氷碧の瞳と交わらぬ想いと |
運命に流されるだけの、そんな生き方を望んだわけではなかった。 同い年の義弟より自分の意思をしっかりと持ち、尚且つ彼のそれは間違った道を行くものではないため、本来は誰も口出しをする必要がない。しかし彼が生きるためには、自分の意思というものを捨てなければならなかった。 誰にも逆らわず、敷かれたレールをただ進むだけ。それがここでの生活で身に付けた生きる術であり、許される行為である。 「ユリス。明日より隣国セントキエティム王国へ行き、エクサル国王の命。加えてリリィ第一王女をここへ連れて参れ」 何もかも見透かされているようで、気分が悪いと忌み嫌っていた深い紺碧色の瞳を持つ青年に、謁見の間への出入りを禁止してから既に幾年もの月日が流れていた。 それが何を思ってか皇帝自ら彼をそこへ呼んだならば、先程口にした命令という名の我儘だった。 「……第一王女を略奪し、どうなさるつもりですか?」 あの数十年と続いた内乱を鎮めたという噂が飛び交った幼き少女。隣国であるがゆえ、メダデュオ帝国内で彼女の名を知らぬ者は殆どいなかった。 もちろん彼も皇子という立場にいるため、彼女がどのような者であるかは耳にしている。養女として育てられたということも。 「なに、興味があるのは彼女自身ではなく、彼女の力だ。一国を纏め上げた力を欲しいと思わんか?」 その彼女を、誰もが慕う国王を失うことは、ようやく手に入れた平和な日々を失うことと同じなのだと分かっているのだろうか、と思う。 平和条約を締結しているにも拘らず、築き上げた幸せを毀し、一体何が面白いというのか。我が父ながら、全く理解出来ぬ男だった。否、理解したいとは思わないが。 「……分かりました。その命、承らせていただきます」 それでも自分の心を表に出せないため、二つ返事で承諾するしかなかった。 そしてその言葉に声を出しそうになったのは、何故か彼と共に呼ばれた義弟。彼もまた、義兄のことを思えば何も口出し出来ぬ立場にいる。自分の後先見ない言動によって、運が悪ければその命さえも奪ってしまうかもしれないのだから。 こうして第二皇子は、数年ぶりに足を踏み入れた義兄を連れて謁見の間を後にした。この後、暗い瞳を携えた彼に何と言うべきだろうかと、寝室に辿り着くまで終始口を閉じたまま。
リリィは囚われた後も、セントキエティム王国で暮らしていた時と同じように祈りを捧げていた。たとえ生きる処が違ったとしても、彼女は自分が生まれた国の平和を祈る。それこそ自分が選んだ路なのだから。 しかし何処の地を踏んでいようと、陽は昇りそして沈む。当たり前のことのはずなのに、薄い金糸雀色をした透明ガラスの窓を通して掌に伝わる暖かさは、日々眼にしてきたものとは違う陽のようで居た堪れなかった。 と、扉を叩く鈍い音が聞こえ、こんな朝早くに誰なのだろうと小さく返事をした。 大袈裟な音と共に姿を見せたのはつい昨日自分を怒鳴りつけ、そして義父を殺害したこの国の第一皇子、ユリス=ウォレンサー。 「やはりもう起きていたか。……祈るだけでも『気』を使うってわけ、か」 どうやらプリエルビスは魔法と同じ原理らしく、祈る時に使った『気』を感じた彼はこの部屋に足を運んだようだ。 リリィより幾分も大きな窓から射し込む陽によって、彼の髪は褐緑色にも萱草色にも見えた。瞳に至っては柔らかな光を帯びている。 暫しそれらから眼を逸らせなかったのだが、ふと我に返り、昨日から気になっていたことを訊ねようと思った。今は優しい瞳の色をしている。今ならばそれほど躊躇わずに訊けるだろう、そう思って。 「――ユリス皇子…、お伺いしたいことがあるのですが……」 ところが、返ってきたのはそれに対しての返答ではなく、思いがけない言葉であった。 「……その敬語は止めろ。名前も呼び捨てで構わねえ」 「ですが、私は……」 自分の身分がどうであろうと、一国の皇子である彼に敬意を表するのは当然のこと。まして、リリィは今セントキエティム王国の第一王女である以前にこの国に囚われた、一人の少女なのだ。 何も出来ない、ただ無力な少女でしかない。 「堅っ苦しい呼び方されるよりはいい。それに昨日はここでの立場がどうの言ったが、お前は何不自由なく暮らすことになる。……お前だって、敬語使う必要のない奴がいた方が楽だろ」 この時初めてリリィは、彼が本当は自分のことを考えてくれていると知った。 一晩昨日のことを考えていると、確かに彼は揶揄していたのかもしれないが、あの状況で義父を殺した者だと言えるはずがなく、相手にすれば自分が発した言葉が偽善者めいたものに聞こえたのも、また事実。 何より慕う者がユリスの傷を治した時傍にいただけでも、かなりの人数だったのだ。人の価値は数で量るものではないが、少なくとも慕う者がいる人間であるということ。だからこそ知りたかった。 「あの、……失礼かもしれませんが、何故皇帝様の命に従うだけなのですか?」 ユリスの表情が微かに曇る。しかし陽の光でそのことに気付かなかったのか、リリィはそのまま言葉を続けた。 「昨日…、ヴィラ皇子が、貴方は魔法を使えると教えて下さいました。ならば、貴方のお考えを皇帝様に申し上げても構わないのではありませんか…?」 「うる、せえ……」 魔法を使えるということは、『気』を引き出しコントロールする。それは並大抵のことではなく、余程信用ならない人間でない限り、その力を政治に最大限に活かすべきなのだ。 彼の言動が、この不安定な帝国を変えることが出来る。しかし彼は全くと言っていいほど活かしてはいない。 「貴方を慕う方たちまでも辛い思いをさせているのに、何故黙って見て―――っ!」 言い終える前にリリィの胸元を掴み、勢いよく壁に押し付ければ部屋中に鈍い音が響き渡る。 恐る恐る顔を上げればこちらを睨み付けるその瞳は、昨日眼にしたものと同じ、深い闇を閉じ込めたかのような色を映し出していた。鋭く、咬み付かれそうなほどに。 「お前にとやかく言われる筋合いはねえ! ……実の子みたいに大事に育ててもらったお前に、俺の気持ちが分かってたまるか!」 吐き捨てるように綴る彼に言葉が詰まる。一体彼は何を抱えているのだろうか。何故このような瞳をするのだろうか。 我に返ったのか困惑した表情を作ったユリスは腕を離し、彼女を放ったまま部屋を後にする。 その後リリィはゆっくりと床に腰を下ろしたのだが、彼の言った言葉が頭の中で繰り返され続けていた。
ここ数日、ユリスは眠れぬ夜を過ごしていた。 原因は自分がセントキエティム王国より捕らえてきた、第一王女リリィ=アークトレス。 決して彼女を心の底から嫌っているわけではない。幼き時に唯一の血縁者である母を亡くしたため、養女として実子のように愛されたということを妬み、恨めしく感じているのは事実。 しかしそれ以上に、彼女にそのような感情を抱いている自分自身に苛立ちを覚えていた。こんなにも自分は弱い人間だっただろうか。何て子供染みた感情に振り廻されているのだろうか、と。 幾ら何でもこのままでは身体が持たないと思ったユリスは、城内にいる女医に睡眠薬を頼んだ。 彼女はユリスの母、ターナ=ウォレンサーと仲が良かったため、ターナが他界した後も色々と面倒を見てくれた。ユリスにとって、母代わりであったと言える。 この国で彼が本音を曝け出せるのは、恐らく彼女と義弟のヴィラだけであろう。 胸の奥からふつふつと湧き上がる焦燥感と、穢れきった自分自身と。それらを洗い流すために、自室の洗面室で俯き頭から水道の水を被っていた。 しかし生温い水は、望みを何も叶えてくれない。後頭部から項、頸、頬、髪先へ、ねっとりと纏わり付く様に流れていく。 絶えず吐き気がした。 だからと言って、この水から離れてしまえば更に耐えられぬ感覚に陥る。それを分かっていたからこそ、逃れることが出来なかった。 「……抑えてきた意味はなし、か…」 彼以外誰もいないこの部屋で呟いた言葉は、水の音に掻き消される。 寧ろ、その反動で強く当たってしまった。まさか彼女があのようなことを口走るなど、思ってもいなかったのである。思わず怒鳴ってしまったが、後悔という名の渦の中をぐるぐると廻り続けていた。ところが。 「――っ!?」 一瞬記憶が飛んでしまいそうなほど、急に眠気が襲ってきた。咄嗟に勢いを付けて壁に凭れかかる。 今朝女医から受け取った薬は先程飲んだばかりだというのに、効果が現れるのが早過ぎる上、彼には相当強かったようだ。 ――…っ、この薬効きすぎ、だ…… 何とか流れ続ける水の元は閉めたものの、瞼は重く下りてくる。おぼつかない足で壁を伝いようやくその部屋から出たユリスは、ベッドに転がり込むように深い深い眠りについた。 遠くで聞き覚えのある声がして、ユリスの意識は一気に浮上する。もしかすると薬の効果が切れたからかもしれない。 少し掠れた声で小さく唸り、そっと瞼を持ち上げれば誰かがこちらを覗き込んでいた。 「起きたのか、ユリス」 それは、血こそ分けていないが本当の兄弟のように互いを信頼し、ユリスにとってなくてはならない存在である義弟のヴィラ。 どうやら睡眠薬のお蔭で短い時間でも熟睡出来たのか、思ったより頭はスッキリとしている。髪を乾かさずに寝たため少し冷えてきた身体を起こし、ベッドに掛けていた上着を羽織った。 何か用事か?と見上げ、ヴィラに伺う。何やら躊躇っているようだったのだが、 「第一王女と、少し話をしてきた」 僅かな沈黙の後、ゆっくりとヴィラが口を開いた。 「……ごめんなさい、だってさ。また彼女に何か言ったんだって?」 その言葉に、ユリスは顔をふいと逸らせる。そんな彼に、仕方ないなぁというような表情を表し、目線が合うように腰を屈めた。 「彼女にお前のこと、話した方が良くないか? このままだとお前だって……」 「俺のことを話して何になるって言うんだ。どうせ同情紛いの感情を持たれるだけだろ」 「ユリス!」 一向に眼も合わせようとしないユリスに、ヴィラはさすがに腹を立てて彼の胸倉を掴み、ぐいと引き寄せる。ベッドの端に座っているため、もう瞳すら逃げ場はなかった。 「お前、あの日からおかしいぞ!? 昨日だって、まだ心身共に不安定な状態にあるっていうのに、追い討ちをかけるようなことを言って……。たとえ二つだと言っても、彼女は俺たちよりも年下で――」 「そんなこと分かっている!」 大声を出すとは思っていなかったようで、思わず掴んでいた服を手放した。 「……分かっているけど、どうしようもねぇんだ。俺だって今直ぐにでも逃げ出したい…」 ようやく彼の本音を聞いた気がした。 昨日リリィに会わせてからというもの、ヴィラ自身気まずくなり、珍しく今まで口を聞かなかったのである。どうして昨日のうちに腹を割って話をしなかったのだろうかと悔やんだ。 自分が、自分だけが…―――。 「っ、ちょ…、ヴィラ!?」 急に視界が暗くなったと感じたユリスは、ヴィラが自分を抱き締めていることに気付いた。突然のことに少しばかり動揺の色を見せる。 「……ごめん。俺が一番にお前のこと、分かってやらなくちゃいけないのに…。ごめん、ユリス……」 抱き締める腕を振り解こうとしていたが、ヴィラの何だか泣きそうな声に空を彷徨っていた手は彼の背中へと小さく廻った。 温かい……。人の温かさを、ここ数日忘れていたのかもしれない。 自分のことを優しく包み込んでくれる彼がいるからこそ、自分は幾度となく弱音を吐いたとしても直ぐに立ち直れたのだろう。 捕らえた少女にガキだ、などと言ったが、一体自分は誇れるほど出来た人間なのか? いや…、違う。余程自分の方が感情をコントロール出来ぬガキだ。 リリィに会ってから、自分の厭な部分ばかり見えてしまう。そして、今まで自分がしてきた言動が間違っていたようにさえ感じる。 ふとヴィラの腕の中でそのようなことを思った。 「……謝りに行ってくる。それから…、また彼女をあそこに連れて行くつもりだが、構わねえか?」 あそことは、ここより少し離れた所にある原野、言わば自然に出来た庭園である。 誰が足を踏み入れても構わない上、警備も何もない。本当に誰の手も加えられていない自然の宝庫。 「うん、それがいい。こんな狭苦しい所に閉じ込めておく理由もないんだし」 服を着替えたユリスは、帰ってくるまでここで待っているとヴィラが言ってくれたので、リリィの部屋に向かおうと廊下に出る。 だが、扉を開ける直前に足を止めた。彼はこちらを向き、 「ありがとう、ヴィラ…」 そう言って微笑んだ。久しぶりに見た、ユリスの痛みのない笑顔。 助けてやりたい。暗い暗い闇の中から彼を救い出したい。 そんなことを思い始めてから、一体何年が過ぎたであろうか。まだまだ自分は子供。大切な人を助けられるほど、大人に成り切れていない。 個々それぞれの想いは未だ交わることなく彷徨い続ける。 そして囚われた少女もまた、彼らと同じ無力の自分という過去を背負う者であった。
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2004.10.11 「larme」top |