終焉を告げる小鳥


 窓ガラスを隔てた景色は黄昏の空が広がり始め、照明なしでは顔の判別が難しくなってきている。それでも部屋全体を明るく照らす気にはなれなくて、リリィは壁に付けられた小さな電灯に手を伸ばした。
 優しく柔らかな光は、ほんのりと部屋に暖かさをもたらす。
 その時、左手の扉から現れる二つの影。仄かな光によってそれはユリスとヴィラだと分かった。互いに顔を綻ばせ、部屋に入って、と促したのだが。
 短い叫喚を喉の最奥で飲み込むと同時に、一気に血の気が引いた気がした。
 眼の前でユリスが脳天からどろどろと溶けていく。それはまるで蝋が溶けていくように皮膚が焼け爛れ、そこからちらりと姿を見せ始める頭骨。
 脚がガクガクと震えているという感覚はある。だが彼はユリスではない、違うんだと思って後退しようとするものの、足どころか指一本さえ動かすことが出来ない。
 そして既に半分近く骨と化してしまった指先が、リリィの頬を掠める――…。
「いやッ…!!」
 瞬間、リリィはハッと眼が覚めた。ゆっくりと身体を起こし周囲を見渡せば、いつもと変わらぬ部屋。
 治まらぬ動悸。恐怖から逃げようと顔を手で覆った時、初めて瞳が濡れていると知った。そして自覚してしまうと次第に溢れ出てくる。
 夢だけれど、夢じゃない……。
 ここにはもうユリスはいない。手を伸ばせば在った、鶯色の髪も、紺碧色の瞳も、少し言葉遣いは荒いけれど決して耳に障らない次低音の声さえも。何もかも消えてしまった。――…自分のせいで。
 まだ夜が明ける気配の見えない今、閑散とした部屋で彼女の嗚咽はあまりに響き過ぎた。



 ひんやりとした窓に額を付け、ただじっと立ち続ける。
 薄い金糸雀色の透明ガラスは直接向かってくる陽をある程度は遮るものの、そちらの方へ眼を向けていれば、次第に眩しすぎるために視界はぼやけてくる。しかし、今のリリィには苦痛でも何でもなかった。現実から、逃れることが出来るのだから。
 眼を閉じたところで、脳内に今朝の夢が蘇ってくる。眠ることさえも出来ない。それならば多少眩しくても、長時間そうしているため頭が痛くなり始めていても、何も考えなくて済むこの体勢が一番楽にいられた。
 だが、その時間は強制的に終わらせられてしまう。扉が開く壮大な音と、靴が床に擦れる音。
「勝手に入ってごめん……。でもこうでもしないと、話を聞いてくれないでしょう?」
 視線だけを扉へ向けると、そこにはヴィラが申し訳なさそうな表情を作りながら立っていた。勢い良く再度窓の方へ視線を戻すリリィ。そしてギュッとガラスに貼り付けていた掌を握った。
「――…な、で…」
 ポツリ、と呟く。彼の顔を見ることが出来ず、微かに震える脚を抑えることも出来ない。
 お願い…早く、早く……お願いだから、出て行って…――。
「来ないで!!」
 声を張り上げるも虚しく、ヴィラはリリィの方へ足を進める。決して狭くはないが、ただの一個室では逃げ場はなく、安易に真白く細い腕を掴み身体を反転させた。
「い、や…やだっ、離して!」
 首を振り拒否するその様は、まるで嫌なことから逃げ出そうとする幼い子供。
「リリィ……」
 本当は、初めて会った時のように心身ともに不安定な今、彼女に追い討ちを掛けるようなことは言わずにそっとしておくつもりだった。
 ユリスを通じて聞いた、リリィのために生きてほしいという彼女の義母の言葉。その言葉を叶えることは出来ず、認めたくない現実だけがある。だからこそ、自力で自分たちの元へ戻ってきてくれるまで待ち続けたかったのだ。
 しかしボワフォレ王国はこちらの都合など待ってはくれない。もうこれ以上犠牲者を出さないためにも、本来の力が覚醒したプリエルビスが必要不可欠なのである。彼女にとって辛いこと極まりないが、ヴィラたち――メダデュオ帝国の者たちも、決して穏やかな気持ちで彼女の力を頼るわけではない。
 ただ、それを今のリリィが理解出来るはずがなく、
「こんな力なんて…、プリエルビスなんて欲しくなかった! 皆、皆私のせいで……私なんて護る価値もないのにっ、私が死ねば誰も傷つかなくて済んだのに…!!」
「リリィ!!」
 いつも優しかったヴィラの初めて怒った声、表情に、リリィは思わず肩を揺らす。
 プリエルビスを授かったことを悔やんでほしくはなかった。たとえ嘘でも、冗談でも、自分が死んだ方が良かったなどと、言ってほしくはなかった。その結果、大きく声を張り上げてしまうことになる。
 リリィがいなければ、力を授かっていなければ、エクサル国王はもちろん、ユリスが若くして死ぬことはなかった。ボワフォレ王国との戦も起こらなかったかもしれない。それは紛れもない事実。しかし、セントキエティム王国は未だ戦乱が続いたままだっただろう。
 彼女はただプリエルビスという力を授かっただけ。彼女は、
「君は特別な存在なんかじゃない。普通の…、泣き虫な女の子だよ」
 ずっと欲しかった言葉に、リリィの瞳からは自然と涙が流れた。
 決してプリエルビスはいらないと、本心で言っているわけではない。自分が選んだ路なのだから、後悔などしていない。それでも、…それでも心のどこかで自由になりたいと、そんな思いを秘めていた。
 かつてユリスとヴィラに連れて行ってもらった、今でも鮮明に蘇るあの美しい草原で言えなかった思い。もしかすると、二人は自分のこの気持ちを理解していてくれたのかもしれない。それでも何も言わずにいてくれたのかもしれない……。
「ほら、また泣く」
 苦笑いをしながら赤く濡れたリリィの眦に手を添え、ヴィラは雫を拭い去る。その行為が何だか歯痒くて、思っていたよりもずっと彼の手が温かくて……。
「……だから、俺の前では無理しなくていいんだ。泣きたい時は泣けばいい。辛い時は辛いって、苦しいって言えばいい。完璧な人間なんて、どこにもいないんだよ。俺だって、…もちろんユリスだって」
 彼の優しさが、痛い。自分がどれほど子供染みていて、我儘で、莫迦なことを考えているんだろうと見せ付けられてしまう。
 リリィは倒れ込みながらヴィラに縋り付き、ヴィラは何も言わずリリィを優しく包み込む。そして先程の言葉によって、箍が外れたように抑え込んでいた感情を吐き出した。
「こ、なの…酷過ぎ、る……ずっと、ずっ…生きてほし…、…どし、てユリス、だけ…っ」
 途切れ途切れになる声は、ヴィラの胸でくぐもって消えていく。
 ユリスとヴィラは、自分を護ると言ってくれた。だから、私も二人を護りたいと思った。一緒に生きていきたいと思った。でも、ユリスはもういない…―――。







 抑えきれないほどの光が、身体中から放たれる。予想以上の力に逃げ腰になったが、両肩に置かれたヴィラの手に支えられ、もう一度前方に強い視線を向けた。
 リリィはプリエルビスで戦乱を平定する、と言った。
 もう一度自分の力を信じたい。本当にもう、誰も失いたくない。その強い思いが、彼女自身を奮い起こさせたのだ。
 ヴィラにプリエルビスを使う間は身体を支えてほしいと頼み、彼はもちろん、と快諾してくれた。自分でも覚醒した本来の力がどれほどのものであるかなど、全く見当が付かない。一人でも大丈夫なら構わないのだが、抑えきれず気を失ってしまえばそれで終わりだ。二度目はないのだから。
 掌で項から下げた、…ユリスに預けた茜色のグラセを包み込み、指を絡ませた。胸まで引き寄せ静かに瞳を閉じれば、
 ―――何もかも、無になる。
 精神は非常に落ち着いていて、感じるのは微かな風の馨りと木々の囁き。それ以外は、視覚は当然のこと、雑音も一切入ってこない。
 更に足が地に付いていない感覚に陥る。ふわふわと浮かび、高い天空にまで手が届くのではと思うほどに。尤も、今リリィの眼の奥に映る景色は、全くの無の……何もない白の世界だが。
 そこへ一筋の光が差し込む。それは彼女を照らし、そして何もなかった世界を照らし出す、希望の光。
「…っ!」
 一気に現実に引き戻された。
 突然襲ってきた痛みは頭から始まり、神経を伝わって全身にまで広がる。そう、手足の指先にまでも。
 身体を支えていた脚がガクンと一気に折れた。そんな彼女に真っ先に気付いたのは、もちろん彼女を背から支えていたヴィラ。
「リリィッ!?」
 そして背後から彼女を見守っていたソフィアは、その姿を八年前のリリィと重ね合わせた。内乱を平定し、亡き夫エクサルが抱き抱えた気を失った時の彼女と。もしかすれば、もう彼女は―――…。
 その答えは、リリィ自身の口唇から告げられる。
「……ごめん、ヴィラ…。戦乱が終わるまで、在(い)られそうにない……」
 もう少し一緒に生きたかった。メダデュオ帝国が、ボワフォレ王国が、そしてセントキエティム王国が本来の姿を取り戻すまで、誰もが幸せに生きていけるようになるまで……。
 でも、もう指一本動かすことすら出来ない。辛うじて未だ自由なものは、茜色の瞳とか細くなった声だけ。意識でさえ、痛みのお蔭で保たれている状態だ。刻々と意識が遠退いている自覚もある。
 プリエルビスが覚醒したと言っても、リリィの身体に大きな負担を掛けることに相違ない。まして生涯に一度しか使うことの出来ないはずの、戦乱を平定するほどの力を、更に以前とは違い二国に使用するのだ。死の可能性があると、不本意ではあったがリリィ自身だけでなくヴィラの頭の隅にも小さく存在していた。
 だからこそ、その万一のことが起こってしまった時に、彼が言おうと決めていた真実……。
「――…リリィ、ユリスのことで、聞いてほし……」
 ぷつりと途切れた言葉。リリィは眼で先を促すよう言ったが、小さく頸を振る。
「……いや、もう構わないよ。もし…黄泉(むこう)で会うことが出来たら、その時に聞けばいい」
 ユリスの実父がエクサル国王であること。そして彼がユリスに殺された時、魔法を使っていたためにリリィの力で治癒出来なかったことを話すつもりだった。しかし彼女の中でエクサルの死を受け入れているならば、もう何も言う必要はないと思ったのだ。
 この時、ヴィラの瞳に薄っすらと滲む涙が見えたのは、恐らくリリィだけだっただろう。
 いつもユリスと共に傍にいてくれた。彼らがいてくれたから、この国へ連れて来られてからの月日を自分らしく生きることが出来たと、そう思っている。
 言葉では恥ずかしくて言えないけれど、…二人のことが好きでした。ほんの短い時間だったけれど、私の掛替えのない人……。
 そして弱々しい瞳は、ヴィラの背後にいた義母の方へ移された。
「……お義母様…。私、お義母様と、…お義父様に出会えて、本当に倖せでした。本当に…心からそう思っています……」
 距離を取っていたソフィアはリリィの傍に歩を進める。いつもの優しく、凛とした表情がそこには在った。
「私も貴女に会えて、とても倖せだったわ。…もちろん、エクサルもそう思っていたはずよ。……本当に、ありがとう」
 温かな掌が、蒲公英色の髪を撫でる。そうしてソフィアは、リリィの頬にそっと口付けをした。
 ずっと憧れだった、大好きだった義母。もう会えないと思うと哀しくて仕方なかったが、怖くはなかった。お義父様が、ユリスが、…そしてお父様とお母様がきっと待ってくれているから―――。
「……は、い…」
 その言葉を口唇が紡いだ後、彼女は非常に穏やかな表情で茜色の瞳を閉じた。

 それから間もなく、戦は終焉を迎えた。そしてセントキエティム王国を加えた三国は共に歩んでいくことを誓い、再び平和条約の元、繋がる。
 もう二度と、このような戦乱が起こらぬよう誰もが願い、そして祈る。それこそがプリエルビスの力。
 スィフレ暦九九八年。今、黎明が告げられた―――。

 

 

 

 

 

第十二話 / Epilogue    


2006.3.27



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