誰を(おも)い流す(なみだ)なのか


 他の人を助けるためには、まず自分がこの世に存在していなければならない。自分が力を使うことで、初めて負傷者なり、疾患者を癒すことが出来るからだ。
 しかしそれだけが死から逃れたい理由ではなく、寧ろそのことよりも、ただ黄泉の世に行きたくないと思うことから、リリィは特別な人物ではないと感じ取れる。
 辛い過去を背負っているせいか、年相応に見えぬところがあるといえど、未だ十と六。いや、幼き時に両親を自分の手で殺めてしまったことにより、却って一部の精神のみ取り残されたまま成長してしまったのかもしれない。
 時に見せる彼女に不似合いな感情は、…感情をコントロールする力が不十分であるのは、それを教わらなかったからなのか。それとも失くしてしまったのだろうか。
 ふらふらになった脚を止め、左足を軸に方向転換すると同時にふわりとドレスの裾が広がる。
 浅葱色のシンプルなそれに身を包んだ彼女は、今から口にする言葉の持つ意味からは考えられぬほど、清らかで貴い姿だった。
「我 解き放つ…――デシレ…」
 この呪文を言い終えた時、眼前の兵士の身体は千切れ転がっているのだろう。安易にそれが想像出来てしまい、リリィは一瞬言葉が詰まってしまった。
 本当は殺したくなどない。それでも魔法を使わなければ、自分が死ぬ。自分の死か、それとも兵士の死か。
 その瞬間を見たくない、彼の悲鳴染みた声を聞きたくないと強く眼を瞑り、両手で耳を塞いだ上で再度口を開く。
 しかし言い終える直前に塞いでいるにも拘らず、直ぐ近くで剣の交わり、次いで弾け飛ぶ金属音が鮮明に鳴り響いた。
 不審に思い、瞳を開ければそこにいたのは……。
「ヴィ、…ラ…?」
 どうして、と口を開きかけたが、彼はそんなことは後だとばかりに彼女の腕を引っ張り、駆け始めた。
 ヴィラがあまりに強引に引くため、自分の思うように脚は動いてくれない。
 だが、そうでもしてもらわなければ今直ぐにも膝が折れ、そこから立ち上がることもままならないだろう。
 肉体的にも精神的にもボロボロである彼女にとって、一連のサイクルを崩されてしまえば再度走ろうと思っても、身体が言うことを聞いてはくれないのだ。
 因みに唯一の武器である剣を弾き飛ばされた、ボワフォレ王国の兵士はというと、既に遙か遠くまで行ってしまった二人を追いかけようとは思わなかった。
 彼とて折角永らえた命、更に危険を冒そうとは思っていない。この度のことを報告すべく自国へ戻って行った。
 その二人は、未だ一般国民に手を出すつもりはないという兵士の言葉を信じ、あえて民家の間を抜けて走る。
 時折どうしたんだと心配そうな顔を出す人たちに、ヴィラは大丈夫ですから、と笑みを向けた。
 そしてもう追いかけてくる気配はないと感じた時、ゆっくりと歩を弛めた。
「……ここまで来れば大丈夫か…」
 普段から日々怠ることなく鍛練を積んでいるため、殆ど息の乱れていないヴィラと違い、リリィは地に座り込み大きく肩を揺らす。
 少し急ぎ過ぎたかと思いつつ、声をかけることに躊躇いを覚え、彼女が落ち着くのを待った。すると微かに聞こえる、震えた声。
「ご…め、なさい……。私…、わた、し……」
 何のことに対して謝っているのか、全く分からなかった。
 何も告げずに城外に出たことだろうか。しかしそれは今日に限ったことではない。まして彼女が城外で何をしているのか、もちろん知っている。
 ならばここにはいない、誰か別の人に向けた言葉なのだろうか。それとも自分自身に――。
「もう…心配はないから。帰ろう、リリィ…」
 とにかく今は彼女を城に連れて帰ることが先決だ。何があったのかを訊くのは、それからでも構わないだろう。
 それに置いてきたユリスのことも心配である。
 手を差し伸べ立つように促せば、しゃくり上げながらそろそろと握り返し、ゆっくりと腰を持ち上げる。
 ヴィラに手を引かれながらすすり泣くリリィは、まるで我儘を聞いてもらえなかった小さな子供のように、重い足取りだった。




 城に着く頃にはようやく冷静になり、申し訳ないと言うようにリリィは小さく縮こまった。羞恥もあったのだろう。
 そしてこんな時でも気にしなくていい、というヴィラの優しさが、今の彼女にとっては辛いものでしかなかった。いっそ突き放してくれればいいのに。罵声の一つでも浴びせてくれればいいのに。余程その方が楽だった。
 コレデュスッド城の丹扉前にある階段に座り込む、少し顔色の優れないユリスを二人は見付ける。彼はリリィの姿を見て安心したのか、瞳を僅かに隠す前髪を掻き上げ、大きく溜息を吐いた。
 これほどまでに心配してくれている。やはり逃げるな、ということなのだろうか…。
 リリィは意を決し、話があるから部屋に来てほしいと二人に言った。ユリスは自分のことを話してくれた。だから、私も本当の自分を知ってもらいたい。
 そして、
「…本当の両親は、ね……、私が殺したの」
 彼女のあまりに唐突で驚愕な発言に、二人の皇子は眼を丸くした。
 義父母であるセントキエティム王国の国王・王妃のこともそうだが、彼女の産みの両親のことは何も聞いていない。
 十歳に満たないほどで養子として引き取られたのならば、既に亡くなっていたのかもしれないという考えはあったが、彼女が故意に殺したとは思えない。いや、まず考えられなかった。
 困惑する二人に、リリィは苦笑いの表情を作る。
「一つだけ教えてもらった魔法があったの。でもそれはプリエルビスとは正反対の、相手の命を奪う魔法で…。何も分かっていなかった私は、喜んで呪文を唱えたわ。両親を殺すことになるっていうのに……」
 再び鮮明に蘇る両親の肢体。心の奥底にある傷が、疼痛する。
 彼女が自身の力で彼らに死を与えてから暫くすると、時宜を得たように周囲から幾人か歩み寄ってきた。
 リリィにとって初対面ではなく、寧ろ近隣に住む顔見知りの大人たち。
 一人の女性がリリィの傍に寄り、何も言わずに彼女を抱き締める。そっと優しく、しかし何処かで何かを堪えて。
 人の温かみに触れたリリィは、女性に縋り付いた。そしてまた涙を流す。他の人たちが千切れた身体を大層な布で包み終えるまで、ずっと。
 両親は娘であるリリィと大人たちによって埋葬された。
 戦乱の絶えぬ当時、はっきり言って死人は少なくない。そのため大抵村に一つは、いつの間にか埋葬すべきとする処が出来ていた。決して清らかな場所とは言い難かったが、それでも原型を留めていない木々等の周囲よりは、幾分も増しである。
 リリィの両親は、彼女が運命(さだめ)に従いこの国を平定すると決心した後、近隣の人たちにそのことを話した。
 周囲の者に迷惑を掛けずにすることが出来るならばよかったのだが、生憎そういうわけにもいかない。
 特に、唯一である魔法を教え伝えたその後だ。それは確実に相手の命を奪う。自分たちのことは構わないとして、リリィには何としても自分たちの死を乗り越えてもらわなければならなかった。
 後のことは任せてくれ。そう言ってくれた近隣の人たちに、両親は泣きたくなるほど嬉しく思い、同時にここで彼らに出会えたことに心から感謝した。
 戦乱を平定すると言っても、それが真実であるとは限らない。眼の前にある確実なものではないからだ。それでもそれを信じ、助けてくれると……。
 両親が亡くなった後、リリィは彼らが書き残した手紙と共に、これからのことを聞かされる。
 今からどうすればいいのか。自分のすべきことは何なのか。
 そして、もう二度と両親の命を奪った魔法は使わないと決めたのも、この時だった。
「リリィ…、顔を上げて?」
 話がひとまず一段落ついたと感じたヴィラは、俯いたままの彼女に声をかける。そっと言われた通りにすると、やはり優しく微笑む彼がいた。
 虐待を受け続けたユリスもまた、この翡翠の瞳を携えた微笑みに救われたのではと、リリィはそう思う。
 まるでプリエルビスの力のように、心を快癒してくれる…、そんな力を持っているのではとさえ思うのだ。
「君は俺たちが護るよ。折角出会った、俺たちを照らしてくれる光…。失いたくないもの」
 略奪という彼女にとって悲惨な形ではあったが、この出会いを無駄にはしたくなかった。
 そんな臭い台詞に少しばかり顔を顰めたユリスだが、同意ではあると頷きながら彼女に笑みを向ける。
「ありがとう…、本当にありがとう……」
 そして自分をプリエルビスを使う者ではなく、一人の人間として見てくれる彼らが傍にいてくれたことに喜びを覚え、そう言った。
 生きたい。彼らの傍で生きていたいと思って。
 リリィを捜そうとしていた時、ユリスの頭の中に流れ込んできた禍々しい光は、彼女が無意識のうちにデシレモールの呪文を唱えようとしていたからであった。
 プリエルビスとは正反対の力。その発せられる光さえも全く違っているのか。
 『気』を感じ取っただけでも抑え切れぬほど、全身が警戒するほど恐ろしいもの。改めてそれがあまりに強暴なものであると、そして決して使わせてはならないものであるとユリスは理解した。






 ボワフォレ王国に攻撃を仕掛けてから、幾月が…――いや、恐らく一月も経っていない。経っていないというのに、このようなことを誰が想像しただろうか。
 カーザズ皇帝が、セントキエティム王国への攻撃命令を下していたということなど。
 セントキエティム王国に住む者たちはもちろんのこと、ユリスとヴィラが気付いた時は、もう既に遅かった。
 守備対策は間に合わず、攻撃中止を要請しようとも、それを聞き入れてくれるような人物ではない。ただ、共に見ているしか出来なかった。
 昨日から降り続く鮮血を洗い流す霧雨。多くの人の死を弔うかのように広がる灰色の空。総てを掻き消す氷のような風。何もかもが心を鬱にさせた。
 そして無駄に広い部屋に、少女の嗚咽が微かに聞こえてくる。
「お義母様……、ど、して……!」
 身体より一回り大きなベッドに突っ伏しているため、くぐもった震えた声。そのベッドのシーツは、既に幾つもの染みを作っている。
 ようやく手に入れた平和は、たった一度の奇襲によって奪われてしまった。
 一体何のためにここへ来たと言うのか。自分のためではない。ましてメダデュオ帝国皇帝カーザズのためでもない。
 自分の生まれ育った国を、共に過ごした人たちを想い、彼らにこのまま幸せな日々を送ってもらいたい。もう二度と戦乱に巻き込まれてほしくないという理由からだ。
 略奪された時、義母との別れ際。リリィにこの国は心配しなくとも大丈夫、と彼女はいつものふんわりとした笑顔を見せていた。
 あの笑顔を信じて、自分のプリエルビスの力を信じて離れたというのに。
 リリィは唯一の家族である義母のことが心配で堪らなかった。オートコルダー城は打ち落とされたと耳にしたが、彼女の生死までは分からない。だからと言って、怖くてユリスたちに本当のことを聞くことも出来ない。
 一方ユリスたちは、セントキエティム王国のことについて情報を掴んだとしても、それを口に出すことはしなかった。
 リリィがここに来た時から、決めていたこと。
 仮に彼女に、今まで話をしていたとしよう。
 もしセントキエティム王国に、王妃であるソフィアの身に何か起こったならば、哀しませないためにそのことは伏せておくだろう。だが突然話がなくなれば怪しまれる。もちろん彼女に嘘を伝えることなど出来ない。
 それならば、最初から何も伝えないでおこうと決めたのだ。それは今回のこととて同じ。
 何も聞けないリリィと、何も言えないユリスとヴィラ。互いに相手の思いを読み取るまでは至らなかったようである。
 涙が涸れ始めたリリィは項に手を伸ばし、小さな鎖を繋げている金具を外す。
 胸襟の下から現れたのは澄んだ茜色をした、掌にすっぽりと収まる塊。ペンダントとなっているそれは、紛れもなくセントキエティム王国が原産地であるグラセだ。
 両手でそれを包み込み、祈るように口許に寄せた。
 グラセは形・色は様々だが、それによって効力に違いがあるわけではない。大きければ強く、小さければ弱いということではないのだ。
 つまりはそれを使用する者の力による、ということ。
 リリィがかつて内乱を平定し、養子としてアークトレスの名を与えられた時。国王エクサルと王妃ソフィアは、彼女の瞳と同じ色のグラセを、ペンダントとして贈った。飾り気のないシンプルなそれは真白い肌に良く映えた。
 リリィが唯一彼らから貰った、形ある物である。
 このペンダントはメダデュオ帝国に来てから、誰一人見せようとしなかった。ユリスとヴィラにさえも。
 それは、ただの独占欲。
 誰にも触れてほしくなかった。セントキエティム王国での、あの幸せだった思い出に踏み込んでほしくなかったのだ。
 横たえていた身体をゆっくりと起こし、ペンダントを隠さぬよう再度金具を留める。
 色も装飾も抑えてあるドレスを常に身に纏っている彼女には、そのグラセのペンダントを表に出すことによって、ごく小さな物ではあるが違った印象を与えた。
 今の自分に出来ることは何もない。グラセを用いてでも祈るだけだと思っていた。
 しかしメダデュオ帝国の国民は、この国を支配している者ほど腐ってはいなかった。いや、寧ろ彼とは全く以って逆であった。




 飛び交うのは悲鳴か、それとも歓喜の声か。
 何やら城内が騒がしいと、朝早くから別塔の稽古場にいたユリスとヴィラは、人の集まる場所へと足を進めた。そこは、――…謁見の間。
 群がる人々を掻き分け室内に入る。眼前にいた……いや在ったのは、腹部から血を流し、蒼白めいた顔色をしたヒト。眼は見開き、歪んだ口から唾液が漏れている。
 あまりに醜態で卑猥な屍体。警備の者に取り押さえられた幾人かの国民の姿。そして、床に落ちている鮮血の付いたナイフ。
 その屍体は、言わずもがな皇帝カーザズだ。思わず二人共に慄いたが、先に冷静にこの状況を把握したのはユリスである。
 逃げ出すことはないだろうと踏んで、まず国民を取り押さえている手を放すよう指示した。次いで傍に寄り事情を説明してもらおうとしたのだが、
「我々は逃げるつもりはありません。死も覚悟の上でここに参りました。しかし…――」
 首謀者であろう壮年の男性が口を開く。確かコレデュスッド城周辺付近に住む者だ。ならばリリィと顔見知りかもしれない、というユリスの予想は当たった。
「どうしても許せなかったのです!一体…一体、リリィ王女は何のために、ここに連れて来られたと言うのですか!?彼女はこの国の者たちまで助けて下さった。それも御自分から進んで…。それなのに、あまりに酷過ぎます…!!」
 彼らもまた、同じ思いだった。彼女がここにいるというのに、セントキエティム王国に襲撃したことは明らかに間違っていると、許せる行為ではないと。
 あの奇襲がきっかけになったというだけで、今までもカーザズに不満を持ち続けていたのは言うまでもない。
 死を恐れて誰かが動くのを待っていた自分が、ユリスはひどく厭になった。何も、自分独りでどうにかしようと悩まなくとも良かったのだ。
 こんなにも、同じ思いを抱いている者たちがいる……。
 この後ユリスはヴィラと相談し、彼らをひとまず牢獄へ連れて行くよう命じた。そこまでする必要はなかったのだが、示しがつかないという理由である。
 そして、皇帝の死は忽ち帝国中に広まった。飛び交うのは――歓喜の声。

 

 

 

 

 

第八話 / 第十話    


2005.3.2



「larme」top