一緒に帰りたい


 果たしてユリスは、ヴィラに実父――亡きエクサル国王のことを話したが、リリィには何一つ言わなかった。
 今度ばかりは彼女を想ってのことではない。既に死んでいると思っていた、血の繋がった父を自分の手で殺めてしまったなどと、自分の口から言いたくはなかったのだ。
 それを知ってか、ヴィラもそれからエクサルのことをユリスに聞くことはせず、リリィに言うこともなかった。
 もし事実を彼女に教えるべきだと言うならば、義母であるソフィアが直接伝えるだろう。
 ユリスもヴィラも、彼女をこれ以上故意に傷付けることをしたくはなかった。
 そして、一息吐く間もないうちに、ボワフォレ王国の兵が動いたという情報が伝えられる。
 自分たちの父が蒔いた種だ、逃れることは出来ないと理解しているが、それでも極力避けたかった戦い。もう元凶である皇帝カーザズがこの世に存在しないと伝えても、彼らが止まることはない。話し合うという時点で無駄なのだ。それはかつてのセントキエティム王国内で起こった戦乱の如く。
 誰一人とて望んでいない、ボワフォレ王国とメダデュオ帝国の戦が始まる―――。


 軍の指揮は、若き二人の皇子が執る。ただし、ユリスは戦場へ行き、ヴィラは帝国を守る位置に就いた。
 もちろんボワフォレ王国の攻戦を鎮圧することが最終目的だが、帝国を、一般の人々を放っておくわけにはいかない。そのためユリス側が多少高いものの、ほぼ戦力を二分割することにしたのだ。
 二国がぶつかり合う地は、互いを隔てる山の麓。
 ユリスが指揮を執る軍が掲げるものは、死屍を出来る限り抑え打ち勝つという名の誓い。
「……私も行きたい」
 出陣までの間、ヴィラの部屋で三人は過ごしていた。そこである程度の戦いの流れをリリィは教わっていたのだが、一区切りついたところで先程の言葉である。
「さっきの話、聞いてなかったのか!? お前が行っても足手纏いになるだけだ!」
 ただでさえ出陣前でピリピリしている時に、彼女の言葉はユリスにとって頭痛の種にしかならなかった。声が大きくなってしまったのも、そのためだろう。ヴィラもさすがに少し呆れてしまっている、という感じか。
「でも……」
 十分理解している。自分は何も出来ないと、彼らの邪魔になるだけだと。それでも―――。
「ただ護られているだけなんて嫌なの……そんなのっ…!」
 自分の力があと少しでも強ければ。そうすれば、この無意味な争いを止めることが出来るかもしれない。多くの人が流す血を、死を眼にすることもないかもしれないのに。
 そう考えれば考えるほど、リリィは城内に義母といるよう言われた自分自身に苛立ちを覚えた。
 因みにソフィアはまだメダデュオ帝国にいる。セントキエティム王国に帰ろうとした矢先、戦乱が始まるので帝国を出ることは危険だ、と言われたのだ。尤も、この戦にセントキエティム王国は直接影響ないため、そのことを知らせる電報のみ送っている。
「リリィ。君の力はこの戦乱が終わった時、必要なものなんだ。君にもしものことがあれば、かつてのメダデュオ帝国は、…いや、セントキエティム王国も、ボワフォレ王国も戻ってこない。言っていることは、分かるね?」
 ヴィラが小さく息を吐いた後に、俯く彼女と視線を合わせて話す。
 戦乱を平定するほどの力はない。しかし終わりを告げた時、傷ついた者だけでなく傷ついた国を治すことが出来るのは、紛れもなくその力、プリエルビス。彼女の存在は、三国にとってかけがえのないものなのだ。
「お前には城内にいて、負傷者を治してもらう。それで文句はないな?」
 ヴィラの言葉に付け足すように言い、躊躇いながらもそれに小さく頷くリリィ。
 どうか二人とまた生きて会えますように、と願って。





 互いに譲れない思いが、負けるわけにはいかない理由がある。
 大きく振り下ろした剣は、一切無駄のない動作によっていとも簡単に弾かれた。あまりに疾(はや)過ぎる動作に、その反動で剣を握り締めていた手が痺れている。
 武器はそれしか持ち合わせていなかったためもう勝ち目はないと疾駆し、もし彼の背に眼が付いていれば、小さくなっていく剣を弾いた者――ユリスの姿が見えたことだろう。
 軍の指揮を執っていたのは初めの間だけであった。思っていた以上にボワフォレ王国の兵士たちは離散し攻めてきたため、声を張り上げ皆の無事を案じ、各自で対応するよう命じたのだ。
 ユリスは決して魔法を使おうとはしなかった。使えば死傷者も最小限に抑えられるだろう。しかしそれではこの戦いは終わらない。この戦いは、力と力が直にぶつかり合い、納得のいく終焉でなければならないのだ。辛いが、それしか方法はない。
 そしてここではユリスと一人の兵士が健闘した後である。
 彼らの周りには、うつ伏せた幾つもの身体。その殆どの傷は致命傷には至らないものの、身体を動かすことが困難であったり、戦意を失っている者もいた。また分が悪いと判断したため、ボワフォレ王国の兵士たちの多くは一旦自国へ戻っている。
 日々鍛錬を積んでいるといえども、さすがに休まず剣を振るっていたため切れ切れの息を整えようとしていた、その時だった。
 背後で何かが動く気配がして振り返ったと同時に、かつてリリィによって塞がれた所と同じ、右腹部に刳られたような痛みを感じたのは。
「ユリス様ッ!!」
 支えきれなくなった身体が崩れ落ちていく最中眼に映る、朱に染まっていく戦場には似合わぬ青空、荒れ果てた大地。自分の名を呼ぶ声さえ翳んで聞こえる。
 ユリスはその胸にまざまざと存在を見せつける、茜色のペンダントを強く握り締めた。


 戦場の地は替わり、メダデュオ帝国。
 ボワフォレ王国の兵が撤退していると耳にし、ヴィラたちは張り詰めていた気持ちを弛めた。そして何人かはその場に残し、彼はリリィのいる城内へと向かう。
 一緒にユリスの所へ行こう、とのことだった。
 どうして来たって言われたら、負傷者の様子を見に来たということにすればいい。一人じゃなくて俺も一緒だから、何も文句は言えないよ、きっと。
 いつもの変わらぬ笑顔と共に紡がれたその言葉に、少し明るくなるリリィの表情。
 そして二人は騎馬で山麓へ急ぐ。リリィはヴィラに支えられ、今にも落ちてしまいそうな身体を強張らせて何とか持ち堪えていた。
 騎馬はほんの数えるほどしかない。ましてもちろん一人ではなく、いずれも幼い頃義父であるエクサルに、抱き抱えられるような恰好であった。彼女が必死で馬から落ちまいとしているのも無理はないだろう。
 流れていく場景の中、進む先にある天と地の対照的な色に思わず眼を逸らしたのはリリィなのか、それともヴィラだったのか……。
 ようやく目的の地に着き、周りを見渡しても襲ってくるボワフォレ王国の兵士の姿は殆ど見受けられないので――在る者は動けずにいる、若しくは気を失っている――リリィは馬から降り、別々にユリスを捜すことにした。
 この広い中、直ぐに見付かるとは思えない。…と言うよりも、ヴィラは万一のため一緒にいた方が安全だと言ったのだが、リリィがここに来て我儘を言い、とにかく早くユリスを見付け出したいため、別々に分かれて捜そうとせがんだのだ。
 もしヴィラがユリスを見付けたとしても、彼が気を失っていない限り、――最悪の場合、未だ生が保たれている限り『気』でリリィの居場所を突き止めることは出来る。
 負傷者を見付けた時、一緒にいてはその間は捜せないという理由もあった。そう考えれば分かれた方が良いのかもしれないと、渋々承志した。
 無理だけはしないようにと強く念を押し、二人は他方に向かって歩を進める。
 リリィは果たして負傷者を力で治癒しながらユリスを捜した。彼女が見た限りでは重傷の者はおらず、安堵の笑みを零しながらも、心の底では全く見付からない彼のことが心配で堪らない。
 何処に、一体何処にいるの?どうしてユリスの姿を見付けることが出来ないの…!?
 彼女の思いは焦るばかりだ。しかし心の中で問い掛けても、兵士に問い掛けてもその答えは返ってこない。
 歩き続け、周りには全く人影のない地にまで来た。この向こう側には誰もいないだろう。そう思い始め、踵を返そうとしたその時。前方から、異常なまでの速さで一人の兵士が駆けて来る。剣も何も持たぬ、服装から見てボワフォレ王国の兵士。
 襲われる、と身体が自然と硬直するも、まるでこちらに気付いていないのではと思うほど見向きもせず、直ぐ右隣を過ぎて行った。
 向こうから何かから逃げるように来たということは、メダデュオ帝国の兵士がいる可能性は高い。迷わず再び方向転換し歩を進めた。
 その先に在ったものは、背から見ても分かるほど大きな身体を丸めたメダデュオ帝国の兵士と、幾つか寝転がっているボワフォレ王国の兵士の姿。そして巨体の兵士の脇から覗く、見覚えのある鶯色の髪―――。
 リリィは駆けながら声を張り上げ彼の、捜し続けていたユリスの名前を呼んでいた。
 不幸中の幸いと言ってよいものか、ユリスがボワフォレ王国の兵士に不意に刺されたほんの直ぐ後、リリィは彼に会うことが出来た。因みに彼を刺したその兵士はそれが最後の力だったようで、既に気を失っている。
 喋ることすらままならないユリスは、血相を変えたリリィの表情を眼にし、薄く笑うように弱々しい紺碧色の瞳を細めた。
「今、助けるから……」
 そう言って震える手を、薄っすらと朱に染まりつつある右腹部に伸ばす。早く止血しなければ、たとえ治癒出来たとしても、出血多量により虚血になるかもしれないのだ。全神経を掌に、指先に集中させる。
 ――…しかし。
「……え…?」
 プリエルビス特有の温かな光が現れなかった。果たして手を離しても、傷は先程と全く変わっていない。
 どうして、何故……。そんな言葉だけがぐるぐるとリリィの頭の中を廻り続ける。そして無惨にも確実に彼の服を染め上げる、どくどくと流れ続ける血。
 ふと、初めてユリスと話を交わした時の、感情をコントロール出来ないガキだ、という言葉が鮮明に思い出された。
 一体、何故自分はここにいるのだろう。ヴィラに我儘を言ってまで一人で眼の前の彼を捜したと言うのに、結局はプリエルビスで傷を癒せることはもちろん、止血すら出来ない。
 辿り着いた答えは、死と隣り合わせである彼の姿を見て精神――心が拒んだため。
 親しくなり過ぎたのだ。彼が死んでしまうかもしれないという恐怖が、リリィの心を狂わせ冷静を欠く。
 助けたいのに、現実から逃げようとする自分がいる――。
 一方、ユリスはそれを後悔という言葉で表したくはなかった。少なくとも今は、たとえ命が尽きようとも、彼女に出会えたことを悔やんでなどいない。
 この出会いがあったからこそ、自分の意思で自分の道を歩くことがようやく出来た。ずっと心の奥底に仕舞い込んでいた思いを、気持ちを、曝け出すとまではいかなかったが、表に出すことが出来た。
 もう昔のように一寸前に戻りたい、やり直したいとは思わない。選んだ道は間違っていないと、今なら言える。
「死期が直ぐそこにあるってのは、こういう気持ちなのか……」
 呼吸は徐々に浅くなってきている、自覚もある。だが、とても落ち着いていた。
 自分の手で殺めた実父も、リリィに向けていたあの穏やかな表情は、同じような気持ちだったのかもしれないと、そんな風に思う。そんな風に考えられるほど、ユリスもまた穏やかな気持ちでいた。
 だが彼とは全く逆の気持ちだったのは、もちろんリリィだ。まるでもう生きることを諦めたような発言に顔を顰め、逃げ出したい感情を抑え込みながらも切実に願った。
「やめて……、そんなこと言わな――!」
 まだ微かに暖かい手が、リリィの頬にゆっくりと伸びてくる。こうして腕を伸ばすだけでも辛いはずなのに、苦しい顔など全く見せなかった。寧ろ、揺るぎない真剣な眼差しで彼女を見詰める。
「……リリィ、お前に話しておきたいことがある…」
 普段より幾分か低い声で名を呼ばれた時、何故か喉がひゅうっと鳴った。
「――…お前の父を殺したのは、確かに俺だ。だが……、助けることが出来なかったのは、お前のせいじゃねえ。だから悔やむことは何もない」
 義父であるエクサルのことを、何故今更言うのだろうか。今話す必要などあるのだろうか。
 何のことを言っているのか、今のリリィの頭では理解することは不可能だった。
 ユリスの眼光が次第に弱々しくなるのを見ているだけ。自分は何ひとつ怪我はしていないはずなのに、発作を起こしたように呼吸が上手く出来ない。震えが、止まらない。
「そ、れに…、あの人は、お…れ、………」
 ゆっくり閉じられていく紺碧色の瞳。するっとリリィの頬から地に腕が落ち、言葉はそこで途切れる。もう瞳が開くことは、声を発することは二度とない。
 それを感じ取ったリリィは一粒の涙を零し、吸い込まれるようにユリスの胸にあるグラセのペンダントに落ちた。直後そこから神々しいほどの光が溢れ出してくる。
「…な、に……!?」
 思わずその光に眼を細めた。彼女の傍に立っていた巨体の兵士も然り。
 一寸の後もう大丈夫だろうかとそっと開ければ、眼を疑うような光景があった。ユリスの傷口から流れる鮮血は何事もなかったように止まり、更に砂礫で一層暗く見えていた顔が本来の肌色を取り戻す様は、まるで浄化されていくかの如く。
 リリィは出陣する前、自分のグラセのペンダントをユリスに渡していた。
 同じ国という地を踏んでいるヴィラとは違い、何かあっても直ぐに彼の元へ駆けつけることが出来ない。それならば常に身に付けていた物を、彼を護ってくれるよう願いを込めて託したのだ。
 しかしそのグラセは必要としている時に何も役に立たない、ただの小さな塊でしかなかった。
「ね…ぇ、眼を開けて……」
 声が震える。涙で視界が翳み、彼の表情は殆ど見えない。
「やっと本当の幸せ…、貴方に……!」
 最愛の母を早くに亡くし、幼少の頃から虐待を受け、縛り続けられていた国≠ニいう名の籠から本当に解放される時は近付いていた。
 リリィの心を反映する力、プリエルビス。それには感情に左右されることなく発揮されるといわれるものがあり、それこそがプリエルビスの本来の力であった。
 その力が覚醒されるきっかけは、受け継いだ者によって様々である。そして彼女は、ユリスの死に対する感情がグラセに反応し、それが媒介となって本来の力が覚醒したのであろう。
 結果、彼の傷が癒えていたのだ。
 しかし彼女は喜びの感情など持ち合わせていない。
 ユリスの命と引き換えに与えられた力など、欲しくはなかった。彼に、彼に生きていてほしかった。ただただ自分の力のなさを悔やみ、止まることの知らない雫は、彼女の瞳から頬を伝い流れ続ける。
 そして蹄の音と共にヴィラが現れたのは、それから一寸してからだった。
「リリィ!」
 やっとの思いで捜し当てたリリィの姿に一息吐くも束の間、彼女の傍に直立し項垂れた兵士が一人と、横たわる兵士を眼にし、ヴィラは最悪の状況が浮かぶ。
 穏やかな表情をした義兄。その表情とは懸け離れた、痛々しいほど朱(あか)く染まっている右腹部。
 信じたくない、これは夢なんだ……。そう思いたかったが、哀しくも紛れもない現実。そしてその現にヴィラを戻したのは、涙を茜色の瞳に溢れるほど溜めた、か細い声で名を呼ぶリリィだった。
「ヴィラ……ユリスが…ユ、リスがっ…!」
「……リリィ…」
 ヴィラは崩れ落ちそうになる彼女を、支えるように抱き締めた。
 彼自身ユリスを喪(うしな)い、抑えきれぬ感情が頭の中を支配していたが、今にも壊れてしまいそうな彼女を見ていられなかったのである。
 プリエルビス本来の力によって傷が癒され、ユリスはただ眠っているだけのようにしか思えなかった。

 

 

 

 

 

第十話 / 第十二話    


2005.6.5



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