懐かしい香気

 ひとまずエクサルは、リリィの世話をするよう正室であるソフィア=アークトレスに頼んだ。ここにいる以上、せめてこの場に似合う服装をしてもらわなければならない。城の者が不審に思わないようにするため、疑いの眼で見られないようにと彼女のことを思って考えたことである。
 そして、その間に頭の奥から引っ張り出してきた古い記憶を辿り、数え切れぬほど置かれている本棚の中から一冊の本を探し出した。
 一体何処から集めたのか、三メートル近くはあるであろう棚がズラリと並ぶ書籍館。城内、いや王国内最大のこの書籍館には、古くから伝えられている神話や伝説などに関する本も多くある。
 幼少の頃から…、そして今でもエクサルは本を読んでいる。そのジャンルは問わず、ここにある本の半分以上は読破したであろう。
 エクサルはその昔、ある伝説の本を読んだと思い出した。国で内乱が続き、誰も止めることは出来ずに権力者たちは見ているだけ。壊滅寸前であった。そんな時、一人の小女が国を治めている者の前に現れた。彼女は不思議な力を使い、どうすることも出来なかった戦乱を、いとも簡単に鎮めたのである。
「――…『こうも簡単に止められたのならば、何故もう少し早く現れてくれなかったのか、と思う。そうすれば、多くの死者を出さずにすんだはずだ。…いや、今更こんなことを言っても仕方ない。あの名も知らぬ小女がいたからこそ、この国は生き返ったのだから……』」
 探し出した本の最後の文を読み終えると、深い溜息をついた。まさにこの伝説と同じことが起こっている。壊滅寸前とまではいかないが、止められる者がいないのは事実。
 ――本当に…リリィという小女は、平和をもたらしてくれるかもしれないな……。
 そう思いながら、書籍館を後にした。

 

 国王のここ何代かは常に側室がいた。戦乱中ということもあり、国を滅ぼさせないという考えがあっての結果である。数人もの女(ひと)を娶ることが良いことだとは、国王自身思っていない。だが、いつかは任期が終わる。跡継ぎがいなければ、それと同時に国も滅んでしまう可能性が高いのだ。
 ところが、だ。エクサルに子供はいない。ソフィアが子供の出来ぬ身体だという謂れはないが、未だいないのも事実。更に、生涯愛するのはただ一人だと言い、娶っているのは正室のみ。
 今までは若いからと、大臣たちが無理やり側室の者を探させることはしなかった。だからと言って、そろそろ跡継ぎとなる子を産まなければならないのだ。エクサルの身に何も起こらず、任期を終えることが出来るとは限らない。彼の父である先代国王がまさにそうであったのだから。
 そのことは、エクサルもソフィアも重々理解している。国王という立場にいる以上、我儘を突き通すことなど許されない。もし自分の代で戦乱が終わらなければ、次の代に託さなければならない。
 形だけ、と言ってしまえば簡単である。しかし跡継ぎのためだけに他の者を抱けるほど、彼は出来ていなかった。この国のためとは言え、結果的には彼も正室であるソフィアも跡継ぎを産んだ女性も、そして生まれてきた跡継ぎの子も。皆何かしらで傷つくと眼に見えている。
 それでも彼はこの国も、彼女以外愛さないことも譲ろうとはしない。周りから見れば、何故そこまで拘るのだ、の一言。その理由を、ソフィアは知っているのだろうか……。

 

 

 城内の浴室で湯浴みをした後、ソフィアはリリィを連れてある部屋に行った。そこはかつて、王女と呼ばれる正室の娘が使用していた部屋。今は清掃をするために使用人が出入りするだけで、誰も使用していない。
 クローゼットの中には、そう幾度も着ていないであろう服が何着も掛けられている。サイズもかなり小さなものから、大人でも着ることが出来そうものまで。
 ソフィアはそこから彼女に似合いそうな、桜色のドレス――と言っても、たいそうなものではない。腰の辺りで軽く絞ってあり、裾は大きく広がっている。ワンピースに近いだろう――を出して着衣させた。運良くサイズは丁度である。
「……ありがとうございます」
 リリィはここに来て、初めて自分から口を開いた。二人の間に会話が全くなかったわけではないが、ソフィアの言葉に「はい」「いいえ」などという、簡単な答えを返しただけだったのだ。
 不思議な力を持ち、この国を救ってくれるかもしれない。とは言っても、まだ十歳に満たない小さな小女。何故このような小女のか細い肩に、一国の運命を背負わせなければならなかったのだろう。もし力を持たずに生まれてきたのならば、普通の生活を……。そう考えて、軽く頭を横に振る。
 もしも、なんてことは考えても仕方のないこと。それよりも折角口を開いてくれたのだから、少しでも打ち解けることが出来れば、とソフィアは話しかけた。
「お父様とお母様は、まだ村の方にいらっしゃるのですか?」
 夫は彼女だけをオートコルダー城に連れて来た。普通考えれば、彼女の両親は村にいるままであろう。しかし、
「――…二人とも死にました……」
 俯きながら言うリリィを見て、そのようなことを話させてしまったソフィアは自分を責めた。そして寂しそうな顔をしながらも、微笑おうとする彼女を見ていられなくなり、優しく抱き締める。
「ごめんなさい…辛いことを思い出させてしまって……」
 声が震える。なんて莫迦なことを口に出してしまったのだろう。詳しい話は後に夫から聞けばいいという考えが浅はかだった、と今更ながら深く深く後悔する。
 それでも、腕の中にいる小女は、ソフィアの言葉に苦しむことはなかった。寧ろその反対で。
 この人は、本当に私のことを想ってくれている。同情なんかじゃない……。リリィはそう思ったのだ。
 ――…お母様の匂いがする…。
「……あったかい…」
 心の中で思ったことが、口から出てしまった。殆ど聞こえないほどの小さな声だったが、彼女を抱き締めているソフィアにはしっかり届いていた。それに気付いたリリィは恥ずかしくなり、顔をうずめるようにまるくなる。
 この子を…、この小さな小女を独りにしてはいけない。
 誰か支えになるべき者が、この小女には必要だと思った。それが、自分が出来る精一杯のことだと思ったのだ。

 

 

 エクサルとソフィアの寝室は、隣同士にある。しかし普段出入りする扉とは別に、この二つの部屋だけを結ぶさほど大きくはない扉があった。二人がお互いの部屋に行く時は、殆どこの扉を利用している。
 軽くそれを叩き、隔てた向こう側から返事が聞こえたことを確認すると、ソフィアは部屋に入り、夫の元へ歩み寄った。
「あの子は眠りましたわ。やはり疲れていたみたいで……」
「そうか。すまなかったな、ソフィア」
 リリィは一人でも大丈夫だと言ったのだが、ソフィアが一緒に、と彼女の部屋に連れて来た。つまり今リリィが眠っているのは、先程まで彼女がいたソフィアの寝室である。二人の間に気まずい雰囲気はなくなり、安心しきったような寝顔を見られたことに、安堵の笑みを零していた。
「……ねぇ、貴方」
「何だ?」
 ベッドの端に座り、机に向かい何かを書いている姿を見ていたのだが、ふと意を決したように呼びかける。その声にペンを休め、上半身だけを捩じった。
「私、あの子を養子として引き取りたい」
 考えてもみなかったことに、エクサルは驚きの表情を隠せなかった。正直、もし戦乱を止められたとして、その後のことなど頭になかったのだ。それを少しばかり予想していたソフィアは、彼の表情にさほど驚くこともなく、ゆっくりと今の自分の気持ちを伝える。
「あの子のご両親、もう亡くなられているのでしょう? 辛い思いを沢山しているかもしれない。……少しでも…、少しでもいいから、あの子の力になってあげたいの。あの子に安らぐことの出来る場所を与えてあげたいの……」
 まだ跡継ぎが産まれないから、という気持ちは微塵もなかった。ただリリィのことだけを想って。そんな彼女の想いを聞き入れないはずがなく、少し考えて、エクサルは次のような返事をした。
「明日、戦乱のことについて彼女に話そうと思っている。その時に、私から言ってみよう」
 これは本当に嬉しく、ありがとう、と綺麗に微笑む。そしてその顔を見て、エクサルも綻んだ。
 ――君が傍に居てくれたからこそ、今の私が在る。本当にそう思うんだ、ソフィア……。
 即位し、ソフィアを正室に迎え入れてから丁度五年。今まで幾度となく彼女の存在が支えになっていると感じてきた。そして今日もまた然り。
 心の中で呟いた想いは、本人に直接伝わることなく消えていった。

 

 

 

 

 

第一話 / 第三話    


2004.9.7



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