、彼の眸を見ているといい加減なことを言い、この場から去ろうとしているとは思えなかった。
 何故だろう。先程と同じように決して穏やかではなく、鋭いことに変わりはないというのに、その眸はどこか惹かれるものがあり、どこか優しい。そんな矛盾した思考がキリュウの中で巡っている。
 すると何が可笑しいのか、悪魔は嘲笑った。何だか莫迦にされているようで、眉間に皺を寄せ睨み付けたのだが、
「身体、震えてる」
 こっちに来なよ。
 そう言われ、キリュウは身体を強張らせる。隠し通そうとしていた失態を見破られたからではない。言われるまで自分では全く気付いていなかったのだ、身体が震えているなど。1度気付いてしまえばそれは嫌になるほど目に付き、頭で考えるまでもなく解ってしまう。
 一向に動こうとしない――実際は震えていることで上手く動けなかったのだが――ため待っていても無駄だと思ったのか、悪魔は立ち上がりキリュウの手前まで歩み寄った。次いで腰を下ろし、左膝のみ床に付けた状態で、立てた右脚に少し身を乗り出すように腕を乗せる。
 直ぐ目の前にある、葡萄色の眸。近くで見ればみるほど、不思議だが吸い込まれてしまいそうなほど惹かれる。その一方で嘲るその表情とビリビリと伝わる威圧感が、彼は悪魔だと、気を許してはならないと警告音が煩く鳴り響く。
「別に取って食べようなんて思ってないし。この城には、俺と君しかいないんだから」
 ここで、キリュウはこの不気味なほどの静寂さの理由に、納得がいった。何も不思議ではなかったのだ。彼以外誰もいないのならば、物音1つないのは当然だろう。
 それにしても、何だか変だ。身体は震えているのに、やけに頭だけは冷静でこの状況を理解している。ふぅ…、と大袈裟に溜息を吐く悪魔。それが、話しかけているのに自分が殆ど反応らしい反応をせず、今は何をしても無駄だ、と思っているとキリュウは解っていた。
 悪魔は右膝に乗せた手に体重を掛け、立ち上がろうとする。それは初めて、彼がキリュウから視線を逸らした時だと解った。そして、今は頭だけではなく筋肉・神経全てを動かさなければならない、ということも。
「…ッ」
 今だとばかりに、キリュウは悪魔の左肩を掴んで全体重を掛けた。バランスの崩れた悪魔の身体は思い切り床に叩き付けられ、鈍い音と共に口唇から小さな声が漏れる。そうして倒れた悪魔を跨ぐように乗り、短剣を彼の眼前に突き付けた。
 後ろ手に手首を縛っていたはずのキリュウが、悪魔を押し倒しその手には短剣が握られている。それは決して縛っていた縄が緩かった、もしくは解けやすくしていた、というわけではない。そんなことをしては悪魔に怪しまれるため、解けぬよう固く結んでいた。この状況を導き出した理由は、キリュウが袖口に短剣を忍び込ませていたことにある。
 これは、村の者たちの考えではない。悪魔の懐に飛び込むことが出来るならば自分の手で彼奴を倒してやると、彼自身がそう思ったのである。たとえ交渉が成立したとしても、完全に恐怖が拭えるわけではない。それは悪魔が死してルバウトから去ってこそのもの。
 これで此奴に怯え生きる必要もない。幸せな時間を過ごすことが出来る。以前の幸せな生活が脳裏を掠め、頚部を通る血管に短剣を振り下ろそうとした、その時。
 キリュウの眼に映ったのは、閑寂に笑う表情(かお)―――。
「刺さないのか?」
「―――!」
 その言葉に、キリュウは自分の手が固まっていることに気付いた。剣先は未だ悪魔に触れさえもしていない。先程身体が震えていた時といい、何故か彼を目の前にすると自分の意識の外で身体が反応している。そう、まるで彼に魅入ってしまったように、自分が今何をしていたのか分からなくなる。
「ほら、」
 するとそう言って悪魔は自分の頚動脈へ、短剣とそれを握るキリュウの手を共に引き寄せた。剣先が肌を掠め、姿を現す赤い鮮血。このままでは、悪魔にされるがまま、彼の頸に突き刺すことになる。状況を理解した時、キリュウは思いがけない行動に出ていた。
「…ッ、は、離せっ」
 思わず自分の腕を掴んでいる、悪魔の手を振り払う。その弾みにキリュウの手から抜け、金属音を立てて広い床に滑り転がる短剣。
 自分でも何を言っているのか、何をしているのか分からなかった。勝手に口が言葉を紡ぎ、身体が動く。彼を、村を怯えさせている元凶を亡き者にするため、ここに来たというのに。何故…、何故この絶好のチャンスに、自分は……。
「君だって、本当はこんなとこで死にたくないんだろ? 俺を殺しなよ。そうすれば村に帰れる」
 何も言葉が出てこない。声を出そうとしても、カラカラに渇いてしまっている喉からは、辛うじて二酸化炭素が排出されるだけだ。視線を悪魔から逸らし、今度こそ動かなくなった頭で、必死にこの状況と向き合おうとするものの、どこかでそれを拒んでいる自分がいる。
 微動だにしないキリュウに痺れを切らしたのか、自分に跨る彼を押し退け悪魔は身体を起こした。しかし尻餅をつくように床に放り出されても、自分自身の不可解な行動に信じられないキリュウは未だ動かない。ひんやりとした床を虚ろに見つめたままだ。
「あの剣は持ってていいよ。取り上げるつもりはないから」
 その声に、キリュウは視線をゆっくり悪魔へと上げる。彼が顎で差す先にある物は、先程キリュウの手から離れた、微かに鮮血の跡が見える短剣。
「いつでも殺しにくればいい」
 悪魔はまるで戯れているような笑みを作ってそう言い、踵を返し奥へと姿を消して行った。
 ただ独り残されたキリュウ。ふいに後ろを振り向き、視界に短剣が入ると重い腰を上げてそこまで足を伸ばす。次いで再び座りその剣を手に取ると、やけに存在を主張している先端の血を、指で拭った。
 悪魔は、この短剣は持っていて構わないと、そしていつでも殺しにこいと言った。それは本気で言っているのだろうか。それとも、絶対に殺すことなど出来ないという余裕の表れなのだろうか。分からない。あの冷冽(れいれつ)な笑みの裏で何を考えているのか、全く分からない。
 それにこの命はどうなるのだろう。悪魔を亡き者にするためここへ来たとはいえ、贄として死の覚悟はあったのだ。
 自分が持って来たはずなのに、少しばかり生命≠吸い重くなった短剣を、投げ出したくて仕方ないとキリュウは思った。

 

 

 

 

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2006.6.11



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