生と死の窮地(はざま>)

 セントキエティム王国の内乱が鎮まってから、八年の月日が過ぎていた。
 約束通りリリィはこの国の第一王女となった。澄んだ茜色の瞳をそのまま携え、未だ幼さが垣間見られる心優しい少女へと成長している。
 本来プリエルビスという力は、戦乱を平定する程の力は一生に一度しか使えない。そのため、平定した後は祈りを捧げることにより、戦乱のような大きなものだけではなく、小さな揉め事が起こるのを最小限に防いでいる。それが、かつて彼女の両親が伝えた「柱」となるという意味。
 日々自室で陽が出、没する時に独りで。そして月が満ちた日は国民の前に姿を見せ、彼らと共に国の安定を祈る。
 しかし彼女の祈りは、あくまでセントキエティム王国内のみである。他国の様々な感情など、左右することは出来ない。たった一人の我儘が一国を追い詰めることは、案外容易いものだったのだ。
「――…失礼致します」
 自室で書類に眼を通していたエクサルは、突如背後から聞こえた聞き憶えのない声に、身体を捩った。それと同時に椅子から立ち上がる。
「貴方様には恨みなどありませんが、私に下された命令です。お許し下さい……」
 そこには隣国である、メダデュオ帝国の紋章が刻まれたマントを着衣した、まだ若めの男が立っていた。青年、と言うべきか。服装を見た限りは平兵士のように見える。
「! き、みは……」
 言葉を言い終えぬ間にエクサルは一気に距離を詰められ、剣で左胸を刺された。
 それと同時に青年は何か呪文を唱え、剣が引き抜かれ自分の脚で支えられなくなった身体は、青年の方へ傾く。脱力した身体は予想以上に青年に重く圧し掛かり、一瞬脚がふらつくも体勢を持ち直し、ゆっくりとベッドへ下ろした。
 しかしエクサルの意識ははっきりしていた。心の臓を刺されたというのに痛みもさほどなく、不自由なのは力の入らない下肢のみである。どうなっているのか見当も付かなかったが、その答えに結びつく言葉は、彼が請わずとも知ることとなった。
「……五分です。直ぐに第一王女がここに来られるでしょう。短い時間ですが、最期の想いを彼女にお伝え下さい」
 それは、エクサルの命が尽きるまでの時間。それ以上は生きられない。青年が唱えた呪文――実は魔法なのだが、確信はなかったもののエクサルはそうではないかと感じていた――による、残された短い命である。
 何故自分を殺すために来た彼が、わざわざ魔法を使ってまでリリィと話をさせようというのか。その意図はもちろん全く理解出来ない。だが今は彼が言った言葉が本当ならば、ここに来るという彼女を待つのみ。

 

 青年が暗い瞳以外を隠すように顔に布を覆うと、時宜を得たように幾つかの足音が聞こえてくる。
 お連れ致しました、という堅苦しい言葉と共に現れたのは、プリエルビスを使いこの国の内乱を平定した、まだ幼さの残る少女……。
「お義父様っ!!」
 自分の周りにいた兵士を跳ね除けるようにエクサルに駆け寄った。
 突然自室に見知らぬ人たちが入ってきたかと思うと、有無を言わせずに国王の所へ案内しろと連れて来られた。この時リリィは、何故恐らく他国の者であろう彼らが城内にいるのかという疑問ではなく、もしかすると既に義父の所に誰かいるのでは、という不安が頭を駆け巡っていた。
 決して多いとは言えぬが、確実に幾人かいる警備の者たちが動いている気配などなかった。さすればさほど迷うことなく自室に来た可能性もある。城内を知り尽くしている者、若しくは魔法を使う者がいれば容易いこと。それはエクサルとて同じことが考えられる。
 兵士たちを振り切って彼の元へ駆けようと思ったが、それにより事態が悪くなるかもしれないと、逸る気持ちを抑えここまでやって来た。
 そして彼の傍に寄り分かったことは、左胸が紅く染まっているという信じ難い事実だった。一瞬悲鳴をあげそうになったが、寸前の所で喉の奥に飲み込む。
「リ、リィ…。すまない、お前には色々と辛い思いをさせてしまった……」
「何を…、私はそのようなこと思ったことはありません。アークトレスの名を与えていただいたこと……後悔など、していません…!」
 それは彼女の本音。
 内乱を平定することが出来れば捨てられると思っていたのに、自分を養子として引き取ってくれた。リリィ=フェイルではなく、リリィ=アークトレスと生きていくことに不満も躊躇いもなかったのだから。
 小刻みに震える手を、とにかく今は傷を治そうと左胸に添えたが、彼女は無力であった。
 いや、当然のことなのだ。エクサルの身体からの流血はない。傷は塞がっており、紅く染まった服を捲ればそれに気付くだろう。彼を刺した青年の魔法が、彼を生かしているのだ。それがなければ、恐らく既にこの口唇は何も紡いではいない。
 しかしそのことを知るよしもないリリィは、自分の腑甲斐ないためだと、大粒の涙を零す。
 ――だ、め……、お義父様が死んでしまう…!
 頭が真っ白になってしまっているリリィは、とにかく何か話さなければと思っていても、言葉は何も出てこなかった。そして五分という非常に短い時間は無常にも刻々と過ぎてゆく。エクサル自身、もう時間が来ていると悟ったのだろう。リリィ、と小さく名を呼び、俯いていた彼女と視線を合わせた。
「これからお前にとって、決して幸せな時間(とき)を過ごせるとは限らないだろう……。それでも…、自分を見失わずに生きてほしい……」
 視界が止まらぬ涙で霞んで見える義父の表情は、とても穏やかであった。いつも自分に見せてくれる、優しい微笑み。その笑みも、ゆっくりと落ちる瞼の奥で消えていく。
「……お義父様…。い、や…!」
 リリィはその場に泣き崩れた。否、そうするしかなかった。眼の前で義理とは言え父親が死に、それは自分のせいでもあると思っているのだから。
 確かに殺したのは何も言わずにそこにいる青年だろう。しかし本来ならばリリィはプリエルビスを使い、傷を癒せた。繋ぎ止めることが出来たはずの命を、そうすることは出来なかった。そんな自分が許せなかったのである。
 たとえ青年の魔法のためだと知ったとしても、同じ思いかもしれない。自分の力は到底魔法には敵わないのだと、腑甲斐なさを痛感するのだ。
 スィフレ暦九九八年、セントキエティム王国国王エクサル=アークトレス死去。
 享年三十六歳であった。

 

 

 一人の少女が泣き続けるという、変わりない場景だけが眼に映る。
 このままこうしていても埒が明かないと、青年はリリィの腕を引っ張り、立ち上がらせた。そして俯いている彼女の顎を自分の方に引き寄せる。こうでもしなければ、自分の話は到底聞き入れてもらえないと思ったからである。
「リリィ第一王女。皇帝の命により、我々と共にメダデュオ帝国へ来ていただきます」
 口を覆った布によりくぐもった声は、何だか張り詰めているようにも聞こえた。今のリリィには、そのようなことを判断する力など、もちろん持ち合わせていなかったが。
「――…お義母様……」
 ソフィアは書籍館にいた。ここは彼女たちがいつもいる普通塔とは少し離れているため、誰にも邪魔をされることがないのだが、つまりは何かが起こった時に知ることの出来ない場所でもあった。
 ここにリリィが来ることは稀である。
 本が嫌いだというわけではなく、寧ろ好きだった。しかし冊数が多すぎて、どれを読もうかと迷ってしまう。ならば、とこれまでソフィアはリリィの好むような本を探し、彼女に渡してきた。今もそのためにここにいたのだが……。
「リリィ? 一体どうし……」
 どうも様子がおかしい。ふと視線を彼女が入って来た方へ向けると、そこには幾人もの兵士。彼らが纏っているマントの留め具には鷲を象った紋章が刻印されていた。
「ま、さか……」
 その紋章はメダデュオ帝国のものだと理解すると同時に、頭の中で警鐘が鳴り響く。そして縋るように駆け寄って来るリリィ。その瞳には涙を溜めて。
「ごめんなさい…! 私…お義父様を助け、ることが……っ!」
 彼女の推測は良い意味ではなく、悪い意味で裏切られなかった。隣国の者に、夫が殺された。
 警備が手薄である、そのことも原因かもしれない。
 リリィが内乱を平定してからというもの、それといった大きな問題などは起きていない。彼女だけでなく、国民全員が平和を祈り続けているからこそ結ばれた実なのだ。
 そして内乱が起こっていたとはいえ、隣国と平和条約を結んでいる以上争い事が勃発するとは考えられない。それならば、わざわざ厳重に警備をする必要はないのでは、とのことである。
 それが甘い考えであり、大きな誤算であったのだが。
「……顔を上げなさい、リリィ」
 普段の優しい声ではなく、凛とした声にリリィは涙で濡れた顔を上げる。その表情もまた、『母』ではなく『王妃』としての凛としたものであった。
「メダデュオ帝国に行くのですね?」
 一度目を伏せながらも、リリィは静かに頷いた。
 ここに来たのはそれを伝えるために。詳しい事情は話せそうにないが、囚われる前にいつも自分の傍にいてくれた義母に、会っておきたかった。
「リリィ…、酷なことかもしれないけれど、貴女には生きてほしい。それが私の最後の願いです」
「お義母様……」
 優しく微笑むと、ソフィアはリリィをゆっくりと抱き締めた。
 もう二度と、こうやって抱き締めてあげることが出来ないかもしれない。いや、抱き締めることが出来ないかもしれない。本当の娘のような存在であった彼女を。
 必然的に、ソフィアは最愛の家族を失くしたことになってしまった。あの幸せな日々はもう、戻ってこない。

 

 

 こうしてリリィは、彼女を書籍館に連れて来た兵士たちと共にメダデュオ帝国へと向かった。そして偶然なのかそうでないかは分からないが、彼女と入れ違いに一人の青年が入って来る。
 セントキエティム王国国王であるエクサルを殺害した青年である。
 彼は自分がここにいる理由や、リリィがこの後どのような扱いを受けるかということを全てソフィアに伝えた。
 エクサルを殺したのは自分だということも。
 しかし彼女は彼を責めることなく、寧ろリリィをお願いします、と頭を下げたのであった。

 

 

 

 

 

第三話 / 第五話    


2004.9.11



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