桜色の微笑み


 その日は、澄んでいるという言葉が似合う綺麗な青空だった。
 雲一つなく、頭上に広がる本当に真っ青な空。いつもだけれど、今日は特別手が届かない、そう思った。
 誰のものでもない。この世に生きる全ての人間に、動物に、植物に……。皆対等に陽を分け与える。この眩しいほど温かな光を、誰もが感じているだろうか。
 そんな清景とは相反する、ひどく重暗い空気と表情を纏っていた彼――。



 ノイカ=ウォレンサーが、庭園で遊んでいた彼女の息子ヴィラを呼ぶため、ゆっくりとした足取りでやって来る。
 彼女はこの国、メダデュオ帝国の王妃だ。
 項の辺りで一纏めにした胡桃色の髪。そして性格を表す、柔らかな光を帯びた翡翠の瞳と口許。彼女を眼にした者は、誰もが美しいと、慎ましく穏やかだと答えるだろう。
 ただ、それらは全て彼女の息子も引き継いでいた。
 生を受けてから約二年、ヴィラはとにかくよく微笑う。無邪気な笑顔ではなく、正に癒してくれるような微笑み。城内に住む者たちは、いつも彼の笑みがあるからこそ、辛いことも乗り越えることが出来ているのだ。光、だと言っても過言ではなかった。
 そこへ現れたのは、少年とは名ばかりの幼児。背丈から見て、年齢はヴィラとさほど変わらないかもしれない。鶯色の髪、紺碧色の瞳、……無表情の整った顔貌。
 彼はヴィラが初めて見る女性の隣に、彼女の服の裾を軽く掴んで立っていた。彼女は誰なのだろうと見上げれば、その女性と眼が合う。
 母とはまた違う綺麗さがあった。ふんわりとした微笑みに、思わず見惚れてしまう。瞳は違うが、同じ鶯色の髪であることを考えれば、少年の母親なのかもしれない。憶測だけではどうにもならないと、自分を謁見の間に連れて来た母に訊ねるため、クン、とヴィラは彼女の服を引っ張ったのだが無駄になる。
「ノイカ、彼女が先日話したターナ=アークトレスだ。そして隣にいるのが、……」
「息子のユリスです。不束な者ですがお願い致します、ノイカ王妃、……ヴィラ皇子」
 ヴィラの名を呼んだ時、ターナと呼ばれた彼女は腰を屈め、ヴィラに視線を合わせた。とても優しい声だった。
 挨拶――とは言いつつ、皇帝カーザズがターナとユリスを紹介しただけなのだが――を交わした後、ノイカとヴィラの部屋に二人を招いた。未だヴィラは幼いため、母子二人同じ部屋で過ごしている。あと数年もすれば、造りはほぼ同じである、別の部屋がヴィラ専用のものとなるだろう。コレデュスッド城が建設された当時は皇子・皇女共に大人数だったため、現在使用していない部屋は有り余るほどあるのだ。
「どうぞ、足を伸ばして下さい。ここまでの道程は長かったでしょう?」
「ありがとうございます、気を遣っていただいて……」
「構いませんわ。私も実際、自分から嫁いだと言うよりは、嫁がされたといった感じですし……。良ければ貴女のこと、それにユリス王子のことを、教えていただけますか?」
 母親たちが何の話をしているかなど、幼いヴィラには到底理解出来なかった。しかし見慣れぬ土地のためか、未だに表情を崩さぬユリスとこれから共に暮らしていくということだけは、どこかで分かっていた。







 侍女がけたたましく走り回る。……いや、まるで鬼ごっこか。
 最近体調が優れなく、風邪の引き始めかもしれない、とヴィラは侍女に薬を服用するよう言われたのだが、あまり我儘を言わない彼が珍しくそれを拒んだ。
 ヴィラ曰く、その薬は途轍もなく苦い。
 良薬は口に苦し、というくらい良く効くのだが、何を言っても答えは決まっていた。
「絶対に飲まない!」
 これにはさすがの侍女も手を焼いた。仕方なく母親であるノイカに援助を頼もうと、追いかけることを諦めかけた、その時。
「ヴィラ」
 初めてこの国へ来た時に比べ、見違えるほど成長し、――いや、既にあれから二年近く経っているのだから、当然と言えば当然なのだが――屈託なく笑うようにまでなったユリスが、ヴィラの眼前に立っていた。ただ、今は怒っているように見えなくもない。
「……ユリスも飲めって言うの? あの苦さを知らないから、他人事だからそうやって言えるんだよ。一回飲んでみ――」
「分かった」
「……え?」
 予想外の言葉に、思わず声を漏らす。そしてユリスは侍女の持つ小瓶、つまり薬を手に取り、一気にその中身を飲み干した。唖然とするヴィラと侍女。あまりの苦さに噎せ、幾度も繰り返した咳によって二人は我に返る。
 慌てふためく侍女を制し、ユリスは涙で潤んだ瞳でヴィラを見詰めた。
「……飲んだからな。ヴィラも飲めよ」
 この話を侍女から聞いたターナとノイカは、暫く笑いが止まらなかった。
 結局ユリスが身体を張ってまでしてくれたのだから、とヴィラは大人しく薬を飲んだ。やはり苦いと顔を顰めていたが、その後共に笑う二人を見て、侍女も胸を撫で下ろしたのである。
 赤の他人のはずなのに、二人は本当の兄弟のように仲が良かった。それはターナとノイカが想像していた以上に。
 カーザズ皇帝に嫁ぐにあたり、まず心配していたことは、互いの息子が仲良くやっていけるだろうか、ということだった。年齢は同じ、そして男の子同士。恐らく上手くいくか、嫌悪するかのどちらかだろうと。
 そして嬉しくも前者になった、というわけだ。
 お世辞にも二人の性格や嗜好が似通っているとは言い難い。そのため喧嘩とまではいかなくとも、意見の食い違いから言い争うことなどは度々あった。最初の頃こそ、止めさせようと二人の母親が仲介に入ったものだが、今では余程のことがない限り野放し状態である。
 それは、決して面倒だから放任しているのではない。ただ喧嘩をするのではなく、その食い違う意見を互いに認め合い、様々なことを学んでいっていると気付いたからである。もちろん、放っておいても最終的に自分たちで解決してしまう、という理由もあるのだが。
 生憎ヴィラには魔法が使える才知を持ち合わせてはいなかったが、共に剣術にしろ勉学にしろ、互いに切磋琢磨して伸ばしていた。理解し合える友であり義兄弟であり、好敵手であったのだ。
 もしかすれば、真の兄弟になれる日も、そう遠くはないかもしれない。

「ユリス危ないって!」
 声を頭上に張り上げたものの、聞く耳持たず、だった。一度大きな溜息を付き、再度彼の名を叫ぶ。
 自分たちより何倍もの高さの大樹。幾つも枝が分岐し、鮮やかな翠の葉がその大樹をより大きく見せていた。その隙間からユリスの姿を何とか確認することが出来る。
 ちょっと出掛けてくると言うユリスに、城内にいることに少し飽きていたヴィラは、付いて行くことにした。
 ユリスより長くこの国に住んでいるとはいえ、彼が来るまでに城外に幾度か出たことがあるか、と言われれば答えは否。つまり、城外のことに関しては互いに殆ど無知なのだ。ヴィラが冒険みたいだ、と思ってユリスの後を追ったのも、無理はないだろう。
 しかし、大樹に登るとなれば話は別だ。この樹の分かれた枝の一部は、谷の方へと伸びている。まして、その谷へ伸びている枝に足を掛けているなど……。直ぐに止めたのだが、ユリスは大丈夫だ、の一言。
 今何かあった時、助けてくれる大人はいない。母親に怒られるのが怖いわけではなく、ただユリスに怪我を負ってほしくなかった。折角出来た唯一の兄弟(あに)を、喪いたくなどないのだ。
 当のユリスは、掌に小さな桜色をした実を持っていた。つい先程、眼前の枝から採ったばかりのものである。
 ヴィラが心配してくれているのは分かっているが、今回ばかりは譲れなかった。以前から、この実に関する書籍を読んでからずっと手にしたくて。ようやく一人で城外へ出ても良いという許可が下り、とにかく早くこの実を持ち帰りたいと思って。
 ただ単純に、嬉しかったのだろう。気持ちが知らぬうちに舞い上がっていたのだろう。
 ほんの一瞬のことだった。
 葉で枝が見えなかったため足を踏み外し、小さな身体は浅い渓谷へと重力に従い落ちて行く。ヴィラは大声で叫び手を思い切り伸ばしたが、虚しくも空を掴んだだけで、暫時動くことが出来なかった。





 ユリスはまるで自身が宙を浮いているような、浮遊感を感じていた。だが、突然身体を何かに打ち付けたような、激しい痛みが走る。ピクリとも、動かない……。
 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。今まで自分は眼を閉じていたと分かっていたからだ。微かに翳んだ視界には、今にも泣き出しそうな、そしてどこか安心したような表情をした義弟がいた。
「ユリスッ…!」
「……ヴィ、ラ…?」
 次第に鮮明になっていく視界。そこに、ユリスは母の姿を見付けた。
「一体何をしていたの!? 軽傷で済んだから良かったものの、もしかしたら死んでいたかもしれないのよ…!?」
 彼女に似合わず、声を張り上げ捲し立てる。共に住み始めて早いもので二年経ったが、このように怒る彼女を見たことがなかったため、ノイカとヴィラは思わず声を呑み込んだ。
「……ごめんなさい、母上。謝って済むことではないと分かってます、それでも…本当に、ごめんなさい……」
 それでもユリスは、決してターナから視線を外そうとはしなかった。
 先鋭した幾つもの枝に、頬や剥き出しだった腕は引っ掻かれる。だからと言って、その枝葉がユリスを受け止めてくれるとは限らない。気付けば自分は暗い谷へ向かっているのである。決して深くはないが、このまま落ちれば確実に痛感だけでは済まないだろう。
 どうにもならない……。そう思った時、ふと頭に先日練習していた魔法の呪文が過ぎった。
 一度も成功していない。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。何かしなければ、渓谷から自分を待っているのは死≠ゥもしれないのだから。
「ナ、ナジェレテ……!」
 ユリスは思い切り眼を瞑り、駄目元で呪文を呟く。
 するとどうだろう。地に付く直前、彼の身体は急ブレーキを掛けたように止まった。つまり、宙に浮いたのだ。
 何が起こったのか上手く状況判断出来なかったが、何とか助かったのかもしれない、そう思った瞬間。
「ッ!」
 ユリスを浮かせていた魔法は消え、未だ地まで一メートルほどの距離があったため、勢い良く背を叩き付けることになってしまった。
 そして同時に気を失い、眼が覚めた時には城に帰っていた、というわけだ。
 ターナはユリスを抱き締める。傷が痛まないように、優しく。
「…私は貴方が傍にいてくれれば、生きていてくれれば、それだけでいいの…。お願いだから、もう無茶なことはしないで、ユリス……」
 もしかしたら、泣いているのかもしれない。
 そう思うとユリスは居た堪れなくなって、彼女の背に手を伸ばし、もう一度「ごめんなさい……」と小さく呟いた。

 現在、ユリスとヴィラは同じ部屋で過ごしている。もう暫くは母子二人で一部屋ということにしよう、と言っていたのだが、彼らから一緒の部屋がいいという要望があったのだ。
「本当に大丈夫?」
 未だ寝ていた方がいいと言うヴィラに、別に痛みもないし、とユリスは身体を起こしてベッドに座っていた。下半身を覆う蒲団と共に、膝を軽く抱えている。
「ごめん、ヴィラにも迷惑掛けて……」
 大丈夫だと言っておきながら、結局はヴィラだけでなく、母にも心配させてしまった。……母のために行ったというのに。
「気にしてないよ。ただ、ターナさんがあんなに怒ったところは、見たの初めてだったけど」
 彼女の発言を思い出したのか、ヴィラは小さく苦笑いをする。
 つい先程ユリス自身から聞いた話だが、彼が採ろうとしていた実は、煎じて飲むことで効く薬草の一種だった。
 偶然眼にした書籍には、病に効果のある薬草が多数掲載されていた。そこで桜色の実のことを知り、侍女たちに訊けば、コレデュスッド城からさほど離れていない所にあると言うではないか。そこで母には秘密にし、一人で捜しに行こうとしたのだ。
 結果的には命を懸けて採ったことになった実は、きちんと机上に置いてある。夕刻にでも侍女に頼み、煎じてもらおう。そして母に飲んでもらおう。少しでも身体の弱い母が、元気になれるように祈って。
 ……もしかしたら、また泣いてしまうかもしれないけど。
「ターナさん、元気になれるといいね」
 その言葉に、ユリスは一瞬眼を見開く。そして照れ臭いのか頬を少し赤らめ、隠すように顔を腕に埋めた。浮かべたものは、極上の笑み。
「……うん、…」
 この笑顔が消えたのは、丁度一ヶ月後のことだった…――。

 

 

 

 

 

第十一話 / 第十三話    


2005.8.20



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