コツコツと、広い廊下に靴音が響く。
 多くの者が出入りするこちらの棟においても、その最奥となれば人気はない。元来部屋の殆どを使用していなかったのだから、それは当然のことと言える。
 この城が建設された当時は皇子・皇女共に大人数であったが、今では城内に住んでいる者も少なく、特にかつて謁見の間として使用していた部屋のある別棟は、清掃の手間がかかっているに過ぎない。
 どうにかして、他の用途として使用することが出来ないだろうか。城内に住まう者たちのためではなく、この国で生きている者たちのための、何かを。
 思案し、メダデュオ帝国第二皇子、ヴィラ=ウォレンサーは小さく溜息を吐いた。
 戦乱が平定され、再び以前と同じ生活を送れるようになってきている。しかし、その以前の生活が豊かであったかと言われれば、頷くことは出来ない。恥ずかしながら自分の実父である、カーザズ=ウォレンサーによる暴慢な統治のため、貧富の差があったことは否めないのだ。
 だからこそ、親の尻拭いではないが、出来る限り全ての者がより良い生活を送ることが出来るよう、模索し始めた。
 尤も、まだまだ考えなければならないことが多過ぎる。一つ解決すれば、また直ぐに新たな問題が出てくる。安易に万事休すと考えていたわけではないが、こうも終わりが見えないと思わず投げ出したいと思ってしまう時もあった。
 また、母のノイカに言われたことがある。
「目先のことばかりではなく、一年後、五年後、十年後、更に先のことを見据えた政治を行いなさい。国を支えていくためには、目先の利益や幸せだけを追求していては駄目なのです。そのようなことでは、いつか崩れてしまいますよ」
 と。
 その言葉はずしりときた。今この時を救っても、豊かになっても、それが続かなければ結果としてカーザズと何ら変わりはない。あのような統治は二度と行われるべきではないのだ。
 成人して間もないとはいえ齢十八という理由で逃げ出し、甘えるわけにはいかない。自分の脆弱な気持ちをぐっと抑え、再び前を見据えた。


 ヴィラは、一つの部屋の前で足を止めた。そしてその扉を軽くノックし、中からの返事を待つことなく扉を開け、部屋へと足を踏み入れる。
 大きく存在を主張する窓。それを覆うカーテンの隙間から陽が差し込んでいるだけの中は薄暗い。
 扉を静かに閉めると、ただ真っ直ぐにその窓へと歩を進める。その他のものが一切眼に入っていないかのように。……いや、眼に入れようとしていないのかもしれない。それほど彼の視線に揺るぎはなかった。
「おはよう。今日は雲も少ない、綺麗な青空が広がるそうだよ」
 カーテンを開け、部屋に陽の光をたっぷりと入れる。同時に薄暗かった辺りは明るく照らされた。明瞭に浮かび上がる、アンティーク調の家具類。そしてヴィラはそれらの中でもひと際大きなベッドに視線を向け、声をかけた。
 ―――返事は、ない。
 ベッドに腰を下ろすと、新たな負荷が掛かったそれはギシ、と音を鳴らす。しかしそのことによって導き出されるのは、沈黙の後のヴィラの小さな溜息だけ。
 こうして溜息を吐くのは、一体何日目だろう。ただこの部屋のみで吐く、僅かな期待と望みが零れ落ちるような息。
 ……分かりきっていることだ。今この時は奇跡としか言えない。誰一人として、本人すらも予想していなかった未来なのだから。これ以上望むことはおこがましい。だがしかし、一つ叶えば更に新たなことを望むのは人間の性(サガ)だ。頭では理解していても、今≠満足出来ないと心は先を望む。
 人前では立場上そのような感情を曝け出すことはないが、それでもこの部屋に独り≠ナ来てしまえば、抑制が利かなくなる。義兄がいなくなり、彼が自分を支えにしてくれていたように、自分も彼にどれほど支えてもらっていたのか痛感した。気持ちを吐露出来る相手がいることの幸せを噛み締めるばかりだったのである。
 つと、扉を叩く音が耳に入った。次いで「ヴィラ様、いらっしゃいますか」という声。
 短く返事をすると扉はゆっくりと開き、そこに側近の者が立っていた。
「そろそろお時間です。お支度が出来次第、お願い致します」
 予め、ヴィラは彼にこの部屋に来ることを伝えていた。そして時間がきたら呼びに来てほしい、と。存外この部屋に来て時間が経ってしまっていたようだ。
「あぁ、今行く。先に向かっていてくれ」
「分かりました」
 そう応えると、側近は先程と同じくゆっくりと扉を閉めた。
 再び部屋に流れる沈黙に、視線をベッドに戻したヴィラは、もう一度溜息を漏らす。
 ベッドの上で流れる蒲公英色の髪。サラ、とそれを梳き、あの日(・・・)から変わることのない表情を見詰める。

 メダデュオ帝国・ボワフォレ王国の戦乱を平定し、約ひと月。
 あの日から、リリィ=アークトレスは眠り続けていた。
 息を引き取ったわけではなかった。しかし眼を開けることは全くなく、ただ穏やかに呼吸しているだけ。その手は温かいのに、握っても握り返してこない。幾ら揺さぶろうが、唸りの声を上げることもない。
 その原因はプリエルビスの力であることに違いないだろうが、実際彼女にどのような影響を及ぼしているのかは誰にも分からない。城内に住まう女医の話では、少なくとも医療という技術では彼女を目覚めさせる手立てはないとのこと。可能性があるならば、治癒魔法くらいだろう、と。
 治癒魔法は、非常に高等な魔術である。それを使用出来る者は、少なくともメダデュオ帝国内では誰一人いない。勿論ユリスも治癒魔法を会得することは出来なかった。
 因みにリリィの場合、彼女の治癒能力は魔法ではなくプリエルビスの力であるため、魔法とはまた別のものなのだが。
「俺の涙を返せ、なんて。早く言ってやりたいよ、リリィ……」
 髪を梳きながらひと月前のことを思い出し、薄く笑みを零す。
 死に近付く彼女の姿を見、流すことは何とか堪えたものの、滲む涙を瞳から消し去ることは出来なかった。恐らくそれを知っているのは、リリィだけだっただろう。
 あの時のことが、笑い話とまではいかなくとも、思い出として語ることが出来る――。
 彼女の心の臓が未だ正常に機能していると分かった時、自分のリリィに対する言動に少しばかり恥ずかしさを覚えたが、それ以上に再び共に生きていけることに何よりの幸福と喜びを感じた。
 しかし現実はそう甘くはなかった。リリィの眼がいつ覚めるのか、それは誰も知り得ない。
 明日かもしれない、数年後かもしれない。もしかすれば、ヴィラがこの世を去るその日になろうとも、彼女は眠り続けているかもしれない。
 出来ることならば、この手で彼女を眠りから救いたいと思う。
 そのために必要である治癒魔法――魔法を使用するためには、自身の『気』をコントロールし放出することが前提となる。
 ユリスでさえ成し得なかった治癒魔法を、自分が使用出来るとは考えてなどいない。それは百も承知だ。だが『気』をコントロール出来ぬヴィラには、その時点で彼女を救える可能性がない。それが悔しくて仕方なかった。
 自分が彼女にしてあげられることとは、一体何だろう……。そう考え、彼は一つの約束を思い出した。
 本日王位継承式が執り行われ、正式にヴィラ=ウォレンサーはメダデュオ帝国の国王となる。
 同時にそれは、この国が新しい路を歩き始めるということだ。
 かつての戦乱で数え切れないほど多くのものを失った。失ったものを、過去を取り戻すことは出来ない。だからこそ、二度とあのような過ちを犯すわけにはいかない。
 リリィと約束したのだ。誰もが心から笑うことの出来る、そんな国にしよう、と。





『ヴィラ……』
 あれは確か、ユリスがこの世を去った後、半分無理やりにリリィの部屋へ入り話をした日。幾分か落ち着きを取り戻した彼女は、ポツリ、とその名を呼んだ。
 ヴィラの腕の中で縮こませていた身体を起こし、彼と視線を合わせる。
 泣き腫らした瞳は赤く、彼女を歳相応かそれより少し幼く見せる。その一方でリリィの表情は、繊細で儚く、だが凛として揺るぎないという、どこか矛盾したようなものだった。
『私、この国――ううん、この争いを平定するために、プリエルビスを使うわ』
『―――リリィ、』
 君は本当にそれでいいのか――?
 そう言おうとして、ヴィラは言葉を呑み込んだ。
『……この世全ての人を救うことは出来ないわ。救われる人がいれば、救われない人もいる』
 ――…それが、現実。
 誰かを救うということは、その誰かのために他の誰かが犠牲になる、ということだ。それは決して曲げられることのない理(ことわり)。
『皆の幸せと同じように自分の幸せを望むなんて、やっぱり欲張りよね』
 どこか自嘲染みた、しかし揺れることのない瞳。
 彼女が、どのような想いで先程の言葉を口にしたのかは分からない。もしそれが、数多くの人々の幸せのために自分が犠牲となることを決意した、といった意味を含んでいたのだとすれば……。
 ならば直ぐにでも否定……反論したかった。それは違う、君独りが犠牲になる必要などないのだ、と。何故この細い肩に、幾つもの国を背負わせなければならない状況が、作り出されてしまったのだろう。
 ヴィラはごく普通の少女として、リリィに幸せになってもらいたいと願っている。それはきっと、ユリスも不器用ながらも同じ想いだったはずだ。
 彼女の犠牲――プリエルビスを使うことで起きる反動となろうその犠牲が、身命であるのか、ヒトの尊厳となり得るものなのかは分からない――があってこそ、平定への道が開かれる。たとえ本来の力は感情に左右されないとはいえ、生半可な気持ちでは二国の戦乱を鎮めることなど出来ない。
 それはヴィラも分かっている、分かっているのだ。だから…―――。
『――…なら、その後を担うのは俺だね』
『ヴィラ…?』
『プリエルビスの力でこの争いが平定された時…、その後に国を纏め再び築いていくために必要なのは、魔法でも何でもない、あくまで俺たちの力≠セ。そしてそれを率先して行うのは。……この国の皇子である、俺の役目』
 そう…、前皇帝であり父でもあるカーザズ、そして義兄のユリスがこの世を去った今、第二皇子であるヴィラが担うべきことだ。
 何より、彼女にだけ背負わせるなど、ヴィラ自身が許せなかった。
 プリエルビスという力を授かった彼女と、一国の皇子でしかないヴィラ、それぞれ決められた路は違うだろう。だがしかし、ずっと一緒にいたいと想っていた人を喪った気持ちに違いなどない。
 辛い気持ちは同じだというのに、彼女だけその感情を抑えなければならない。そんな莫迦なことはあってはならないし、させたくなどないのだ。
 だからこそ自分は、少しでも彼女の負担や不安を和らげる存在でいたい。
『……大切な人を喪って、辛い――哀しい思いをするのは、俺たちが最後だ』
 皆が笑っていられる国を、世界を、この手に掴もう―――。
 そうしてヴィラは、リリィに微笑みかけ言葉を紡いだ。
『―――ッ、うん…!』
 ぽろぽろと茜色の瞳から零れる涙。
 リリィには、数え切れないほど多くの涙を流させてしまった。それは決して、嬉しさから零れるものばかりではない。……いや、そのような感情から泣く姿など、見たことがあっただろうか。
 彼女を護ると、ユリスと誓い合ったのはいつのことだっただろう。
 もう哀しい涙を流させはしない。次に彼女が見せる涙は、どうか喜びに満ちたものでありますように……。
 心のうちでそう願い、もうこの世にはいない義兄と誓いを交わすように、リリィをそっと抱き締めた。


 約ひと月前の会話を思い出し、ヴィラは小さく息を吐く。
 まだまだ彼女と話したいことが、もっともっと知ってほしいことがあった。他愛のない話や、自分のこと、リリィのことを。……ユリスのことを。
 それでも―――。リリィの眼が覚めた時、彼女が今度こそ自由という名の翼を手にすることが出来るならば。それ以上何を望むことがあるだろうか。
 そのためにも、自分が出来ることを精一杯やろう。彼女が眠りから覚めるいつか≠フために、その時に彼女が心から笑ってくれるように。プリエルビスという力が、決して不必要なものではなかったのだと、胸を張って言ってもらえるように。
「……じゃあ、行ってくる。この国と共に、君も新たな路を歩み始めることを、心から願う―――」
 ヴィラはリリィの温かな頬をそっと撫でる。
 鷲を象った紋章が刻印されている留め具のある、正装用のマントを翻して部屋を後にした。

 

 

 

 

 

第十三話 / 後書き    


2007.3.31



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