砕けゆく脆き心 |
閑散とした部屋にいるせいか、固唾を飲み込む音がやけに脳内で響く。背けたい視線は、縛り付けられたかのように動かすことが出来ない。 現実という名の真実から逃れたいと思ったのは、これで何度目だろうか。 だからと言ってそれが叶うはずもなく。この空気に耐え難かったのだが、ベッドに腰を下ろしたユリスがそっと口を開いたため、長く長く感じた一寸の沈黙は破られる。 「ヴィラは義弟といっても、父母共に違う。俺は皇帝と血の繋がりはない」 前夫を亡くした後、ユリスの母であるターナはユリスと共に現皇帝カーザズの元に嫁いだ。 それ以前に配偶はおり、彼女との間に皇子――ヴィラが生まれていたのだが、偶然か彼女は側室という扱いだったためにターナが正室となった。 そして生誕月の早いユリスが第一皇子、ヴィラが第二皇子とされた。 こうなれば母親同士気まずくなる。と思われたが、正室・側室という立場だからといって寵愛を受け優遇されることはなく、年頃も同じであったため互いに気兼ねなく過ごすことが出来た。 寧ろ贔屓の対象になったのは数年後、彼女の息子たち。共に剣術に長けていたのだが、唯一の相違はユリスは『気』をコントロールし、放出することが可能であった。つまり幼い頃から興味を持ち学んでいた魔法が使える才知を、持ち合わせていたのである。 本来ならば血の繋がりがないといえど、自分の息子というポジションにいるならば泣いて喜ぶところだ。それほど魔法を使用出来る者は少ない。 だが、その血筋が問題だった。皇帝にとって実子ではなく義子だけが持っているとなれば、面白くとも何ともない。 結果、あまり身体が丈夫でなかったため風邪を拗らせ、二十一歳という若さでターナがこの世を去った後、当時四歳であったユリスに対する虐待が始まった。泣き叫び、止めてくれと懇嘆する彼の声など耳の片隅にも入れない。 何度ヴィラの母が彼を優しく包み、ヴィラが元気付けようと笑みを保ち続けただろうか。 彼を高く評価していたのは事実。ただ彼自身ではなくその才知だけである。逆らえば待つのは死のみ、そんな言葉を常に教え続けてきた。 刻み込まれたものは、消えぬことのない刺青と死の恐怖。 思わずリリィは彼の胸膈に小刻みに震える掌を伸ばしていた。ひんやりとしているのは、曝されたままであったという理由だけではないだろう。 度重なる残酷なまでの待遇で冷たく≠ネってしまった身体。 この身体を、心を温めたい……。そう思って掌に力を集めたが、それを与えることは出来なかった。そっと離せば…いや、そんなことはしなくとも感じ取れる。何も変わっていないと。 「たとえお前の力でしても、痣になったもんを消すなんて無理だ」 既に諦めた、受け入れたような声色を漏らす。それが一層リリィの哀しみの傷を刳るのだ。 「こ…な…、ひど……」 ――…実の子みたいに大事に育ててもらったお前に、俺の気持ちが分かってたまるか! 以前言われた言葉の真意を漸く理解した。 望んだように温かな義父母に出会えた自分と、そうではない彼。彼の皇帝、即ち義父に対する気持ちなど、到底分かりえない。 眦が熱くなる。涙が、溢れそうになる。それを必死に耐えようとする彼女を見て、ユリスは大きな掌を彼女の頭に乗せ、視線を自分の方に向かせた。 「……別に同情されたいとか思ってねえ。ただ、…ただ、口実かもしれねえが分かってほしかった。お前に強く当たったこと…」 リリィはその言葉に小さく首を振る。 口実だなんて思っていないと、そして何も分かっていないのに偉そうなことを口走ってしまって、本当にごめんなさいと伝えることが出来たのは、それから暫く経ってからであった。
ユリスが本当のことを話したためか、少しずつ彼とヴィラに対してリリィは敬語を使わなくなっていた。共に自分たちのことを信じてくれていると実感し、非常に嬉しかった。 好意を抱いている、ということではない。それこそ兄妹のように。 そしてそれぞれに、この幸せな時間は最後の足掻きだと頭では理解していた。していたけれど、事が起こってしまった時には悲嘆せずにはいられなかった。 「チッ…、あのバカ一体どこに行ったんだっ」 カーザズが攻撃を仕掛けてから数日後、シナリオ通り、といった感じだろうか。ボワフォレ王国の兵士たちがメダデュオ帝国、いや直接コレデュスッド城に侵入してきた。 とはいっても、まだ小手調べと言わんばかりに、ほんの十数人。そのためユリスとヴィラが参戦する必要もなかった。 殺さぬようにと監視の者たちに言い聞かせ、兵士たちを牢獄に囚拘した後、自国の誰一人負傷した者がいないという報告を耳に入れ、胸を撫で下ろした。 しかし安心したのも束の間、気付けばリリィが城内のどこにもいないのである。 自由に城外へ行きたいという彼女の願いは、ヴィラが皇帝に許可を請うことで叶った。 どういう思いで許可したのかは分からないが、ユリスにリリィの略奪を命じた時、彼女自身ではなくその力のみを欲していると言っていたことは無関係ではないだろう。 それでも彼が息子たちにリリィを任せたことに関しては、彼女自身、そしてユリスとヴィラにとっても嬉しい誤算であった。 たった独りで暗い闇のような牢獄にいる必要がなくなったのだから。 とにもかくにも、恐らく彼女は城外にいる。ただ、ボワフォレ王国の兵士が一人、上手く永らえて自国に戻って行ったのだ。 捕らえた兵士たちの話では、一般国民に手を出すつもりは未だないとのことだが、もしリリィと顔を合わせていれば、服装によって城内に住まう者だということは一目瞭然。 その者がリリィのことを知っているならば放っておくだろうが、その可能性は極めて低い。皇子であるユリス・ヴィラにしても名しか耳にしていなかったほどなのである。 捕らえた隣国の王女ではなく、一人の少女として。彼女を傷つけられるわけにはいかなかった。 しかし城外にいるであろうという見当は付いたが、それほど遠くまで行っていないだろうといえど、コレデュスッド城の何倍もの広さだ。安易に捜せるとは考えられない。 こうなれば、頼るのはただ一つ、第一皇子の力……。 「リリィの『気』で捜すことは出来ないのか?」 繰り返すようだが、『気』を研ぎ澄ますことにより相手の『気』を捜すことが出来る。 ユリスがオートコルダー城に侵入した時も、それによってエクサルとリリィの居場所を容易く捜し出したのだ。だからこそこれが最良な方法だと考えたのだが。 「それが…、何故か翳んだみてえに掴めな――」 言葉が途切れたことに疑問を持ち、何か見付けたのかと振り返れば、そこには片膝を地に付け蒼白めいた顔をしたユリス。微かに震えているように見えるのは、気のせいだろうか。 「ユリス!?」 「な、んだ…、あれは……」 どくん、どくんと大きく心臓が脈打つ。全身の神経が危険だと警告を出す。 突如ユリスの頭に流れ込んできたのは、プリエルビスの力を使用する時に発せられる煌めいた光ではなく、漆黒…というほど艶やかでもない。闇のような重く暗い光。 それでも確かに、 「リリィの『気』だ……。ヴィラ、巽の方角、に…リリィがいる…!」 途切れながらも早口で伝える。焦りの見える声色にヴィラも何かを感じたのか、 「分かった。俺行ってくるから…、無理はするなよ!」 彼の身体を気遣い巽の方角へと走った。願わくは、彼女が無事であらんことを―――。
先の見えぬ終着点へ向かって走り続けるということは、体力的にはもちろん、精神的にも苦痛を強いられる。一体どこまで、いつまで走れば良いのだろうか。……無意識に動く脚を止めれば、何もかも楽になるのだろうか。 果たしてリリィは城外にいた。今日が初めてではなく、皇帝の許しを得てから幾度と外へ足を運んでいた。 その目的は、国民たちの疾病を治すため。 この国には大差、とも僅差とも言い難かったが、明らかに貧富の差がある。それはこの国の地を踏んだ時にも感じたこと。 一番の原因である人物は名を言うまでもないだろう。義子とはいえど、息子であるユリスの話すら聞こうとしないのならば、彼に意見を言う者など他に誰もいないと言っても過言ではないはずだ。 そのため治療したくとも金銭的に出来ない者たちを、少しでも助けたいと思った。 しかし、未だコレデュスッド城の周辺付近に暮らす者たちだけである。セントキエティム王国とさほど変わらない面積だと耳にしたことがあるが、そう考えれば自分がしていることはただの自己満足でしかないと思う。 それでも以前ユリスに言った言葉を撤回するつもりはなかった。もう、眼の前で人が死ぬところを見たくはない……。せめて、眼に映る人たちだけでも幸せであってほしい。 だが、今日のことはあまりに予想外であった。 先日のように一軒一軒足を運び、少し離れた次の家に向かい一人で歩いていると、どこからか微かに人の走る足音が聞こえる。この辺りに住む人だろうかと首を伸ばしたことが間違っていた。 そこにいた者は兵士の服を纏い、剣を携えている。この国でも、ましてセントキエティム王国の兵士の服装でもない。となれば、恐らくボワフォレ王国の者……。 その時に、咄嗟に隠れていれば何事もなかったのだ。 しかしカーザズがボワフォレ王国に攻撃したことにより戦争が始まるのでは、と。また多くの無関係な人が亡くなってしまうのではと考えてしまい、その哀しみから視野が狭くなっていた。 そして一般国民ではなく、明らかに城内に住む者がいると気付いた兵士は、リリィに向かって足を進める。その動作に彼女はふ、と我に返り、運動するためにはあまりに不都合な服装で駆け出した。 どちらも自身で走っているとはいえ、当然ながらリリィの方が不利である。このままでは追い付かれ、恐らく殺される。 そんな時、不意に頭に言葉が出てきた。もう、二度と使わないと決めた魔法の呪文。 それを頭から掻き消そうと首を振るが、そんなことで消えるはずもなく。心の底では、死にたくないと、ただそれだけ。 死が、怖かった。今まで多くの人の死を見てきたからこそ、怖い。今の幸せを自分から壊したくなどない。 リリィは下唇をグッと噛んだ。脳裏に浮かぶのは、 お父様…お母様―――― 自分を産み、育ててくれた本当の両親。もう、この世にはいない両親の優しい笑顔。 「我 解き放つ…――」 それは、たった一度しか口に出してはいないのに、あの日から一度も忘れることの出来ない言葉。 リリィを一生束縛し続ける言葉。
「もう、リリィに教えることは何もない。良く頑張った」 くしゃくしゃと髪を弄ぶ父に、リリィは顔を綻ばせた。 プリエルビスを使う者は、国が大きく変貌を遂げようとしている時に現れると伝えられている。いつからなのかは分からないが、ずっとずっと、遙か昔からの言い伝え。 いつどこでプリエルビスの力を持った者が生まれるかなど、当たり前だが誰も知らない。だからこそもし自分たちの子供が力を持ってして生まれた時のため、代々力を引き出す法を口承していた。リリィの両親もまた然り。 もしリリィがプリエルビスの力を持たぬ子供であったならば、彼女も両親から口承していたということになる。それがフェイルの名を受け継ぐ者の、決められた路であった。 「……最後に一つだけ…、魔法を教えるわ」 「ま…ほう?」 微笑んだまま母が――リリィは気付くことはなかったが――どこか寂しそうな声色でそう言った。そして一枚の小さな紙切れを渡す。 「この紙に書いてある言葉を読むの。私たちの方に魔法が届くように」 皆を幸せにすることの出来る力、プリエルビス。その力とは魔法は違っているのかもしれないが、喜んでくれるのならば魔法を使うことを拒否するという選択肢は、彼女の中に存在しなかった。 今一番見たいものは、父と母の嬉しそうな笑顔なのだから。 「うん、わかった!」 この時、どうして疑問に思わなかったのだろうと、今でも深く後悔する。今までプリエルビスの使い方は直接教わっていたのに、何故この魔法はわざわざ紙に書いたものを読ませたのか、と。 未だ幼かった自分がそれを理解することは不可能であったということは、分かっているが。 何だか先程までとは違う張り詰めた空気に、リリィは大きく深呼吸する。そして、手元にある丁寧な母の字を声に出して叫んだ。 「――…われ ときはなつ。デシレモール!」 一瞬、眼の前が真っ暗になった。そして、何も聞こえない。周囲の音が一切消えてしまった。 リリィが持っていた小さな紙が、彼女の指からするりと地へ落ちる。 鎌鼬の如く放たれたそれは、二人の身体をいとも簡単に切り裂いた。ゴトリ、と離れ落ちた腕、脚。幾つにも切断された身体からは鮮血すら流れない。 ――わたしは何をしたの…? わたしは…… 次いで眼の前は朱い鮮血の色と化す。まるで眼睛に血を滴らせたかのように瞼からゆっくりと朱に染まっていくのだ。 自分ではどうすることも出来ない恐怖から逃げ出したくて、足を前方に進める。 「……お、父さま…、お母さま…?」 眠っているだけ、眠っているだけ…と、呪文を唱えるようにそっと母親の頬に触れる。それは人の温かみを持たない人形のようで。 焦点の合わない視線は更に父の姿を捜し出し、彼の傍に寄ろうと重い腰を上げ歩き始めたが、何か≠ノつまずいた。足元にあったものは、上膊からの母の片腕……。 「いや…、いやぁぁ!!」 もう、逃げようのない現実。 手は震え、歯はガチガチと鳴る。涙は止まる術を知らず、喉は嗚咽を漏らす。千切れ抜けそうなほど髪を引っ張る細い指は、穢れなど見せぬ真白いままだった。 まるで誰かが強制させたように静まり返ったここで、彼女の叫喚だけが虚しく響き渡る。
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2005.1.11 「larme」top |