居場所を捜して


 メダデュオ帝国皇帝カーザズの死と同時に、この国を統治する者はいなくなった。
 元々彼の側近の者たちも、言われるがまま従っていただけであったため、ようやく解放されたと喜ぶ者が殆どであった。
 それでもやはり、素直に喜べない者もいる。カーザズの今唯一の妻であるヴィラの母は、彼に眼を付けられ嫁いだということもあり、哀しみの感情が出ることはあまりなかったが、彼女の息子はそうもいかない。
 たとえユリスを虐待し続け、この国を乱す元凶であるといえども、彼女とは違い血の繋がった父なのだ。
 だからこそ、これからどうするべきか自室で話し合おうとしていたユリスは、ソファに座る義弟に背を向けたまま立っているしか出来なかった。
 そんなユリスとは正反対に、いつもの笑みを見せるヴィラ。
「心配しなくても俺は大丈夫だよ。それに、思ったより落ち着いてる。…こんなこと言うのも何だけど、寧ろ少しほっとしてるし」
 そこで言葉が途切れたため、思わずユリスは振り向く。
「ユリスが、やっと自由な身になったんだ。喜ばないはずがないだろう?」
 それは何だか泣きそうで、照れ臭そうで、しかし心の底から喜びが湧き上がっているかのような表情だった。
 誰よりも待ち望んだ父の手からの解放。このような形ではあったが、喜ばずにはいられなかったのである。
 魔法を使えば、皇帝の権力など恐れることはないだろう、と考えている者がいるかもしれない。
 確かにそうである。魔法を使用出来る者がカーザズの周り、つまりコレデュスッド城に住む者の中にいないのであれば、遠慮などする必要はない。
 権力という名の力で押さえ込みたくないと思っていたとしても、それ以外にこの国を守る方法がないのならば、躊躇することなく実行することも、また勇気。
 数年前――既にユリスは魔法を習得していた――にそのように思ったヴィラは、思い切って彼に何故未だに従うだけなのだ、と訊いた。
 皇子という立場にいるため、治安の悪さは十二分に理解している。このままでは自分たちは構わないとして、一般国民に辛い日々を送らせることになるのだ。覚悟を決め、一歩踏み出す時ではないのか。
 すると、彼から返ってきた言葉はこうだった。
『……たとえ治安が悪いと言っても、国として成り立っている。纏める者がいなくなれば、崩れ落ちる…』
 暴君であったとしても、メダデュオ帝国を統治していることに偽りはない。不安定なこの国で今君主を失えば、崩壊することは眼に見えている。
 そして必然的にユリスかヴィラが地位を受け継がなければならないのだ。
 まだまだ政道のことを理解しておらず、していたとしてもその力がない。もしかすれば、今より更に治安は悪化し、自分たちの手でこの国を壊してしまうかもしれない。そう思うと、義父に何も言うことが出来なかった。
 しかし、結果的にはこうして国民の手により皇帝は殺された。それが正当であると一概には言えないが、第一皇子と第二皇子、どちらが受け継ぐことになろうとも、今自分たちが出来ることを精一杯するだけ。
 眼の前にある問題を、ゆっくりとでも確実に消化していく。そう考えていた。






 ここ数日、夜もなかなか寝付けず、リリィは体調が優れなかった。
 食事もいつもなら大食堂へ行き、ユリスやヴィラたちと共に食していたのだが、それさえも拒んだため侍女が部屋まで持って来ていた。
 そして今日も、朝食を取った後ベッドに膝を抱えて座り、この時間を独りで過ごす。
「何故そのような寂しそうな顔をしているのです、リリィ…?」
 扉が開いた音さえも耳に入っていなかった。そのため突如聞こえた声に思わず肩が反応する。
 この声を最後に聞いてから、何度月が満ち、欠けただろうか。恐る恐る顔を持ち上げ視線をそちらに向ければ、そこには憶えのある服を纏った一人の女性。
「お義母様っ…!!」
 思いも寄らない突然の来訪者にリリィは我を忘れ、義母――ソフィアに縋り付いた。
 そして彼女もまた、もう二度と娘とは会えないかもしれないと思っていたため、自分の腕の中にいることを確かめるかのように抱き締める。
「リリィ……」
 涙が、止まらない。
 結局あれからセントキエティム王国については宙に浮いたまま、ただ皆の無事を祈るだけだった。ユリスやヴィラは一切話をせず、もちろんリリィ自身も現状を知るのが恐ろしく、彼らに訊くことは出来ない。
 しかし、今は眼の前にいる。自分をしっかりと抱き締めている。懐かしい温かさがこんなにも直ぐ近くにある……。
 リリィは久しぶりに声を上げて涙を流した。
 その姿を見て、ソフィアはこれほどまでに彼女に辛い思いをさせていたのか、と思う。
 一緒に住み始めてから気付いた、リリィの真の姿。
 両親の死によって、少しばかり背伸びをして生きてきたのだ。初めて会った時から日が経つ度に、寧ろ彼女は年頃の子よりも精神年齢が低いのかもしれない。そう思うようになった。
 それでもメダデュオ帝国の者――ユリスであるのだが――に連れて行かれた時、リリィを手放すことしか出来なかった。メダデュオ帝国皇帝のことだ、無理強いをすれば自国も、そして彼女自身も無事では済まなかっただろう。
 自分より未だ背の低い彼女の、輝きの衰えぬ蒲公英色の髪をゆっくりと梳く。
 暫く経って部屋に静かに響く、「私の話を聞いてくれますね」という優しい声にリリィは小さく頷き、二人はソファに腰を下ろした。
 まずは、何故ソフィアがここにいるのかということから……。
「ユリス皇子とヴィラ皇子が、セントキエティム王国まで足を運んでくれたのです。食糧までも準備してくれて……」
 それにより自分の体調が優れなかったここ数日、リリィは彼らの姿を殆ど眼にしていなかったことへの合点がいった。
 ユリスとヴィラがまずしなければならないと思ったことは、セントキエティム王国の保護だった。
 カーザズの死を告げ、城を打ち落としたことでメダデュオ帝国の支配下になったことを反故にする、つまり王国を再独立するよう同意を求めたのである。
 もちろんそれに不満などあるはずもなく、セントキエティム王国に住む人々は、大いに喜んだ。そして、第一王女を略奪した上での襲撃という矛盾した行為の詫びとして、食糧を配給する。それが二人の考え出した自分たちが出来ること≠セった。
 未だ成人して間もないという彼らが、国民たちにはとても大きく見えた。
 それと同時に、皇帝亡きこれからのメダデュオ帝国は、彼らが変えていくのだと確信したのだ。






 ソフィアが、メダデュオ帝国へ足を踏み入れた翌日。
 昨日は両人の願望により、ソフィアはリリィの部屋で過ごした。
 ユリスやヴィラたちと共に一人でここへ来たため、それほど周りの者を気遣うこともなく、傍にいることの出来る喜びを噛み締めていた。
 そして朝を迎え、未だ眠るリリィを部屋に残した上で王妃が向かう目的の地は、
「…お話したいことがあるの。少し……、よろしいですか?」
 何か用事があるなら、と事前に教えていた両皇子の部屋。その片方の扉の向こうに在った姿は、第一皇子ユリス=ウォレンサー。
 彼自身話をしなければならないと思っていたため、彼女がここへ来たことに驚くことはなかった。幾月も胸に抱えていた思いを、せめてこの言葉だけでも伝えたかった。
「私の行為を理解していただこうという、疾しい気持ちは全くありません。ですが……、死で罪を償えるほど、私はまだ…。どうか御無礼をお許し下さい……」
 彼女の夫であるエクサルの命を、この手で奪ってしまった。その行為を正当化してほしいとは思わない。明らかにこちらが間違っているのだから。
 しかし、その行為を死で償う、というほど彼は大人になりきれていなかった。戦いに身を投じているといえど、自ら死を選ぶことが出来るほど強くはない。それに、たとえ自分が死んだところでエクサルが甦るわけではないのだ。
「もう、気になさらないで。貴方には生き抜いてほしいのです。娘の…、リリィのためにも」
 彼よりも倍近く長く生きているソフィアは、それをもちろん十二分に理解している。今更何かを請うつもりはなかった。
 ただ、リリィを護ってくれた彼に、少なくともリリィが好意を持っているユリスとヴィラに、黄泉へ行ってほしくはなかった。幾度と親しい者を亡くし、彼女の精神はもうボロボロである。今誰かを失えば、本当に壊れてしまうかもしれない。そんな彼女の姿を見たくはない。
 一寸の沈黙が続き、ユリスは口を開くべきか迷っていた。
 眼前の王妃には、何度詫びようとも心が晴れることはない。まして命令とはいえ、エクサルだけではなく、リリィをここに連れてきたのは自分である。そんな自分がリリィを護ると、彼女と共に生きてゆきたいなどど、言えるはずもない。
 すると、先に聞こえたのはソフィアの、意を決したような声。
「――…貴方の…お父様のことを、お母様から何か聞いていましたか?」
 彼女の言う話したいことが、リリィのことだとばかり思っていたユリスにとって、彼女の質問は予想外のことだった。
 初めは何故このようなことを聞くのだ、と戸惑っていたが、このまま黙視しているわけにもいかないと、
「…いえ、カーザズ皇帝は実の父ではなく、その実の父は私が幼い頃に亡くなったとだけ……」
 と言った。
 母ターナの話では、実父を亡くした後にカーザズの元へ嫁いだとのこと。
 彼女がこの世を去るほんの数日前、未だ生を受けて四年ほどしか経っていないユリスに話したことである。
 もしかすれば高熱が続き、肺炎間近まで体調を崩していた彼女は、身体が丈夫ではないことから死ぬ可能性があると感じていたのかもしれない。だから真実を伝えたのだ、と。ユリスはそう考えていた。
 だがしかし、彼が眼を見開かざるを得なかった言葉が続く。
「……亡くなったと、そう言われていたのですね…」
 どくん、という鼓動が鮮明に頭に響いた。
「ちょ、ちょっと待って下さい、…それでは、まさか」
 口内が次第に渇いていく。
 まさか、そんな……。そんなことが有り得るのだろうか。
 そもそも、ならば母ターナは嘘を教えたというのか?
「ええ…、貴方のお母様がカーザズ皇帝に嫁いだ時、貴方のお父様は生きておられました」
 ユリスは思わず立ち起こしていた身体を、ゆっくりとソファに沈めた。
 彼女の思わせぶりな言葉にある程度の予想はついていたものの、実際に聞かされると、何とも言えないものが込み上げてくる。
 同時に、何故母は嘘を吐いたのだろうという疑問。未だ自分が幼かったためか、それとも知る必要のないことだと考えていたのか。
 それに、王妃が自分の父親を知っているのは、一体何故なのだろう。
「貴方のお父様のことをお話ししても構いませんが、ただ……お父様やお母様、そして私のこと…、貴方自身のことを恨むかもしれません。貴方にとって、決して幸せな真実だとは言えないのです……」
 正直今まで、実父のことを話す必要はないとソフィアは考えていた。話したとしても、恐らくユリスを追い詰めるだけだと。知らぬままの方が良いと。
 しかし皇帝亡き今、既に齢十八である彼は、思っていた以上に自分の意思と強い心を持っていると知った。リリィを連れ帰るために王国へ来た時、つまりは十六年ぶりに会った時、彼女より幾分も大人びていると感じたのは間違いではなかった。
 彼ならば自身で真実を乗り越えることが出来るかもしれない。
 この国でどのような扱いを受けていたのかは耳にしていないが、障壁を乗り越えてほしいと思うも、また本心だった。
 いずれはヴィラと共にこの国を纏める彼にとって、後に大きな糧となるだろう。そのユリスの答えは、
「…それでも、俺は……」
 真っ直ぐ見詰める、知りたいという揺るぎない瞳に、ソフィアは既に記憶の中でしか逢うことの出来ない二人を重ね合わせた。
 二人の子であると言うに十分な、柔らかな鶯色の髪に瞳は澄んだ紺碧色。これほどまでに成長していると、出来るならば伝えたい。
 彼らは今、二人にとって唯一の子供の姿を眼にしているだろうか。
「貴方のお父様は……」
 一息吐いた後、ゆっくりと名を紡ぐ――。
「――…エクサル…アークトレス」
 ユリスが動揺の色を見せているなど、表情を見ずともソフィアは予測出来た。その彼に至っては、喉に引っ掛かる言葉を絞り出してようやく声にする。
「今…、何と……」
 自分の耳を疑ったからこその言葉。いや、疑わずにはいられなかったのだ。
 エクサル=アークトレス
 それは今眼の前にいるソフィアの亡き夫であり、リリィの義父であり、かつてのセントキエティム王国国王であり、そして何より……。
「お、れ…が……」
 殺したひと
 有無を言うことすら出来なかった、恐らく生きてきた中で最も辛かった命令。自分だけでなく、多くの人を哀しませることとなった命令。
 頭を低く垂らし、大腿の部分の服を強く握り締める。
 今ソフィアの顔を真面(まとも)に見ることは出来ない。何も言葉が見付からない。これ以上聞きたくないと、思ってしまった。
 だが彼女はその体勢でも構わないので、聞いてほしいと言った。
 本当は逃げ出したかったのだが、自分から知りたいと言った以上、そのようなことは出来ない。「はい……」と小さな声をようやく絞り出したことにより、彼女の古(むかし)話が始まる。
「貴方のお母様――ターナは、元々セントキエティム王国出身の者でした。貴方は我が国の第一王子だったのです」
 それは、未だユリス=ウォレンサーではなく、ユリス=アークトレスであった日のこと……。





 スィフレ暦九八一年。メダデュオ帝国皇帝とその息子カーザズは、セントキエティム王国へ食糧を調達するという形で足を運んでいた。
 当時の皇帝は非常に大らかな人物で、内乱を鎮める術はないが食糧くらいなら、と頻繁に訪れていたのだ。
 因みにカーザズがセントキエティム王国に訪れたのは、この時が初めてである。
 ただこれが、ウォレンサーの姓を名乗り一国を纏め続けた皇帝にとっての、最後の過ちであった。
 既に老年に差し掛かろうという頃の子であったため、正式にカーザズが即位する前に老衰のためこの世を去った。
 そしてその翌年、彼は有ろうことかセントキエティム王国国王の息子、エクサルの妻――ターナ=アークトレスを娶りたいと言い出したのだ。
 こんなことを、誰も許すはずがない。
 しかしセントキエティム王国は未だ内乱が続いたままであり、もし断ろうものなら暴君と化してしまった次期皇帝ならば、腹いせに攻撃を仕掛けてくる可能性がある。今の状態で受けてしまえば、国は滅んでしまうかもしれない。
 ターナは自らメダデュオ帝国へ嫁ぐと決意した。当時二歳の幼い息子も連れて行くことを条件として。
 そう、その息子がユリスなのだ。
 自分のような辛い思いを誰もしなくとも構わぬように、一日でも早く内乱が終焉するように。そう祈り、ターナとユリスはアークトレスの名を捨てた。
 そして二年後にターナ、翌年に父である三十二代目国王がこの世を去り、それを機にエクサルは即位する。
 同時にターナを失った後、片時も離れず傍にいてくれたソフィアと一生を共にすると誓った。





 ユリスは仰向けた身体をベッドに預け、整理のつかない言葉が駆け巡る頭を抱え込むように、手で眼を覆う。もう、何が何だか分からなかった。
 ――それならあの時の…あの時の言葉は……
 浮かぶものは、先程のソフィアの哀しそうな顔と別の人物の微笑む顔。
「俺のこと……、分かって…いた、のか…?」
 ポツリと呟いたはずの声は、彼以外誰もいない大きな部屋でひどく響いた。
 以前ヴィラに話したように、命令といえどもエクサルの命を自分の手で奪うことに躊躇いの気持ちがあった。苦しみながら息絶える姿など見たくない。
 しかしその気持ちを悟られないようにと一気に距離を詰め、彼の心の臓を刺したのだが。その瞬間、ほんの一瞬ではあったが、確かに彼はユリスに微笑(え)みを向けた。そして、
『ユ、リス……』
 殆ど声とならぬ呟きは、ユリスの耳にしっかりと届いていた。幾年も会っていないにも拘らず、彼には眼前の青年が自分の息子であると分かったのである。
 幼い頃の父の姿を覚えているはずがないとはいえ、ユリスにとってあまりに残酷過ぎる再会だった。
 カーザズは恐らく、エクサルとユリスが実の親子であることを承知で、殺せと命を出したのだろう。この世を去った今でもなお、彼奴に苦しまされ続けなければならないのか……。
 そこへ、義兄の部屋からソフィアが出てきたところを偶然眼にしたため、何を話していたのか聞こうとヴィラが中へ入ってくる。それに気付いたユリスは、鉛のように重く感じる身体を無理やり起こした。
「ユリス、どうかしたのか? 顔色悪い――」
 ベッドに腰掛け、俯いたままの彼の額に手を伸ばす。するとその手を跳ね除けるように、ユリスが急に倒れ込んできた。
 体調が悪いわけではなさそうなので、一体どうしたのだろうと口を開こうとした時、
「少し間だけで構わねえから…。こう、しててくれ……」
 平生よりも低く掠れた声でユリスが言葉を綴る。強く裾を握り締めているそこに眼を動かせば、彼の肩は小刻みに震えている。
 泣いてはいない。ただ、自身では抑え切れぬ感情を少しでも緩和しようと、手の届くヴィラに縋り付いていた。
 これほどまでに弱い部分を見せたユリスは、初めてだった。

 

 

 

 

 

第九話 / 第十一話    


2005.4.21



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