朱の刺青

 幸せ、とは何なのだろう。
 人によって皆違う幸せ。ほんの些細なことでそれを感じる者もいれば、それでは満足出来ぬ者もいるだろう。
 誰だって常に幸せでありたいと願う。それは人間であれば当たり前のことだが、自分だけ幸せで在り続けたいと、心の内だけでも願えぬ者がいるのもまた現実。
「う、わぁ…」
 まず足を踏み入れた時、溜息しか出てこなかった。
 眼の前に広がる翠々とした草原。星屑のように散りばめられた色様々な花や蕾。
 どこまでも果てしなく続くのではないかと思うほど、遙か遠くまでこの景色が在った。恐らく日々足を向ければ、季節折々の鮮やかな色を魅せるのだろう。
「ここは誰の手も加えられていないのでしょう? それなのに、こんな…。自然の力、なのね……」
 不意に腰ほどまである蒲公英色の髪が風で揺れ、瞳を細めた少女――リリィは、眦が熱くなるのを感じた。
 生まれ故郷、セントキエティム王国も内乱が鎮まった後は、皆が協力した甲斐があり、かつてのように緑豊かな自然の多い国へと戻った。しかし、ここは人の手を借りずとも美しい景観が広がっている。
 幾ら多くの金銀、人手を使おうとも、それによって壮大なものが完成しようとも、所詮は擬い物の美しさ。到底この大自然には敵わない。人とは何と小さな生物なのだろうかと、そう感じる。
 そして人間とは違い、純粋な心を持ち自然界で生きるため研ぎ澄まされた感覚を持つ動物たち。人を怖がらないという以前に、彼女から発せられる微かな『気』を感じ取ったのかもしれない。
 青空を飛んでいた数羽の小鳥は自分たちからリリィの方へ向かって来た。そっと腕を伸ばせば、彼らは白い指先へと羽を休める。
 その様子に、リリィは思わず顔を綻ばせた。可愛らしいという言葉が似合う、年相応の笑顔。
「あんな風に微笑えんのか」
 メダデュオ帝国に来てから始めて眼にする表情に、ユリスは少なからず安心した。
 先日彼はリリィに謝罪を申し出、自分も気に障るようなことを言って申し訳なかったと彼女自身、瞳に涙を溜めて謝った。くしゃくしゃになった顔は、今も鮮明に思い出される。
「……そうさせなかったのは、俺が原因だろうがな」
「ユリス……」
 自嘲めいた笑みを作る彼を見て、ヴィラは少し耐え難く表情を顰めた。
 ユリスとリリィは打ち解けたとはお世辞にも言えなかったが、避けることはなくなった。結局はユリスが折れ、それに対しリリィが受け止めれば丸く収まることだったのである。
 と言いつつ、本当の自分を曝け出すことはしなかったし、互いに相手の深い心の傷を刳るような真似をするつもりもなかった。尤も後者は無意識のうちにではあったが。
「あいつ…、俺がセントキエティム王国の国王を殺した時のこと、お前に話したのか?」
「いや、何も聞いてないけど」
 あの日のことを思い出すほど、今の彼女にとって辛いものはない。
 それをヴィラ自身も分かっていたため、知りたいという気持ちはあったがあえて口には出さなかった。もちろんユリスに対しても同じことが言える。
 それを悟り、義弟には本当のことを話すべきだと思ったため。頃合かもしれないと、この大空の下で懺悔するかのように口を開いた。
 ユリスがエクサルに傷を塞ぎ、ある種の安楽死である魔法を使った理由は彼のため、そして自分自身のためでもあった。
 皇帝の命令に逆らうことは許されない。とはいえ、一国の王を自分の手で殺めることに躊躇いは持っており、苦しみながら息絶える姿を見たくはなかった。何より、血の繋がりはなくとも、幾年も共に過ごしてきた彼らの幸せを奪うのだ。避けて通れぬ道だというならば、たとえ少しの間でも会わせてやりたい、と。
 それは、幼い頃に実母を亡くしたユリスだからこそ思い入れが強かったのかもしれない。
「……親父の操り人形でしかない俺には、どうすることも出来なかった。だから…、せめて少しでもあいつと話せるように魔法を使った……」
 本来ならば、リリィの義母、そしてエクサルの妻であるソフィアもその場に呼ぶつもりであった。
 だが彼女がいた場所までは距離があり――『気』を研ぎ澄ませることにより、相手の『気』を捜すことが出来る。彼らがエクサルやリリィの部屋に警備の者に見つからず辿り着けたのも、そのためだ――間に合わないであろうと踏んでいたからである。
 だからこそリリィがソフィアに会った後、ユリスは彼女に全てを話したのだ。
「――ただ…」
「…ただ?」
 何かを思い出したのか、小さく呟く。先を促そうとヴィラは同じ語を反復したのだが、ユリスは何でもないと首を振り、真意を全て聞くことは出来なかった。

 

 広い広い草原に腰を下ろし、リリィは小鳥たちに話しかけていた。彼女が話す言葉を理解しているかどうかは分からないが、それが却って彼女の心を軽くしていたのである。
 そして、ふと思った、返ってくるはずのない問い。
「同じこの星で生きているのに…、どうして貴方たちは自由なの…?」
 小鳥はチッ?と首を傾げる。その予想通りの可愛い仕種に、思わず苦笑いをした。
 本当はこの小鳥たちのように、自由に飛び廻りたい。プリエルビスという力にも、王女という立場にも束縛されない自由という憧れ。
 決して嫌なわけではない。寧ろ他の人の苦患を治癒することが出来る、自分の力に今までどれほど喜んだことか。国中の人々が王女となることを受け入れてくれた時、どれほど嬉しかったことか。
 それでもそんな誰にも言えぬ想いを、彼女は胸の内に秘めていた。

 

 

 ここに来てから何刻か経ち、陽も既に真南の方角から光を放っている。そろそろ城に戻ろうかとヴィラがリリィに声を掛け、駆け寄ってきたのだが。
「私…」
「え…?」
 俯いていた彼女が、ぽつりと零した言葉。聞き逃すまいと耳を傾けていたのだが、硬く締めてしまった口唇からその続きが紡がれることはなかった。
「――何でもありません。気にしないで下さい」
 未だ敬語の抜けきれぬ言葉に少し眼を細めながらも、先に足を進め始めたリリィを追いかけるように二人は駆ける。
 ――…今ここで気持ちを伝えれば、私の願いを叶えてくれるかもしれない。でも…、それは許されないこと。お義父様やお義母様、セントキエティム王国の方たちを…。私を信じ、共に祈りを捧げてくれた方たちを裏切ることになってしまう。それに……。
 リリィは――多くの人々を救った――掌を見詰め、ギュ、と握った。
 立場だとか、そんなものは関係ない。皆、せめて自分の眼の前にいる人だけでも幸せであってほしい。哀しい思いをしてほしくない。ただ、それだけだった。
 何より、リリィ自身、今は幸せだった。セントキエティム王国での幸せは壊れてしまったが、それとはまた違う形で幸せだと感じられるようになってきている。
 …ユリスとヴィラが傍にいてくれるから。彼らが傍にいてくれれば、この地でも強くなれる。そう思っていた。
 だが、運命は彼らを弄んでいるのかそんな日々は長くは続かず、恐れていた事態に陥ってしまった。平和条約を締結していたもう一つの王国、ボワフォレ王国にカーザズ皇帝が攻撃を仕掛けたのである。
 その知らせを耳にしたユリスはいても立ってもおられず、本来踏み入れてはならぬ謁見の間へ迷わず足を進めた。
 当然出入り出来ぬよう立っていた二人の警備の者が彼を止めたが、聞くはずがない。ギッと睨み付ければ彼らは闇に囚われたような感覚に陥り、思わず身体が硬直してしまう。今だと言わんばかりに扉に飛び付いたユリスは、重いそれを煩い音を立てて動かした。
「父上っ!」
 一人でいるには広すぎる部屋。その最奥で、椅子に踏ん反り返り座る父の姿があった。
「一体何をお考えなのですか!? ボワフォレ王国に攻撃するなど…! 今直ぐ降伏して下さい!」
 これほどまでに、彼の前で怒りを露にすることはなかった。それが身のためでもあったからだ。
 しかし今、ユリスにこの怒りを静めさせる術などない。怒鳴りつけなくとも十分に聞こえる距離ではあったが、声を抑えることすら出来なかった。
 そして何も答えようとしない父に、もうユリス=ウォレンサーという第一皇子の立場など頭から薄れつつあったのだが。
「父上!」
「…お前に、私の言動に意見する権利があると思っているのか?」
 その静かな言葉に、先程までの威勢は消えてしまう。
 自分にそのような権利はない。分かっている。分かっているが、どうにかして今回のことは考え直してもらいたい。
 リリィの力なのか、少しずつ帝国内の様々なことにおいてゆとりが出来てきている。安定しつつあるというのに、それをまた振り出しに戻すつもりなのか。
「ですが…!」
「黙れ!!」
 珍しくカーザズは声を張り上げた。決して温厚とは言えないが、権力という言葉だけで全てを丸め込むことが出来るのだ。罵声を浴びせる必要などないに等しい。
 そんな彼が張り上げたということは、いつまでも食ってかかるユリスに対し、相当苛立っているということ。このまま引き下がらなければ、何を言い出すか分からない。
「私は降伏するつもりなど微塵もない。それが分かったのなら、早くここから出て行くのだ」
 爪で傷付きそうなほど握り締める掌は小刻みに震え、それを抑えるために下唇を噛む。彼が言える言葉は、もうこの一言しかなかった。
「……失礼、致しました…」
 消え入りそうな声を聞き満足したような、嘲るような笑みを見せた父の顔を、ユリスは知らない…。

 

「ッ…く、…そ!」
 拳で壁を叩いたため、鈍い音が廊下に響く。こうでもしなければ、感情が抑えきれない。
 再度腕を大きく振り上げ勢いよく叩き付ければ、白壁に薄っすらと朱の染みを作った。その手を擦り付けるようにゆっくりと腕を下ろしていく。
 こんな痛み、ボワフォレ王国に住む者たち比べれば何ともない。父である皇帝命令の攻撃により、一体どれほどの国民が傷ついたのだろうか。出来れば考えたくもないと思う反面、心のどこかでそんなことを思う自分が許せなかった。
 自分に、死など恐れぬほどの強い心があれば。ならば、この力を使い今直ぐにでも降伏し、少しでも多くの人々を救うのに。
 誰かが動かなければ、この国は何も変わらない。自分の腑甲斐なさを悔やみ、小さく唸り声を漏らす。
 背後からコツ、という音がした。咄嗟にその方へ身体を捩れば、眼に映ったのはリリィ。こちらを窺うように恐る恐る声をかけてくる。
「…ユリ、ス皇子……?」
 彼らが過ごす部屋と謁見の間は塔が違うため、こちら側の塔に来ることは滅多にない。与えられた部屋から出るなと決められているわけではないが、さすがに城内をうろつくことはしなかった。
 そんな彼女がここにいるのは、怒りによって無意識のうちに放出していた僅かな『気』を感じ取り、足を進めた場所にユリスの姿が在った、ということか。
「どうし…――」
 そう言った直後、彼女の視線は壁に張り付いている手に移った。
 それに気付いたユリスは何でもない、と朱く色付いた腕を思わず隠そうとしたのだが、彼女は見なかったことなどにはしてくれない。有無を言わせず引っ張り、神経を彼の傷付いた手に集中させる。そこには微かな光が燈っていたため歯軋りを立てた。
「っ…これくらいに力を使う必要はねえ!」
「嫌です!」
 震える泣きそうな声に、振り払おうとした腕が無意識に止まる。眼前の茜色の瞳に浮かぶ雫に、言葉が詰まる。彼女の前では自分が自分でなくなっていく…。
「自分自身を傷つけるのは止めて下さい。何があったのか教えてくれだなんて、言いませんから…、お願い……」
 彼女は思っていたより表情豊かで、よく涙を流すと最近知った。尤も、後者の原因が自分であるという自覚はあったが。
 温かい掌に包まれていた手から、痕跡は姿を消した。初めて眼にした、プリエルビスの力。彼女の力に助けられたのはこれが二度目である。
 腹部の傷痕は未だ消えてはいないが、刺されたあの時は本当に死んだ、と思った。しかし気が付けば何の不都合もなく眼を開けることが出来、そこにはヴィラの安心したような表情。上肢を起こせば右腹部に僅かな痛みを感じる。
 そこで、自分は生きているとようやく分かった。
 彼女に話すべきなのだろうか、何もかも全て。それでもどこかで躊躇う気持ちが在る。話したところでどうせ自分は変われはしない。変わることなんか、ない。
「……もう、隠さなくてもいいだろう」
 一寸の沈黙を破るように、彼より若干高めの声が静かに廊下に拡散する。
「ヴィラ…」
「ここにいる以上いずれは知ることになる。それに変わるとか変わらないとか、そんなこと気にしなくていい」
 リリィの細い肩に手を乗せ、彼女に同意を求めるような笑みを向ける。もちろん何のことだか分からないため、不意に現れた彼に微かに濡れた瞳を少し見開かせたが。
 そしてユリスはと言うと、俯かせていた顔を上げ小さく分かった、と返事をした。
 一歩踏み出せなかった理由を歯牙にもかけなくてよいと、構わないと言ってくれたのだ。偶然ではあったが、それだけで心は軽くなった気がした。
 存外自分は単純なのかもしれない。今はただ彼女に自分のことを伝えるだけ。言い訳になるかもしれないが謗言を吐いてしまった、その理由を知ってもらいたい。
 話の筋が見えてこないままリリィはヴィラに手を引かれ、謁見の間より一番近い彼の部屋に足を運んだ。
 こちらの塔はどの部屋もほぼ同じ造りになっており、彼女が過ごす部屋のものと類似する大きな窓から差し込む陽に、思わず眼を細める。そしてベッドに次いでここを占領しているソファに座るよう促された。
 ところが直後何を思ってかユリスはマントを肩から外し、上半身に纏っていた服を脱ぎ始める。果たして露になる彼の上肢。
「――…そ、れは…」
 リリィは息が詰まりそうになり、それ以上何も言うことが出来なかった。
 ほどよく引き締まっているものの、男性としては白く細身の身体。そんな肌に刻まれていたのは、先日リリィが力によって治した傷痕。
 そして、明らかにそれとは別の…、朱い痣という数え切れぬほどの爪痕であった。

 

 

 

 

 

第六話 / 第八話    


2004.11.29



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